4-5 試練③ 夫の言い分




 それでも–––––

 


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《おっと、反省なんてさせねーよ。お前には言い分がある。そうだろう? ヒャヒャヒャヒャ‥‥》

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 –––––私には言い分がある!


 

 妻よ、お前は知らぬだろう。私がどれだけお前達のために身を粉にして働き、お前たちを養う為に下げたくもない頭を下げ続いているのか。どれだけの屈辱に塗れ、私情を犠牲にして、父親の義務を果たしているのかを。


 恥ずかしながら私は自分が凡庸な能力しか持っていない人間だと自覚している。社会に異才を放ち、単独で立って稼ぎを得る力などはなく、その他大勢の労働者の群れと一緒になって稼ぎを貰わなければならない立場だ。疲れた労働者たちの項垂うなだれた列に連なって、会社に寄生してへつらわなければ生きてはいけず、そうしなければ日銭を稼ぐこともできない。だが、こうした私は惨めか? 


 ‥‥‥まあ、惨めなのだろう。どう足掻いたって、私は他の何者にもなれない群れの成員だ。しかも、その群れの中ででも私は真ん中よりは上には行けない。群れを飛び抜いて出世する力もないのだから。社会のメイン通りを肩で風を切って歩いて、他人を退かせたり、こうべを垂れさせたりできる偉い存在になれる筈もない。私は日々、下げた頭の数で必死にノルマをこなし、日当を得ている一生使われだけの労働者の一人にしかなれないのだ。


 かと言って、この辛苦の生き方を嫌っている訳ではないのだ。私はいくら頭を下げようとも私の守りたいものを守れればそれでいいと思っている。平凡なりに懸命に生きて小さな幸せを守って行ければそれでいいのだから。


 ‥‥‥小さな幸せとは、お前たちのことだよ。



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《言い訳、言い訳。ヒャヒャヒャ。このDV親父がよお。ちょっと突っつけば、いくらでも言い訳が出てくるよな〜。今さら取り繕ったって、何の説得力もないけどな〜。ヒヒヒ》  

    vs

「フレー、フレー⭐️ ウーミーちゃん!⭐️」

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 しかし、分かってはいるのだ。そんな苦労など取り立てて自慢するようなことではないと。世間一般の間ではごくごく当たり前すぎて、話の種にもならないことだ。

 そうだ。こんな苦労など当たり前すぎて無価値なのだ。


 社会というものは大多数の私のような人種の者で回っているのにも関わらず、馬鹿げていることにその私のような人種の者こそ貶められて、けして評価はされないのだ。上がり目のない奴隷労働者だと馬鹿にされる。その底辺の人員が、まさに底で社会を支える土台となっているのにだ。


 私の娘を含め、まだ苦労知らずでいられる若い世代には、日々プライドを売って生きているような私たちなどは、さぞかし格好の悪いしなびた中年男に見えていることだろう。現実には彼らの多数が私と同じ人種となる予備軍であるのだが、まだ猶予の時間を与えられて無知であれる彼らには、萎びた我々が、彼らとは違う人種に見えるのだろう。


 その無知はとても残酷だ。自分たちが命懸けで守っている子供たちが、指を指しながらカッコ悪いと言ってくる。ああはなりたくないと蔑んでくる。

 だが強く反論はできまい。確かに私たちには上がり目がない。若者たちには絶対に望まれない生き方なのだろうな。

 それにいくら罵られようとも、いずれ彼らも私たちの群れに加わるのだから、ならば言える時に自由に言わせてやってもいいのかもしれない。


 ‥‥‥娘もこんな疲れ果てた群れの一人である私をさぞかし蔑んでいることだろう。


  

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「そんな事ないよ!⭐️ お父さんのことカッコいいと思ってるよ。スズメちゃんは!⭐️」

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 ‥‥‥いや、自覚しているよ。

 自分がカッコ悪いことなんてのはな。



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「ん?⭐️ いまウミちゃん、私に答えた?⭐️」

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 私は自嘲の笑みを浮かべてそう呟く。

 腹のガスはすでに完全に尽きているので、オナラでコミュニケーションはもう取れない。実はいま語っている言葉はすべて、ただの心の声になる。なので妻に話しかけているていなのだが、実際は誰とも知れず独り言を呟いている格好になっている。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「我々は次元の違う場所にいるので、彼に聞こえてるはずはないんですが‥‥。無意識に声を聞いて答えてる感じでしょうか」

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 それでもこの萎びた男にも、なけなしのプライドはあるのだ。いくら社会や会社の歯車に成り下がろうとも。媚び諂うことに慣れ、自分自身で上手くそれを隠せるスキルを得たとしたしても。男には抑えつけきれない自尊心がある。プライドというものは生来、生存のために備わっている闘争心と同じものなのだ。だから男という生き物が本当に自尊心を手放してしまえば終わりだ。そいつは病んで壊れてしまうのだから。



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《ヒャー! なんっだよ。ツマンネーことグダグダ言ってんじゃねー。さっさとキレろや! 馬鹿じゃねーか。お前らの社会はプライドの殴り合いだろうが。くだらねー自尊心を奪い合って殺し合いをしろ! プライドを傷つけられたら殴る。殴られたままなら奪われる。頭を下げたら負け。単純なルールだ。殴り合いもできない腰抜けが底辺なのは当然だぜ。ヒャヒャ》

