幕間

『黒服の二人と誘惑する⬛︎⬛︎⬛︎』


 

 

 うみねこお父さんがクルーザーに乗り込む前に出会ったあの黒服の二人は、お父さんと別れた後もトラブル対応に追われて忙しくしていた。ようやく段取りがついてそれが落ち着いて来たところ、辺りを見渡してみると、肝心のお父さんがいないことに気づく。二人は大慌てで、海のように広大な空を飛び回って、お父さんを探していたのだった。

 二人はほとほと困り果てていた。それからもお父さんは見つからず、ずいぶん時間が経ち、もう日も暮れかかっていた。水平線はオレンジ色の強い光を放ち、地上はすでに闇に覆われていて、空からは地上の景色は何も見えなくなっていた。



          ⚪︎



「おーい、ウミちゃん、どっこですかー⭐️」

「ウミネコ様‥。ウミネコ様‥。いましたよ。やや、あそこに一緒にいるのは」


《ヒャヒャヒャ‥‥》


「あれー⭐️ ウミちゃん、もしかして大変なことになってない?⭐️」

「大変なことと言うか‥‥。もう誘惑に取り込まれかかっているようですね」

「ね⭐️ 急いで助け出した方がいい感じ?⭐️」

「助けるのは無理そうです。だいぶ呑まれているようです」

「じゃあ、戦うしかないっか⭐️ ウミちゃん、待ってて言ったのに。勝手にどっか行っちゃうんだもん。もー、自業自得だよ⭐️」

「ええ、仕方ないですね。しからば、我々はお味方しましょう」

「うん⭐️」



          ⚪︎



《アアン、何だお前たち。邪魔だぞ。これはオレの獲物だ!》

「あんたこそ邪魔。しっしっ⭐️」


 なぜか考える人のポーズで固まっているお父さんを、大きな黒い霊が包み、《ヒヒヒ‥》《ヒヒヒ‥》と不気味な声を発しながら蠢いている。お父さんはポーズを決めたままピクリとも動かない。どうやら悪しき霊に精神が取り込まれているようで、意識はここにあらずである。


「あなた、その人から離れなさい。今ならば見逃してあげましょう」

《は? 嫌だね》

「話を聞く気はなそうですね」


 夜空を飛んで来た、黒服の二人組が颯爽と降り立つと、悪しき霊は自分の霊体を膨らませたり、激しく歪ませたりして二人を威嚇する。


《テメーら、やりあおってのか!》

「もちのロンだよ⭐️ ヘイヘイ、カモーン⭐️」


 黒服の女がシャドウパンチを見せて戦意を示す。


「これは避けられない戦いのようです。では––––ウミネコ様。予定外ではありますが、試練に臨んで下さい」

「うんうん、頑張ってー⭐️」



          ⚪︎



《ケヘヘ。こんなところに欲望丸出しで彷徨いているバカな奴がいると思ったら、そういうことかよ。のぼる間際の奴だったか。だからあまり汚れていない魂をしていたのか。こりゃいいぜ。美味しいぜェ。ヒヒヒ》


