4-8 試練⑥ 愛を成し遂げる道


 この世界には痛みが満ちている。人々は常に傷を負って痛みに喘いでいる。

 それを癒す方法は簡単だ。共に暮らす皆で、痛みを分かち合えばいい。世界の痛みの分量は決まっている。皆で協力して痛みを担い合えばいい。


 しかし誰もが痛いと言い。誰もが傷を負うのが嫌だと言っている。我慢のない私たちは自分が傷つきたくないばかりに他人に痛みをなすりつけたがる。だから結局のところ、皆が傷つけ合うばかりで救いはない。

 傷を引き受ける強い者がいなければ、癒す者もなく、助ける者もいない。皆が深く傷ついていながら、皆が自分の痛みだけを抱えてうずくまっている。


 誰しもが言う。「ああ、誰かが担うと言ってくれさえすれば!」「みんな意気地のないことだ。一人もいないのか?」と。だが、考えてみてくれ。誰もが苦しみから逃げようとする世界で、迂闊に手を上げてしまえばどうなるだろうか。担い手はその人しかいないのだから、彼に一斉に痛みが集中してしまい、とんでもない重荷を背負わさる事になるだろう。

 だから決して誰も手を上げない。

 愛なく救いのない世界とはこういうものを言うのだろう。

 そう悟ったこの時、私にはあの十字架にかかり苦難を負った男の後ろ姿が見えた。


 ––––この道だ。この道こそが。


 男が歩んでいたのは、この愛なき世界に見える一筋の救いの道だったのだ。

 誰もが自分の苦しみに囚われて愛することのできない世界で、人が愛するために歩む道を指し示してくれるのだ。

 だが、見えていながら私はたじろき、即座にその後ろ姿を追って、男についていけなかった。恐れたのだ。

 愛するということが、ただの綺麗事ではないと知ってしまったからだ。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「そうです。あなたは畏れを知り、自分の無力を知った」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 私は先程まで癇癪に近い形で妻に怒っていた。醜態を晒している間、自分の怒りには正当な理由があり、少しも堪えることもせずに、放埒のまま怒りを表現する自分は正しいと言っていた。が、その内容は言い訳のできない程の愚かな狂言だった。ただの瑣末な行き違いだと笑い飛ばすこともできるのに、自分の考え通りにならないと、思い知らせる為に妻を痛めつけてやろうとさえ思った。自分の存在そのものを揺るがすような譲れない理由のように大仰に言い募ってだ。それまでは自分が立派な男であり、夫であると自負して、大きな心を持っていると驕っていた。

 そうだ。驕っていたからこそ私は小さなプライドが傷つけられると簡単に憤り、築き上げてきた関係をかなぐり捨ててまで、自分が怒ることに拘った。守るべき存在であった妻をさえ傷つけようとし、それに気づくと、自分のやらかしてしまったことを受け入れる勇気を持たず、妻を労ることよりも自分の自尊心が傷つくことだけが恐ろしくなり、体裁ばかりを取り繕い、卑下して弱気を見せ、ついにはため息を吐いて諦めたり、自分可愛さに泣き言を言った。そして、あっさりと理想としていた自己像から挫折した。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

《ヒャヒャ、そうだ。自分が何をしでかしたか思い出せ。クズのDV親父がよお〜。ゴミクズ野郎がよお〜。調子にのってんじゃねえ。教えといてやる。地獄ってのはお前らゴミクズどもを燃やす焼却炉なんだぜ。ヒャヒャ》

    VS

「ゴミなんてそんなことないよー⭐️ 頑張って、ウミちゃん!⭐️」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 本当に誰かを愛する為には、その人の荷を負わなければならない。傷を負い、その人を自分の痛みとしなければならない。それがどれ程の苦しみとなり、負担となるのか果てを知れない。愛は喜びではあるが、楽しいことばかりではない。時にその人の為に苦痛を負わねばならず、傷つけられることや、裏切られ失望させられることも、耐え難い我慢を強いられることもあるだろう。愛するという行為は測り知れない忍耐の覚悟のいる事なのだ。例え大切に思っている相手でも、その苦痛が真に迫るものであるならば、他者の荷を自分のものとして担える者は少ない。

 にも関わらず、私には漠然とした自信だけはあった。自分だけはそうした臆病で薄情な者たちと違っていて、常日頃、いつも名も知らぬ隣人に対しても、これほど親切で善良な人間であるのだから、いざと言う時も雄々しくあれるのだと思っていた。ましてや自分の家族の為だったら尚更、勇敢になれるであろうと思っていた。

 だが実際に苛烈な混乱や苦痛が加えられると、自分ばかりが痛い痛いと主張して、すぐ側にいる最も親しいはずの人の苦痛を無視した。その荷を持ってやろうなどという事も考えなかった。

 そうした自分の愚かしさ見せつけられて、呆気なく自信が崩れると、私はすっかり怖気てしまった。そして疑問に思った。本当に自分は人を愛せる者なのかと。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

《ヒヒヒ。お前には誰も愛せないよ。本当にお前はガッカリな奴だよな〜》

    VS

「ううん。負けないで!⭐️ ずっと頑張ってお父さんしてきたじゃない⭐️ 私はスズメちゃんの横でずっとずぅーと見ていたよ⭐️ だから誇って!⭐️ こんな奴に負けちゃったら、スズメちゃんだって悲しむよ!⭐️」

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 かつて愛することに傲慢だった私だ。誰にも依頼まず、自分の力を尽くしさえすれば、いかなる困難も乗り越えられると思っていた。しかし、愛することに挫折して、自分にはもうこれ以上愛することができないという限界を思い知らされる。さらには砕かれて誇れるものがなくなった私は、情けなくて浅ましい自分の本当の姿をまざまざと見せつけられる。

