4-6 試練④ 怒れる妻2




「チェーーーストーーーー!」



 男のプライドを投げ売りに近い形にまでして引き渡したはずだった。自分の弱さまで曝け出して、どうか分かってほしいと懇願した。だが、伝えた言葉はすげなくされる。妻はハエ叩きを上段に構え、連打して、私の話を少しも聞こうともしない。私の尻がよほど憎いらしく、叩き続けることに熱中している。

 長年連れ添った夫婦に明確な亀裂が走り、これで互いの無理解は決定的になった。



「チェストチェスト! チェストォーーー!」



 私は心の中でため息を吐く。もはや手に負えない妻の乱心ぶりに、もう無理だ。諦めてしまおうという投げやりな思いが出てきてしまう。

 例え長年連れ添った夫婦であっても元は血の繋がらない他人なのである。

 自分は自分。あなたはあなた。つまり大切なのは距離感だ。

 夫婦ならば、愛があるならば、何でも分かり合えるとか甘い考えはもう言わない。この無様な顛末でよく思い知った。すべては幻想なのだ。夫婦であっても適切な距離感を間違えてはいけない。



「チェストチェスト! チェストチェストチェストチェスト!」


 

 ‥‥それにしても見事な剣捌きだ。

 妻のことはすべて理解していたつもりだったのに、私は妻がこれほどまでの剣の使い手であるを知らなかった。ずっと妻の話を聞いていたつもりだったが、そんなことでさえ私は知らなかったのだ。 


 

「チェストチェストチェスト!」


 

 振り下ろされる一打一打には、すべてに手抜きのない力が込められており、気迫があった。

 剣は語っていた。絶許を叫んでいた。

 その妻の怒れる姿を見つめながら、私はさらにため息を吐いた。



「チェストォーーー!」



 ‥‥どうせ何も伝えられないのだ。言っても分かり合えないのだ。もう無理をしてまで分かり合おうとか、頑張って歩み寄ろうなんて疲れることはやめてしまおう。『夫婦ならば』とか『愛があるならば』とか、そんな不可能なことを、なぜ期待しなければならないのか。やはり他人同士には距離感が必要なのだ。関係が上手うまくいかなくなることは、私たちだけが例外なのではない。広く世間を見れば、過去には蜜月だったどのカップルにもいずれ起こりうることだろう。

 上手じょうずに人付き合いをしたければ、いざとなれば近すぎたその距離幅をもっと遠くすればいい。それが大人の人間関係だ。付き合い方だ。それは私たちの夫婦にも言えることなのだ。そんな思いが心によぎる。



「キエエエェェ!」



 激昂する妻は、聞く耳を持たないという様子だ。少し前までは信頼し合っていた関係であったのに、夫である私に鬼の形相で怒りをぶつけ続ける。

 ああ、と悲嘆の声を心で出す。

 私と彼女は、結婚してどれくらいの年を重ねてきただろうか。一緒に暮らした年月の分だけ愛は深まっていたと過信していた。それが一瞬の出来事で破綻してしまう。


 

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

《ヒャヒャヒャ。本気で喧嘩をおっ始めやがった》

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 こうして私たち夫婦に最大の危機が訪れていた。



          ⚪︎



「チェスト!チェスト!チェスト!チェスト! チェストーーー!」



 妻は憎しみを込めて私の尻を滅多打ちにし続ける。もの凄い連打である。ハエ叩きを上段に構える姿は勇ましく、さながら女武者だ。薩摩示現流をここまで使いこなすとは、剣道初段は本当に伊達ではなかったようだ。それに体力もよく続く。いつもは、やれ腰が痛い、やれもう疲れたと言っている妻がここぞとばかりに逞しい。何かに取り憑かれたように猛攻は終わる気配がない。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「たいへーん⭐️ ハトちゃん、止まって〜⭐️」

    VS

《おい、ババア。そんなの振り回してないで包丁持ってこいや!》

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 諦める気持ちが次第に大きくなりつつあったが、それでも私はなんとか説得する隙を見つけ出そうとしていた。だが、隙がない。少しもない。剣道初段の妻から〝技あり〟は元より〝効果〟をさえをもぎ取るのも難しいと感じ、この選択を一旦引き下げる。



