終②
「うみねこ様、実を言うとあなたは昨晩、非常に危険な状況にありました。肝を冷やした場面が多々ありましたが、あなたはその試練を立派に乗り越えました。そのことを含めて、重ねてお祝い申し上げます」
「そうだよー⭐️ 悪いヤツに誘惑されて、すっごい危なかったんだからー⭐️ ハトちゃんとのアレ、ぜんぜん夢なんかじゃなかったんだよー⭐️」
私は二人の話を聞きながら、眼下に広がる世界を眺める。このまま天国行きの切符を手にしてお迎えということになると、ついにこの景色も見納めになると思ったからだ。
この世界の片隅に生まれ落ちて半世紀以上をここで過ごして来たが、これでお別れだと考えると、空から見下ろすこの広大な景色は元より、地球という星の自然や大気に至るまで、自然な感情で愛おしいもののように思えてくる。大空から大地を抱きしめて『今までありがとう』と言ってやりたい気分だった。
「もー、ウミちゃん。私たちが目を離している間に、どこかへ行っちゃうんだもん⭐️ 探すの、ほんと、大変だったよー⭐️」
‥‥ヤレヤレ。人が感傷にひたっているというのに小言をうるさく言いおってからに。
しかし、こうやって年頃の娘にブツクサと言われていると、どうしても思ってしまう。
––––あいつはどうしているのだろうか。
––––あいつは元気でいるのだろうか。
不意に〝あいつ〟のことを考え出すと、それからは心配が止まらなくなる。
––––いつもなら、〝あいつ〟はそろそろ起きて、朝の支度で慌ただしくしている頃だろうか。
––––孫たちが寝ていても、お構いなしで〝あいつ〟は朝はうるさいからな。
––––料理をする為にジャンジャンバリバリと、平然とフライパンやら鍋を鳴らしおって、いったいどういう神経をしているのやら‥‥‥‥。
そうして心配から始まったものが愚痴に終わる。私の半生というものは、際限なくこの繰り返しだった。この世界での滞在期間が差し迫り、惜別の風景を目に焼き付けようとしていても、どうしたって私の心は〝あいつ〟に向かう。〝あいつ〟の姿を思い浮かべてしまう。けして〝あいつ〟から離れることはできない宿命なのだな。
しかし、
すると、そうか‥‥。
はたと私は気づく。
––––〝あいつ〟とはこれで本当の本当に、今生の別れとなってしまうのか。
そうしんみりと考え、静かに寂しさを思うと、私は漠然と眼下を眺めるのをやめて、探しものを見つけるために目を細めて地上を見つめるのだった。
⚪︎
交通量から見て、今頃はもう通勤が始まる時間なのだろう。
列車が走り出し、まばらに物流の車も走っている。
あれは私が勤めていた会社のトラックだ。
––––ここから見て、〝あいつ〟はどこにいるのだろうな‥‥。
私は空から環状線を目で移動して、帰宅の途に着く。
見覚えのある建造物を確認しつつ、いくらか道に迷いながらも、やがて何度も通ったことのある近所の大型デパートを見つけ出す。
––––あのデパートで〝あいつ〟にせがまれて、ランドセルを買ったのだったな‥‥。
交差点を右折して、
公園を抜けて、
目的地はもうすぐだった。
––––そうだ。動物園に行かなかったかわりに、〝あいつ〟をあの公園に連れて行ってやったら、ひどく癇癪されたっけ‥‥。
上から見ると、あの辺りもずいぶん街並みが変わったものだ。
ほとんど家が新しく建て替えされ、又は人が入れ替わり、表札が変わっている。
きっと私の居場所だったあそこだけが、区画に中で取り残されたような場所になっていることだろう。
あった。
屋根に特徴のある古ぼけた家。
あれが私の家だ。
––––けして素直には言わなかったが‥‥。
––––〝あいつ〟が家に戻って来てくれた時は、本当に嬉しかったな‥‥‥。
かつて私と妻と娘が暮らし、
今は娘と娘の優しい夫と孫たちの暮らす
‥‥‥私たちの家だ。
–––––––––––––––––––––––––
‥‥‥‥スズメ。
愚かな我が娘。
我儘で、癇癪で、親不孝であり続けた私の悲しみの子。
思い出すだけで胸が痛くなる。
確執は深く、心に残る蟠りは山のようにある。
だが、すべて許すさ。どんなに愚かな娘でも、父親が子を見捨てるはずはなかろう。
と考えて、そこでふと思い出す。
‥‥‥そうか、そうだった。
肝心なことを忘れていたよ。
父親としてあいつの為にやらなければならない仕事が、私にはもう一つ残されているのだった。
‥‥‥ならば是が非でもこのまま彼らに天国へ連れて行ってもらい、神に会わなければならないな。
⚪︎