 黒服の男は所持していたタブレットを取り出して、この場で起きた一部始終の映像データーを見ている。タブレットの映像には先ほどまでのお父さんの姿が映し出されている。


「ふむふむ、なるほど、この言葉ですか。『愛は忍耐強い』この聖なる言葉があなたの力となり、拠り所となりますように」

「じゃあ、争われるのは愛だね⭐️」


 威嚇行動を示していた悪しき霊は、激しくしていた動きを止める。

 脅しでは追い払えないとみて、とりあえず二人組の話を聞いてみるようだ。


《‥‥フン。まあいいさ。お前達が介入してから奪う方がより多く奪える》

「どういうこと?⭐️」

《不意を打って盗み取るよりも、罪を自覚させてから奪い取る方が魂は汚れるものさ。抵抗したければ好きなだけすればいい》

「なるほど。考えているものですね」


 と言いつつ、二人組は移動して、戦闘準備のための各々の配置についている。

 二人は並列して、男の方がやや後衛気味に、女の方が前衛気味に立っている。


《お前らが来る前にこいつから大事な欲望を一つ取り上げて遊んでやったぜ。たいていの奴はそれで狂って崩れるんだがな》

「危ないところでしたね。うみねこ様が大切にされていたのは『釣り』でしたね」

《ヒャヒャ‥‥。もう少しだったのによお〜‥‥。【狩場】に連れ込んで‥‥。甘い毒をたらふく流し込んで‥‥。念入りに蕩けさせて‥‥。美味しい料理の出来上がり‥‥。ヒャヒャヒャ‥‥。これから、いよいよ食いつこうというところだったのによ。あーあ、食い損ねた。‥‥ヒヒヒ》


 この悪しき霊の言う【狩場】とは、先ほどウミネコがいたBARのことである。なんとあの場は悪しき霊が作り出した幻術空間であり。ななんと、この邪悪な霊はうみねこお父さんの魂を捕らえて、今まさに美味しく頂こうとしていたのである。お父さんは大ピンチだったのでした。


「フン。うさん臭いBARだこと⭐️ バカにすんなし⭐️ ウミちゃんはそう簡単にアンタの誘惑になんて負けないんだから!⭐️」

《キヒ‥‥。そうかな? 拠り所にしている欲望を奪ってやってから、代替えの欲望を見せつけてやれば罠だと分かっても、たいていの人間はオレ様の用意した餌にムシャぶりつくものなんだがな‥‥ヒヒヒ》

「でも負けなかったでしょ⭐️」

《でもジャブは確実に効いてるぜ。ヒヒヒ》

「その方は崩れませんよ。それ以上に家族を大切にされていたのですから」

《ああ、そうだ。愚痴っていた割に娘の方は完全に無理だったなあ。奴の追憶の中を覗いて、じっくり狙っていたのに結局つけ入る隙がなかった。あんなにも美味しそうだったのに。ヒヒヒ‥‥‥》

「そうだよ。ウミちゃんは、スズメちゃん思いのお父さんなんだから!⭐️ 家族思いのお父さんは無敵なんだよ!⭐️」


 と黒服の女が弁護人の立ち位置に立って、うみねこの事を誇ると、悪しき霊はくぐもった声で笑い出す。


《‥‥ヒヒヒ。ヒヒヒヒ。そうかよ。でもな、人間から愛を奪うのは簡単だ。人間は愚かだからいくらでもやりようはある。こっちには怒りや妬み、姦淫、冨、権力。武器は色々ある。ちょいと突っついて誘惑すれば、いずれ自分からすべてを差し出す。文字通り魂も含めてな。奪った後、それからそこに本来あったものを別のものに入れ替えるか、愛を堕落させて欲望に変質させてまえばいい。そして地獄に落ちるその時になるまで、自分が騙されて奪われたことも盗まれたことにも気づかないものさ。ヒャヒャヒャ》


 という嘲弄に対して、黒服の男が落ち着いた様子で応じる。

 

「語りますね。でも果たしてそう上手くいきますかね? その余裕があなたの命取りになりますよ」 

《はん! これから奴の妻との追憶の中に入り込んで、奴の妻を餌にして仕掛けるぜ。オメーら、ステージはそこだ!》

「おうよ、かかってこい!⭐️」


 命取りになると忠告する男の言葉を、悪しき霊は挑発と受け取り、感情を露わにしてそれに応じる。負けじと黒服の女もシャドウパンチを激しくして応戦するのだった。



          ⚪︎



「ふむ。ご存知のように、試練には厳格なルールがあります。ルールを破った場合、誘惑者のあなたとて罰を受けることは承知していますか?」

《承知、承知。ヒヒヒ。‥‥罰だって? なんだそれ? そんなもの、今まで一度も受けたことはないけどな〜》


 などと悪しき霊は嘲笑い。霊体を醜く歪ませる。その邪気を放つ体の中には、取り込まれているうみねこがおり、お父さんは黙ったまま動かない。


《負け知らずで困るよな〜。抵抗されてもよお。いつも楽勝すぎて笑いどころしかねぇ。特に人間様のオスはバカすぎてよお〜。いくら食っても獲物の方から口に飛び込んでくる。ヒャヒャヒャ》