「チェスト!チェスト!チェスト!チェスト!」


 

 そうだ。ならば時間だ。間を置けば和解の機会が伺えるのではないか。

 このまま身動きせずに打たれるままに任せ、妻が体力を消耗し切れば、いずれは攻撃は止まるだろう。もしかすれば妻も怒りを一時的なものとして、すぐに忘れてくれるかも知れない。今は怒りが過ぎ去るまで下手なことをしない方がいい。その方が賢明だとは思う。


 しかし、心が耐えられるだろうか?

 叩かれば叩かれるほどに気が滅入り、どんどんと気力が削られてゆく。

 どうしてかわからないが、肉体から魂が露出しているような感覚がしていて、叩かれても肉体に痛みなどはないのだが、魂が消耗してゆくのだ。

 このままでは良くないと思う。気力が失われていっている。

 それならば一か八か、死線をくぐり抜けてもう一度、言葉を届けて‥‥‥。

  


「キェェェーーーーー!」



 妻は再び気合いの雄叫びを上げる。

 恐るべき薩摩の剣。連撃を打ち据えても打ち据えても、打ち終わらないのである。

 呼吸を整える間もなく、また恐るべき新たな猛攻が宣告される。私は休みなく繰り返される打撃から、まだまだ逃れられそうにない。その絶望感に思わず苦笑してしまう。

 その笑いが、私をさらなる失意の底へと落としてゆく。


 ––––この状況で真っ向から説得を試みる? 

 ––––ハハ‥‥。それは無理だろう。

 ––––これだけの怒りと敵意を向けてくる相手に対して、どうやったら愛情を伝えられるというのか? 

 ––––と言うよりも、こんな状況で無理をしてまで理解を求める必要があるのか? 


 ‥‥‥いや、ある。あるのだ。

 私は残された気力を振り絞り、心に言い聞かせる。

 こんな時にこそ、私は夫としての責務を示さなければならないのだ。

 今は妻を説得できなくとも、せめて。

 ‥‥そう、せめて。–––––愛情だけは伝えなくてはいけない。

 


「チェストーーーーーーー!」



 だが、一切の口出しは許さないと、絶許を叫びつつ、薩摩の凶刃が襲いかかってくる。

 かつて幕末の剣士たちを葬った豪剣が、最後の抵抗を試みようとする私の残された気力ごと叩き潰してくるのだ。


 私は弱々しく手を差し伸べる。妻に愛していると伝えたかった。にべもなく叩かれる。まだエネルギーチャージが心許ないが、なんとか言葉をかけようと尻を向ける。尻を連打される。


 しからば奥の手を使って‥‥、––––叩かれる。

 二の手も‥‥、––––叩かれる。

 三の手を繰り出してもダメだった。何度も叩かれる。


 それでも伝えようとした。精も根も尽きかけていても諦めることができなかった。最後の気力を振り絞った力のない手が震えながら伸ばされてゆく。

 妻の元へ、ゆっくりゆっくりと、縋りつくように。

 そうして、あと僅かで彼女の手を握りしめるところまで行くことができた。


 ––––あと少しだ。あの手を掴み、次の一撃を遅らせることさえできれば、思いの丈を伝えることができる‥‥。


 しかし、その最後の試みも上段から高く振りかぶった強撃で叩き落とされる。


 そして、ついに私の心は折れた。

 ポッキリと、これで私を立ち上がらせる力は何もなくなったのだった。


 ‥‥‥疲れた。

 何もしたくない。考えたくない。

 もう打たれるに任せてしまおう。

 だって無理なんだ。

 誰にだって、こんな状況だったら不可能だろう。しょうがないだろう。

 私にだって無理だ。

 だからもう、‥‥‥‥‥‥‥愛はやめてしまおう。


 そう何もかもを諦めようとした、その時–––––。

 それがとどめになるだろうと予想される渾身の一撃が、上段に高く高く振り上げられた、その時–––––。

 刹那、目の前を白い光が覆う––––––––––––––––––



          



 〈‥‥お願い‥‥‥様! ‥‥さんを助けて‥‥‥‥!〉  



               



 ––––––––––––––––––なんだ? この光は? 何かが見える。光の中に誰かがいて、人が手を合わせているようだった。そうして、送られてくる光には、メッセージが込められていて、微かにだが声が‥‥‥?

