4-9 試練⑦ 和解


 

 物音に気づく。

 コンコンとぶつかる音。カナブンがまた照明に突撃し出した。

 思索に夢中になるばかり、少しの間、意識が飛んでいたようだ。


  

「わたし、そんなつもりじゃ‥‥」



 そう言いながら酷く動揺する妻。恐らくいま妻の心の中では、怒りに任せて夫を打ち叩いた罪悪感が、激しく渦を巻いている事だろう。


 痛い–––––––と、私は強く感じた。


 感じたのは私の肉体の痛みではない。妻のその心の痛みを、はっきりと自分のものとして感じ取ったのだ。


 

「ごめんなさい。わたし。こんなことをしてしまって‥‥」



 ‥‥お前が謝ろうというのか? 必要ないというのに。悪いのはすべて私だ。私なんだ。

 ハト、叩け。いいのだ。お前は愚かな私を叩いてくれ。それでお前の気が済むのなら、その痛みをさえ愛そう。私はお前の重荷のすべてを担いたいのだ。

 私はそのように考えて、謝罪など必要はないと伝えようとしたのだが。


 (‥‥と言っても、人を叩いてそうも言えんか。さっきまであれほど怒っていたのに。もう人の心配か。まったくお前という奴は心根の優しい健気な女だよ)


 このまま妻に謝罪の言葉を言い切らせて、一旦それを受け入れようと思った。勿論、その後に私の方も誠心誠意、謝罪する心づもりでいる。しっかりと言葉にして、妻に土下座の意を示すつもりだ。長いトンネルの出口が近づいてきたことを察する。こうしてお互いに譲り合い、どちらからも謝罪の言葉を引き出せれば、和解はすぐに成ることだろう。苛烈を極めた夫婦喧嘩の解決は間近だった。



「あなた、それで、あの、本当にごめんなさ‥‥‥」



 だが、私は思い直して妻にみなまで言わせなかった。

 謝罪を切り出すのなら、やはり私からが筋であろう。だから妻の言葉を遮った。

 そして、私は素早く行動に出た。

 すかさずハエ叩きの柄を取り、二人を隔てていた網目を取り去ってみせたのである。


 二人の間には、もはや隔てるものは何もなかった。

 妻のキョトンした目を真っ直ぐに見つめる。

 年齢が高くなり、ここまで顔を近づけ合うことは、あまりなくなっていたが、久々の夫婦の距離感である。

 私は微笑む。そうして妻にいつものように心の声で語りかけた。


 –––––ハト、許してくれ。私がすべて悪かった。


 と謝罪だけのつもりだったが、


 

「‥‥‥‥‥愛しているよ」



 思わず口に出して愛を告白してしまう。衝動的な感情の発露だった。自分でも意図しない思わぬ行動であったため、言った自分がびっくりしてしまい、ウブな男のように少しだけ恥ずかしくなってしまった。



「えっ!?」



 その私の言葉を聞いた妻は、驚きのあまり呆然としてしまう。

 半世紀ぶりぐらいの肉声だろうか。それよりももっとかもしれない。母親の胎内から出てきた時から私は無口だったらしいが、本当のところいつぶりくらいだろうか。とにかく覚えていない。妻は大変驚いていた。娘もこの場にいたら、さぞかしビックリしたかもしれない。



「‥‥‥‥あ、アレ? えーと、あの」



 男が口を開く時は大事の時だけである。くだらぬことは決して言うまいと心に決めて、長らく口を閉ざしていたが。‥‥‥‥そうか。

 愛してる、か。

 久しぶりに口に出した言葉の内容がこれである。

 ‥‥まったく持って悪くない。

 真心からそう言えたことに私は満足していた。



「あ、あなた、ごめんなさい。えっと、私、ちょっと、どうかしていたみたいなの」



 妻は動揺しつつ、自分の行った行為を悔いている。

 当初、私は妻に一方的に罵られ打ち叩かれる覚悟であったというのに。それが互いに譲り合い。許し合う。見事な喧嘩両成敗になってしまった。

 私は妻の謝罪を受け入れて、黙って頷いた。

 

 ––––はは、許す、許すさ。当たり前だろう。私も改めて言わせてもらう。すまなかったな。


 私のその思いが伝わったのだろう。妻は笑い。私も微笑んだ。それから私たちはお互いの目を見つめて、もう一度、笑い合った。

 


          ⚪︎



 では、事の顛末を話そう。

 今となっては、なぜあんなにも激怒して憎しみあっていたのか分からない。何か見えない悪い力に操られて激情に駆られていたような感じもするが、駄々とこねくり回していた屁理屈をまた蒸し返して、自分の弱さを言い訳にするつもりはない。私が悪かったのだ。

 ついさっきまでは決して分かり合えないと思われた私たち夫婦は、お互いに譲る姿勢を見せたことで簡単に和解に至った。

 憎む時はこれでもかというくらい長文で罵って不満を言い募ったのに、仲直りするまでは何のことはなかった。伝えるべき言葉はたった一言だけでよかったのだ。


 ただ、その一言が口に出されるまでの葛藤が非常に長かった。

 言いたいこと、やりきれない感情をすべて飲み込んで、関係を修復させる為、自分が痛みを受け入れて、妻を愛そうという決意に至るまでに、散々に右往左往して立ち往生して、憎む時以上に精神のエネルギーをヘトヘトになるまで使い切ってしまった。

 愛するが為の理由を作る為に、宇宙万物の理を通して、神に頼って、様々な思索を総動員して、考えに考え尽くし、ようやく覚悟を定まらせた。

 そして、いざ和解する時は、あっさりとしたものだった。

 この許し合えた時の呆気なさを考えたら、誰もがあれ程のエネルギーを使って憎むことが馬鹿らしいと思える程にだ。


 それで、ええと、‥‥怒るきっかけとなった理由は何だかな? ああ、そうか。すっかり忘れていたよ。腹が減っていたのだったな。

 腹は減ってはいるが、決裂する程のことだろうか。別に一食抜いたところで死にはせんだろう。武士は食わねど高楊枝というやつだ。本当に馬鹿らしい。むしろなぜこんな瑣末な事であんなにも怒れたのだろう? 不思議になってくる。憎むような理由など最初からなかったのだ。


 こうして私たちは喧嘩両成敗し。互いに譲り合い、許し合い、そして最後には笑い合って、また元通り仲の良い夫婦に戻ったのだった。

 もう少ししたら、スズメも帰ってくるだろう。そうすればあいつと妻のおしゃべりが始まるから、夕飯の件もそこで、なんやかんやで解決するだろう。

 このいざこざの中でちょっとした事件があり、久しぶりに肉声で話してしまったことで口が疲れてしまった。だが必要なことはすべて伝えられた。なのでこれからまた私は長く口を閉ざすことだろう。


 こうして今晩も何事もなく平和に、ウミネコ一家の家族団欒の時は続いてゆくのである。

 それからも私たち夫婦は一人娘を大切にし、互いに助け合って幸せに暮らしましたとさ。

 

 めでたし、めでたし。



          ⚪︎



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

《てっ、ゴラァ! 勝手にめでたしやってんじゃねぇ!》

   vs

「これにて一件落着。我々の勝ちのようですね。引き下がりなさい。これ以上はあなたにもそれなりの代償を払ってもらいますよ」

   vs

《うるせぇ! こんなん納得できるか! チクショウ!チクショウ!》

   vs

「それじゃあ、これで終わりでいいのかな?⭐️ 平和に解決できてよかったね⭐️ 落着落着⭐️」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆


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