4-7 試練⑤ 愛ゆえの痛み


 現在、私の額にはハエ叩きが打ちつけれたままになっている。強く打ち叩かれた為に、この後も恐らく網目の跡がくっきり顔に残ることだろう。

 瞬間の閃きだった。妻の怒りをおさめた上で話を聞いてもらうには、この方法しか思いつかなかった。そしてその目論みは上手くいったようだった。

 人がこの一部始終を見れば、振り下ろされる獲物ハエ叩きにわざわざ軌道を合わせて顔面で受けに行ったのだ。意図が分からず、とても愚かしい行為にしか見えないとは思う。



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「うみねこ様、あなたは〝まさか‥‥!〟 この土壇場で気づかれたというのですか?」

「ん? どのまさか?⭐️ センパイ。どしたの急に?⭐️」

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 憤怒に取り憑かれた者に話を聞かせようとも、猛狂う感情が理性の邪魔立てをして、決して話を聞いてはくれないだろう。それは自分が体験して分かっている。怒れる者を説得することはできない。絶対にだ。ここで私も負けじと口を出して正論を述べてしまえば、泥沼になって言い争う事になり、それこそ殴り合いに発展する事になる。ならばどうすればいいか? 答えは簡単だ。落ち着かせる為に、あえて黙って殴られてみせる・・・・・・・のだ。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「‥‥そうですか。その行動。覚悟と気迫。私は察しましたよ。‥‥‥あなたは選択するのですね。弱さを互いに預け合って、共に涙を流し、慰め合い、痛みを分かち合うという選択肢もあったのですか。あなたはその厳しい道を行くのですね」

「え? どの道?⭐️」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆


 

 これは愛ゆえの痛みだ。

 さっきのあの瞬間。一瞬の閃きと共に望んで私は痛みに飛び込んだのだ。

 そして、ハエ叩きが顔面を打ち抜くその刹那に、確かに私は妻を愛せていた。スローモーションで迫ってくる獲物ハエ叩きを見ながら、微笑みつつ、私はこのように思っていた。––––(妻が怒声をあげて罵倒するならすべての侮辱に耐えるつもりだった。妻が憎いと言い、叩くのならばすべて受け止めるつもりだった。)––––私は愛ゆえに、妻の気が晴れるならば、右の頬も左の頬も、私のすべてを差し出すつもりだった。



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《ヒヒ、ヒャ‥‥‥!? そ、その力は! 〝まさか!〟 おいコラ、バカなこと言ってんじゃねー! 女は暴力で分からせるもんだろうが! オラァ! 問答無用でひっぱだけ!》

    VS

「コイツもまさか?⭐️ しかもなんか急に焦ってるんだけど⭐️」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 私はもう一度、妻に微笑みかける。ありったけの慈しみを込めてだ。

 生涯、ただ一人、命を賭けてでも守り愛すると誓ったそのひとを網越しに見つめる。

 妻は肩で息をして感情を露わにしていた。高齢となり小柄だった体が、最近ではさらに痩せてしまっており、今は気のせいかもっと小さくなっている。私の愚行のせいで体からすっかり体力を使い果たさせてしまったようだった。その疲れ切ってしまった妻の姿を見て、私は悲しく思う。


 –––––そうだ。私はあの時、自分の醜態を直視することができず。必死に体裁を取り繕うばかりで、まだこの妻に直接謝罪もしていなかったのだ。自分はなんと臆病で傲慢な男だったのだろう。


 愚かな怒りは愛を見えなくして、こうして愛すべき人を苦しめる。狂乱と激情が過ぎ去った後は、何もかもが壊れて、残骸の上に、自分は孤独に取り残される。そうして、それまで信じていた絆のすべてをため息に変える。愛など虚しいものだと悲嘆する。

 人は自分の愚かしさや弱い心を目の当たりにしてしまうと、その後に、たとえそうすべきであったとしても、すぐになかなか勇敢な決断はできない。臆病になってしまい身動きすることができなくなる。あるいは目を背けて取り繕うとする。私がまさにそうであった。

 だが私は己の愚かさをたった今、悔い改めることができた。あの光からメッセージを受け取ったその時に即断して、妻の為に、私こそが傷を負わねばならないと決めたのだ。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「その道は天へ通じる道。そして真の強者に至る道です。ですが険しく狭き道になりますよ」

「だからどの道?⭐️」

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 妻は小さくなって震えていた。憐れなほどに悲しい姿になっていた。

 その苦しむ妻から、自ら望んで彼女の傷を受け取り、身代わりになって痛みを受け入れようとした。そうして彼女の傷を我がものにしてしから、生々しい痛みを感じ取った時、一度は諦めかけた愛は、まだ生きているのだと感じた。彼女を愛してるのだと実感した。

 


◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「えー、わかんなーい⭐️ 誰かちゃんと説明して〜⭐️」

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          ⚪︎          



 コンコンコンと小さな虫がぶつかる音がする。視線を上げると、虫が蛍光灯にぶつかっているようだった。羽音をたてながら何度も光に向かって、無意味な衝突を繰り返す虫に悲壮感を感じた。私は顔に痛みを負いながら、網越しの妻の背後に見える天井の照明をじっと見つめていた。興味が引かれたのだ。

 しばらくすると音がやみ、照明には身動きをしなくなったカナブンらしきものが1匹張り付いていた。結婚当初は今のような小洒落た照明ではなくて、ただの古ぼけた電球だったなあ、などと昔の事を思い出していた。