「ずいぶん調子に乗ってるみたいだけど⭐️ ここから私たちも交えての仕切り直しなの分かってる?⭐️ 」

《ヒャヒャヒャ‥》


 居丈高に警告をする黒服の女。

 しかし、嘲笑は続く。


「ん?⭐️ ねえ、分かってる?⭐️ し・き・り・な・お・し⭐️」

《あ〜ん? なんだって? ヒャヒャヒャ‥》


 黒服の女の問いにまともに答えず、悪しき霊はニタニタと笑い続けている。


「‥‥‥ねえねえ、もしかして私たちのこと舐めてる?⭐️」

《ヒヒヒ。オマエは侮るぜえ〜。‥‥‥そっちの奴(男の方)は少し手強そうだけどな》

「ムカー!⭐️ 絶対、アンタなんかにウミちゃんを渡さないんだから!⭐️」


 夜空は少し荒れてきており、風が強く吹き始めている。おどろどろしい雲が辺りを取り囲み、勢いよく流れてゆく。うみねこお父さんを巡って、光と闇の戦いの狼煙は切って落とされようとしていた。



          ⚪︎



 天を覆う不気味な雲は光を孕み、その内側で小さな雷鳴がいくつも鳴り響いている。地上には突発的な大雨が降り始めた。しかも強風によって横叩きの雨になっており、雨具が役に立たない。予報にもなかった大雨に打たれて、地上の人々はずぶ濡れなりながら騒ぎ回っている。ある人は軒下を探して視界がままならないまま徘徊し、またある人は諦めて雨に打たれるままになっていた。運悪く天外に出ていた人々は、なべて気まぐれな天気の被害を被るしかない状況になっていた。

 しかし、ある人が雨から逃れようと走っていると、いきなり雨がピタリと止んだ。奇妙に思ってその人は後ろを振り返って見てみると、自分のすぐ後ろでは豪雨が滝のように地面を打ちつけているのである。まったく不可思議な光景だった。まるで境界線が設けられているように雨が降る場所と、降らない場所が分たれていたのだった。

 実はこの場所から距離を離して遠目で確認すれば分かることなのだが、この辺り一帯だけが局所的に景観を様変わりさせていたのであった。

 はたして天が何らかの意思を持って、手心を加えているとでもいうのだろうか。誰かが意図して操作したとしか思えない、一部地域のみを狙ったような、あまりにも急激な天候の変化だったのである。


 そして–––––一瞬の静寂の後、天空は閃光に染まった。

 大きな轟音を鳴り響かせて、雷鳴が走ったのだった。



          ⚪︎



 大きな雷鳴が鳴り響くと同時に、黒服の男は右手を高く上げた。

 そうして威厳を持って宣告するように言う。


「これは天の裁定による正式な試練になります。あなたは彼を誘惑し、我々は彼を弁護します。直接手を出すなどの行為は禁止です。その他の基本的な事項も宜しいですね?」

《ヒヒヒヒ‥‥‥いいぜ》


 稲妻が鳴り響く中、その喧騒が何でもないかのように悪しき霊は余裕をかまして話を聞いている。その舐め切ったような態度から、よほど勝つ自信があるのだろう。


「そして試練の舞台は、あなたからも指定がありましたように、うみねこ様の奥様との思い出の場となる【追憶の空間】になります。ですので試練が始まりましたら、あなたの狩場(BAR)からは強制的にうみねこ様を退出させますので」

「いい?⭐️ これは正式な試練になるから、アンタも私たちも干渉は制限されるからね⭐️ あくまでもルールに則った争いになるんだからね⭐️ 負けそうになってインチキなんてしたら許さないんだから⭐️」

《どうぞ。どうぞ。キヒヒヒ》


 余裕の態度を崩さず笑い続けている悪しき霊。この嘲笑を続けることで、二人に自分の優位性を示しているようだった。

 意図を察しながらも、その挑発を無視して、黒服の男はすまし顔で話を続ける。

  