「そもそもなんで、ウミちゃんってば、試練が始まってすぐに自滅するかな?⭐️ わたし、ビックリしたよ⭐️ もぉー⭐️」
それからも住み慣れた家を見つめながら、しばらく惜別の時間は続く。
横で何事かをブツブツ言われるのは、私にとって生涯の習慣のようなものであったので気にも留めない。それに口うるさいのも慣れてしまえば、これはこれで楽しくもなる。うみねこ流、人生のコツだ。
––––– いま思えば年を取って孤独にならず、いつも家が賑やかだったのは、それだけで贅沢で幸福なことだった。‥‥あいつは私と一緒にいることで孝行をしていてくれたのかもしれないな。
そう思うと、急に感情が高ぶってくる。
目頭が熱くなり、家族への惜別の思いが強くなる。
–––––スズメ、お父さんはここにいるよ。
–––––お前はジローくんと仲良くして、孫たちと達者で暮らすのだぞ。
などと瞳を潤ませながら僅かに残された時間の限りを、家族との思い出に心を駆け巡らせて費やしていたのだったが、そこで良いものが見つかる。
見つめる視界の端に、幼い頃から何度も通った馴染み深い川が映ったのだった。
「ん、スズメちゃん?⭐️ そうそう、スズメちゃんがね。ウミちゃんのためにいっぱいお祈りしててくれたよ⭐️」
川を見つけると、私の心は踊った。
踊って跳ねて、心が海の彼方へと馳せてしまう。
さてさて、この情熱をどう処置すればよいのやら‥‥。
目の前には天の役人がいる。そろそろ時間が差し迫ってきていそうだし、それどころではないという事は重々に承知なのだが、『ラストチャレンジで行ってみたいかな』という思いが出てきてしまう。
〈‥‥釣りに行きたいな〉
でも、いくらなんでもそれは無理だろう。
わかってる。わかっているさ。常識がなさすぎる。
だから、ちょっとだけ想像してみよう。
実際にには行かないけど、想像力の中でならいいよね?
今、こんな時に釣りに行きたいとか、まさかまさかそんな我儘は絶対に言わないけど。心の中でちょこっとだけね。
これはあくまでも想像の話なのだが、––––心の中で私はブギウギを踊りつつ、愛用の釣り道具一式を身に纏った。それで先ほどまで名残惜しんでいた家を早々に離れ、スキップしながら釣りに出かける。後ろからは外出する私に対して、スピーカーで喚くがごとく文句を垂れ流す娘の声が聞こえた。––––あくまで想像力なのだが。
「聞こえたでしょ? ピンチの時に声がさ⭐️ あれ、実はスズメちゃんの祈りパワーだったの⭐️ すごいでしょ⭐️」
さて、あの近所の川から海に出るとなると、‥‥うーむ、経路は。このまま下流へと目で辿って‥‥。あそこの支流を曲がって‥‥。で、この辺りは埋め立てられているから、上空からは川が途切れたように見えるが‥‥。ところがどっこい、この私は趣味で市内の川の動線は把握している。お茶の子サイサイでひょいひょいと飛び越えて。ほれ、もう海にたどり着いた。
そうだ。海だ。
私が生まれ育った第二の故郷だ。
途端に五感が一気に研ぎ澄まされて、私の心に青い潮騒が想像される。
「あー、また、変なこと考えてる⭐️」
海か‥‥‥‥。
いいなー。
いいよな〜。最後に行きたいな〜。
「もー、ウミちゃんてばー。スズメちゃんがいつも呆れて言ってたよ⭐️ 『お父さんは本当にどうしようもなくお父さんなんだからー』てね⭐️」
うん、‥‥アレ?
あ、でもこれって、もしかして朝釣りとか行けちゃう感じかな?
ちょっと時間あるかな。あるよね?
ダメもとでこの人たちに聞いてみようかな。大丈夫かな?
「‥‥コホン。それではまだ名残惜しむこともあるとは思いますが。もうトラブルが起きないよう可及的速やかに移動しましょう。天の国の入口まで我々が同行させて頂きます。うみねこ様、長い人生の旅路。本当にお疲れ様でした」
「はーい、責任もって連れて行くよー⭐️ もう勝手にどっかに行かないでねー⭐️」
白服の男がニコニコしながら私の片腕に腕を絡ませてガッチリと組んでくる。女の方も同じような笑顔を作りながら、男とは反対側の腕にガッチリと絡ませてきた。
「さっさ。それでは参りましょうか」
「ダメだよー⭐️ ダメダメ⭐️」
少しだけ時間に猶予をもらえないか頼んでみようかと思ったのだが(本当にちょっどだけだよ)、どうやら私はだいぶ信用がないらしい。その有無を言わさぬ圧に私は天を仰ぐ。いよいよ私の釣り道楽は年貢の納め時のようだ。
私は地上に別れを告げる最後の瞬間に、名残惜しく海を見つめたのだった。
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