 親から引き継いだこの古い家は私たち夫婦が暮らす用に一度リフォームしたが、もしスズメが家族を持ってこの家に住むようならば、全面的にリフォームする必要があるかもしれない。建物が古いし、建て替えた方が良いかもしれない。ああでもスズメは女の子だから、やっぱり家を出るのか。なら私たち夫婦二人が死ぬまでの間はこのままでいいかな。‥‥いや、何となく娘は将来もこの家に住むのような気がする。だとしたらやはり修繕が必要だな。その為の遺産もどれだけ娘に残せるか。何だったら私が生きている内にやってしまうかな。そうなるとこの居間の景色も見納めか。惜しいな。今の古い家には愛着があるんだ。やっぱりこのままでいいだろう。

 それでもいずれ修繕は必要になる。‥‥‥そうか、この景色はいつか懐かしいものになるのか。家族で写真でも一枚撮っておくか。などと考えて、それからも続けてとりとめのないことを考えていた。



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「急に話が変わった!? 本当にとりとめないよ、ウミちゃん!⭐️」


「‥‥‥‥あなたがその険しき道を歩もうと言うのならば私は何も言いません。ウミネコよ。あなたの求める天の奥義は苦難の先にあります。勇んで行きなさい。その道を」

「さっきから先輩に急に変なスイッチが入っておかしいんだけどー⭐️ なんで〜?⭐️」

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 などと言う、とりとめのないことを考えつつ、別の物に興味を移そうとする。今度は何がいいかなと思いを巡らせて、現在も顔に張り付いている小道具について考えてみることにした。

 この顔面に張りついたままのハエ叩きは、ほとんど出番のない無用の長物だった。田舎では知らないが、都会では街が清潔になりすぎて蝿など滅多に見かけなくなっていたからだ。じゃあ、なんでこんなものを家に置いているか考えたが。‥‥ああ、そうか、ゴキ田さんの為にか。そう言えば先日もゴキ田さんが台所から居間に挨拶に現れて散歩していた。私などは「やあ、こんにちは」などと言って優雅にくつろいでいたのだが、妻がこの世の終わりが訪れた如く騒ぎ出して、勇ましくゴキジェットとこのハエ叩きを両手に構えていたっけ。その後、スズメも参戦して、私が何もせずにくつろいでいるのを見て二人が怒り出して‥‥。それからあの時の戦いの行方はどうなったっけ‥‥?

 ああそうだ。スズメが妻から受け取ったゴキジェットでゴキ田さんを追いつめて、トドメにハトが天誅を‥‥。

 するとこのハエ叩きはゴキ田さんを‥‥‥。



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「先輩先輩、ウミちゃんから変な思考がずっと流れて来ているんだけど。これって大丈夫なの?⭐️」

「フフ。かつて出会った人々が思い出されます。絶海を越えて新大陸に向かった者。孤島の未開人に聖書一つで挑んだ若者」

「ねぇ、せんぱーい?⭐️」

「自らの危険を省みず、時の皇帝に王たる者の道を説教をした真の拝謁者もいました」

「自分の世界に入ってるし⭐️ 意味が分からんちん⭐️」

    VS

《ヤバいぜ! ヤバいぜ!》

    VS

「どの方も懐かしいですね。昔、別部署に配置されていた時の担当していた方々との胸踊る冒険を思い出しますよ。使命の為に大陸からこの島国に共に降り立ったあの時の感動も忘れませんよ。あの方も素晴らしい方でした。思えばあの冒険の記憶も遠いものになってしまいましたね。最近では気骨のある方になかなか担当できませんからね」

「うーん。もー、意味が分からんちんだよ⭐️ あ、そっかー。この人、2000年ぐらい前から地上で働いている古い人だからなー⭐️ ちょっと古風というかー⭐️ ぶっちゃけ古臭いというかー⭐️ 中世の感覚で〜⭐️ 今の時代のセンスの人じゃないんだよなー⭐️」

「聞こえましたよ」

「てへっ⭐️」

「おっと、そこは今の時代風にテヘペロでしょう。先輩を舐めないでください」

「押忍! てへぺろ!⭐️」

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 そこまで考えると一旦、思索を止める。そして、もう一度、妻に視線を戻してにっこりと微笑んだ。妻のくたびれた姿を見つめながら、少し悲しく思いつつ、中断していた思索を再開する事にした。

 今までのは前置きだ。超大な思索に取り掛かる為に行わなければならない瑣末な儀式のようなものだ。

 私は一気に思索のスケールを大きくし、宇宙的な視点からこの不条理で愛なきこの世界のことを考えてみた。非常に詩情に満ちる哲学的な気分になったのだ。今ならば世界創生の物語まで、想像力を働かせることができるだろう。

 そうして私は、この困難な状況を打開する道を見つけ出そうと試みるのである。

 


◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「‥‥そうですか。あなたはその境地にまで辿り着こうと言うのですか」

「え、今ので何か分かった?⭐️」

「分からないのですか?」

「イェッサー。分かりません!⭐️」

「ぜんぜん?」

「ぜんぜん、ぜんぜん!⭐️」

「あなたはまだまだ地上に派遣されてまだ年月が短いから人間の思考に不勉強なようですね。私のように最新のトレンドを取り入れるなどして勤勉になりなさい」

「イエス・ユア・センパイ!⭐️」

「ふむ、分かり易く例えで話しましょう。最近流行りの漫画やアニメなどで必殺技や覚醒シーンが入る時に回想などがその前に演出で入るでしょう。これはそれです」

「‥‥‥‥なんなん?⭐️」

    VS

《ヤバいぜ!ヤバいぜ!この感じ覚えがある。昔、戦った奴らと同じだ。こいつは覚醒の兆候だ。ヤバいぜ、そうなったら負け確になっちまう!》

    VS

「お前もなんなん?⭐️」

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