 

 

 するとどうだろうか。

 一瞬の閃きが起こる。沈み込んでいた心が再び奮起され、『それではダメだ!』と私の心が叫んだ。

 途端に気力が生き返り、さっきまで考えていた、ただ諦めるだけの事を賢いことのように言い、正しい振る舞いのように言うため息のような思考を振り払う。


 (私にこの衝動を起こさせてくれた光は‥‥‥。聖書を読んでいた時の光と同じものか?)


 もし決着らしい決着をつけず流されるままで終わらせてしまえば、この喧嘩で生じた亀裂は修復されず、先ほど溜め息混じりに考えたように距離感は開いたままになってしまう。ここで何も手を打たず放置すれば、きっと、私たち夫婦はこの喧嘩以前の関係には戻れなくなるだろう。

 ならば私が彼女の夫としてなさなければならない行動は明確だった。

 ただし、それをやるとなれば大きな代償と覚悟が必要だろうが‥‥。

 

 (‥‥‥フッ、迷うまでもないさ)


 そうして私は素早く考えををまとめて、瞬く間の即断即決で体を動かした。ガバッと上半身を起き上がらせて、妻の真向かいへと立ちはだかる。即ち、あえて打たれる間合いに自ら立ったのだった。


   

「チェストーーーーーーー!」


 

 その示現流の掛け声を最後に、妻の腕はピタッと止まる。

 上段から振り下ろされるハエ叩きが私の顔面を打ち抜き、その姿勢のまま固まったのだ。パシーン!といい音を立てての見事なメェーンであった。

 快晴晴れ渡るような気持ちのいい一本を取ると、どうやら妻は少し正気に戻ったようだった。

 ハエ叩きを顔面に打ちつけたまま私を見つめる。私も妻を見つめ返す。

 すべては覚悟の上のことだった。

 私の目には恐らく、先ほどまでの諦めた気持ちはなくなっており、生気が蘇っている事だろう。


 

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「あー、もー、よかった。やっと止まって⭐️ え、なになに? 先輩、なんでそんな目で私を見るのー?⭐️

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 それから、しばしの静寂があった。

 妻はじっと私を見つめ続けている。

 私もだ。真剣な目で妻を見つめ返し続ける。

 微動だにしないまま柱時計の秒針が回り、分を刻んでも、私たちはただ見つめ合って、互いに口を開くことはなかった。



「あ、あなた‥‥」


 

 ようやく妻が口を開き、自分が感情的になって我を失っていたことに気づき、たった今しでかしてしまった事を自覚し始めているようだった。

 妻の腕は震えて、疲れを思い出したのか。呼吸が荒くなる。



「わ、わたし。‥‥いったい何を?」



 妻は心根の優しい女だ。

 これほど執拗に相手をやっつけるまでする暴力など振るったことなどなかったろう。こんな風に我を失うほど感情的になったこともなかったろう。

 自分が散々に夫を打ちつつけたこと。そして今、己の腕で夫の顔面に食らわせているハエ叩きを見て、逆に面食らっているのだろう。(ウマイ! イッポン!)

 暴力性に疎い者は、突発的にやらかしてしまうと自分の行動の結果に唖然としてしまう。今の妻の精神状態がまさにそれだった。



「何で‥‥こんな事を」



 妻は酷く動揺している様子だった。

 私は妻に微笑みかける。


 (‥‥いいんだよ、ハト。もういいんだ)


 ハエ叩きの網越あみごしに見える妻の瞳へ、精一杯の優しさを込めて、そう心で語りかけたのだった。



















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