「話を続けます。試練の舞台となる【追憶の空間】は、おおよそ八年前になります。時刻は21時27分。場所は居間。うみねこ様が寝そべりながら聖書を読み、奥様が楽しく話されている先ほどの場面の続きですね。その【追憶空間】の秒針を再開させます。時が動き出すと共に我々の争いも開始されますよ」

《いいぜ〜。ずっと覗いてたが、オレの見る限り‥‥。ヒヒヒ、娘の方は無理だったが、妻の方は誘惑できる隙がたくさんあったな〜。ヒャヒャヒャ》


 黒服の男の説明を聞き流して、悪しき霊はますます余裕ぶって挑発的なことを口にし出す。

 ところで辺りを包んでいたおどろおどろしい雲は、この会話の最中に、役割を終えたかのように、そそくさとこの場を去っている。バチバチにやり合っている彼らの背景では、静かに舞台装置の変更が行われていた。ここでも天が自らの意思でそうしたような、大いなる何者かの存在の差配が感じられるのだった。


《もう少しだったのに‥‥。あの花を奪い取ってから、ヒヒヒ‥‥。オレ様の狩場にある奥の扉をさえ、コイツに自分の手で開けさせれば、甘い姦淫の罪に誘い込めたのによお〜‥‥。あーあ、愛妻家を気取ってるジジイのだらしない狂態が見たかったなあ〜‥‥》

「ないない!⭐️ ウミちゃんがハトちゃんやスズメちゃんを裏切って、他の女と浮気なんてするはずないでしょ!⭐️」


 と憤る黒服の女に対して、悪しき霊は変わらず《ヒャヒャヒャ‥》と嘲弄する態度を取り続けている。言外に《お前らはどうせオレ様にかなうまい》と聞こえてくるような、まさに傲慢そのものの態度だった。

 だが、この傲慢さは根拠のないものではない。実際に多くの人々がこの魔物の餌食になっており、犠牲者の数で裏付けられた余裕なのである。

 そして、この魔物の新しい犠牲者になろうとしているうみねこは、貪欲な捕食者に取り込まれたまま逃げることもできず。考える人のポーズで固まったままでいる。ずっと意識はここにあらずで、精神世界に囚われているようだった。

 

「ふむふむ。この方の人生の経歴を見る限り、婚姻関係に問題なく、まったくと言っていいほど女性関係にも問題がありません。本当に宜しいので?」


 黒服の男は、再びタブレットを取り出して、うみねこの人生の軌跡のすべてが書き込まれてたページを見つめ、牽制の意味を込めてそう言った。


《女、女、女(笑)。キヒヒ。一番、得意な誘惑だ。今までに何人の家族思いのお父さんとやらが女で堕ちてきたか。さっきもお前たちが来るまでは、だいぶ蕩けてきていたんだ。ヒヒヒ。女で堕ちる奴は星の数ほど見てきたが、あれは本当に面白い。ああ、今まで食ってきた奴らの美味しい泣き顔が目に浮かぶぜ。かつての家族思いのお父さん達もオレの手にかかれば無様ったらないな。もう決めたぜ。コイツをどうやって壊すかをよ。性欲で堕とすよりもずっと面白い事を考えたんだ。ヒャヒャヒャヒャ!》


 そんなものは意に返さないと、大笑いを始める悪しき霊。


「何よ、悪巧み?⭐️ させないんだから!⭐️」

《嫌だね。するに決まっているだろうが。キヒヒ。思いついた思いついた。コイツが自分で大切にしていたものをぶち壊したらどうなるかな。‥‥キヒヒヒヒ。そいつあ、すっごく楽しいだろうな〜。キヒヒ。増える増える、すぐにコレクションがもう一つ。コイツの狂態も見ものだな》


 その小馬鹿にするようなその態度に応じて、


「ムッカーー!⭐️ 負けないで、愛を示して、ウミちゃん!⭐️ 愛は戦いだよ!⭐️」


 黒服の女が憤って、うみねこを鼓舞するのだった。

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