 私は弱くて愚かだ。虚栄心でこしらえていた矜持が剥がされてしまえばとんだ情けない男が現れたものだった。


 ‥‥‥それでも私は誓いを果たすよ。


 惨めでも苦しくても、初めに誓った愛を忘れてはいない。私にとって誓いとは軽いものではない。妻との婚姻届を出した時に––––。妻がスズメを出産して抱いている時に–––。命を賭けて家族を守り抜くという誓いはなされている。その決意の時に、未来に苦難があることは想定できただろう。それにはこの苦難をも含まれている。私は自ら望んでその責務を請け負ったのだ。迷う事はあっても、今さら家族を愛するという基本軸を考え直すということは許されない。そもそも私に愛さないという選択肢はない。誓いはすでになされているのだ。私には愛すという一択しかないのだ。‥‥‥それをはっきりと思い出した。

 無能でも愚かでも、時にこのように間違えることがあっても、意地でも家族を守り、家族の為に生きる。それ以外、私にどんな生き方ができようか。傷だらけの矜持を抱えて歩む。それがこのウミネコという男なのだ。


 そう思い直し私は、再び十字架の男の背中を見つめた。胸に勇気と力が湧いてきたのだ。

 先ほど、恐れたじろいだ道にもう一度踏み出そうとする。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

《いやいやダメだね。もうお前はお終いだ。そら、自慢の矜持は失った。そら、楽しかった釣りはもうできない。家族にも失望した。なあなあ、諦めちまえよ〜。そんなものに拘ってないで何もかも捨てちまえよ〜。弱い弱いお前を慰めるものなんて他にいくらでもあるだろう? 酒なんかどうだ? 他の女でもいい》

    VS

「聞いてはなりません。確かに愛には苦難がありますが、苦難があるからこそ成し遂げる価値があるのです。かつてあなたは家族を愛することを誓いました。その誓いは今だ遵守されています。あなたは何も反故にはしてはいません。誇っていいのです。さあ、行きましょう。あなたが求めようとしている力がある険しき道の続きへ」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 私はついに一歩踏み出した。

 あの背中––––十字架の男は、人類のすべての人々の苦しみを背負ったという。見ず知らずのこの私のでさえもだ。彼はすべての他者の苦難を背負い。愛を全うした。彼の歩んだ道とは愛を成し遂げるための道なのだ。

 私は力を得て、二歩目を踏み出した。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

《おいおい、まさかアレに頼るなんて言わないよな。そりゃーねーぜ! おおい、今さらアレに縋ろうってのか? おいおいおいおい、ゴミ! 忘れたのかお前が愛だと言って自慢をしていたものは何だったんだ? 情けーね奴だよな。女に泣きついた後は今度はアレに縋ろうってのか? 軟弱者の糞ザコ野郎が! アアン?》

    VS

「彼は歩み始めました。あなたの声などもう届かないでしょう。それに彼は縋ろうとしているのではありません。あの方が進んだ荊の道へ、後に続いて歩もうとしているのです」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 そうだ。この道は愛を成し遂げる道だ。だから大いなる存在にすべてを責任を放り投げて、勝手に目的地まで運んでくれと願うものではない。楽をさせてくれ。便宜を図ってくれと懇願するものではない。私に愛を実現させてくれと懇願し、神に歩む力を祈り求めて、自らの足で歩むのだ。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。–––––うみねこ様、この言葉をあなたに贈りましょう」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 私がまだ傲慢であった時、カミは何の力も持たないただの文字だった。

 だが、打ち砕かれて自分の無力を知った今、神とは私が切に求める力を持つ、強き者となった。

 かつての古い力にかわる。強く、雄々しい、新しい力だ。


 歩むのだ。この足で一歩一歩と地を踏みしめて進み、鞭で叩かれる思いをしても、理不尽な罵声を浴びても、道に残されている足跡を道標として辿って、必ずこの愛をやり遂げてみせるのだ。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「そうだよ!⭐️ ウミちゃんはお父さんなんだから、頑張らなきゃダメなんだ!⭐️ 思い出して!⭐️ スズメちゃんも、ジローくんも、三つ子ちゃんも応援してるよ!⭐️ それに本当の・・・ハトちゃんだって、ずっとずーっと、ウミちゃんを待っているいるんだから!⭐️」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 道を歩み始めると同時に、私は人生で初めて神に強い願いを持った。神の存在を強くよくして、彼に出会うことを求めた。力が欲しかった。私はどうしてもこの歩みをやり抜く力が欲しいのだ。だから十字架の男に、あなたのように強い者として愛せるようになりたいと願った。誓った愛を成し遂げるだけの揺るぎない者に、いま生まれ変わりたいのだ。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「そうです。それは人にはなしえないことです。ですが、神にならばできる」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 ––––どうか与えて下さい。あなたの力を私に。この歩みを全うできるように、励ましと加護をお与えください。私がどのような困難に見舞われても、けして愛することを諦めることなく、家族を愛し守ることができるように、どうかあなたの道を力強く歩ませて下さい。


 そう願うと、急に私の目は開けた。

 いつも見ていながらも、見えなかったものが。

 見ていないようで、いつも感じていたものが。

 不義理な私をいつも励まし、見返りを求めずにただ見守っていてくれたもの力の正体が、見えるようになったのだ。

 

 ––––ああ、そうか。

   この力か。この雄々しい力。

   愛こそが、神の力だったのだ。


 不信心者だった私だ。神というものは漠然としたイメージのものだった。しかし今、愛することを願い、愛の力を欲した時、神という存在の輪郭が分かった。なんとなく存在を感じていたものの姿が、今はっきりと見えたのだ。


 力には源泉があり、みなもとには大いなる存在がある。

 ならば、神は––––––愛なのだ。


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