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 いいや、違うよ。それは違う。プライドと言っても私が言いたいのは傲慢になることではないんだ。ましてや好戦的になることでもない。

 私がいま言わんとしていたプライドとは、頭を下げることにむしろ誇りを持つことなんだ。

 自分が頭を垂れるのはあくまでも「家族のためだ」と言い聞かせてな。



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《アン? なんだぁー? 気味が悪りぃぜ。コイツ、返答しやがった》

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 現に社会は凡庸な者に傲慢さを許してはくれないしな。場違いに頭を高く上げていようものならばイキリだって、頭を力一杯押さえつけながら下げさせようとするだろう。

 だからせめて、なけなしのプライドを守る為に、下げる価値のある頭だと自負して、自分から頭を下げるのだ。

 毅然と。礼節深く。気迫と信念を持ってだ。

 


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「ウミネコ様、分かります。私にもこの仕事で似たような苦労がありますので。思うに、守るべき者の為に首を垂れるのは、真に強さを持った者の矜持なのではないでしょうか。私も常日頃守るべき方々の為に、そのように強くあれればと思っていますよ」

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 あの娘などは天真爛漫すぎて、家庭や自分を守るためにしているそうした父親の苦労など知ろうともしない。

 ‥‥‥でも、それはいい。娘はまだ子供なのだから。まあ、いつまでも子供でいてくれても困るのだがな。

 しかし、ハト。お前は私の妻なのだろう。私と一心同体のようなものじゃないのか? だったら、なぜ理解していててくれないんだ?



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《そうそう女ってのは、男の苦労も知らずにいい気なもんだよな〜。知ってて当然のこともわかっちゃいねぇ。バカで何もわからねぇなら、せめて黙って従えてんだよな。気が気かねぇし、役にも立たねー。ヒャヒャヒャ》

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 なあ、ハト。

 私はこんなふうに会社で惨めな思いをしているんだよ。だったら、家の中だけでも少しだけ威張らしてくれてもいいんじゃないか?

 確かに私は無様なかもしれない。お前たちを養う為にプライドをすり減らして、醜態を晒しながら会社にしてしがみついてゆかなければならない甲斐性のない男だ。

 だがな、惨めで世間的に見栄えの良い男でなくても。家族に気が利くことを何一つできない男であっても。私のような不器用な男がお前達のために死ぬ気で尽くして、やり遂げようとしていることがある。


『お前たちの為に働くことこそが愛なのだ』


 私は口下手で分かりづらい男なのかも知れない。

 でも分かってくれ。この無口な男は、お前たちに雄弁な愛を行動で示し続けているじゃないか。

 それだけは分かってくれ。評価をしておくれ。

 私はこれからも、どのような屈辱にあわされても耐えるつもりだよ。

 頭を下げ続けるつもりだ。

 すべてはお前たちのために、なのだ。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「なんにせよ。愛する人のために尽くす労働こそ聖なるものです。私はそれを愛と認めますよ」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆


 

 だからこの家の中だけでは。お前だけは、会社で下っ端としてコキ使われるこのつまらない男を、家では重役のように煽ててくれてもいいじゃないか? 

 

  なあ、飯を作ってくれ。

  屁をこいたら笑ってくれ。

  お前だけは私を褒めてくれよ。

  なあ、‥‥頼むよ。



          ⚪︎


 

  ぷすぅー‥‥



 と、すかしっぺが悲しげな音色を奏でて放たれる。

 少しだけ腹に蓄えが戻ったので、その僅かばかりのガスを言語化して放出したのだ。

 いつもは居間でふんぞり返り、私こそがこの家の家長だと、これが男らしさの証だと、家の外にまで聞こえる大音量で豪快にこいていた屁は、ほんとんど音を立てずに消えていった。

 そうしてようやく腹の中で捻り出した言葉は、そのように弱々しく情けないものだったが、私は〝そこ〟に夫としての言い分のすべてを込める。


 私もずいぶん妥協したものだ。こうまで譲歩して和解を求めたのだ。だからきっと伝わるだろうと思った。

 これで妻の怒りが弱まったら、二人で話し合って、ここから落とし所を見つければいい。そうすれば私は〝夫としての苦労を尊重された形〟で、関係を修復できる。そう計算した。


 だが、事は思い通りにいかなかった。

 妻は理性を吹っ飛ばして、ずっと怒り狂っていたからだ。



「キエエエエーーーーーー! チェストーーー!」



 先ほどの私の愚かな行為への報復はまだ続いている。私が心の声を呟いていた最中も、体中は叩かれ続けて、ついに丸めた新聞紙が折れ、妻は一刀となっていた。しかし片方の獲物がなくなっても、何百と私を打ち叩いても、妻の怒りは収まることはなく、さらに大きなものへ膨らんでいるようだった。

 一度、振り上げてしまった手(怒りの屁)による破綻は大きなものだ。愛情の深かった熟年の夫婦とて、暴力によって亀裂の入った関係を修復するのは難しいだろう。









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