3-9 BARリリス② 誘惑


「ねぇ、私の話をちゃんと聞いてくれていた?」



 気づくと手には氷がだいぶ溶けたグラスが握られていた。今の今まで目の前には妻がいて、ずっと話を聞いていたような気がするのに、私はBARのカウンターにいた。

 忽然と世界が消えたような気がする。そして、その世界と入れ替わり、目の前にはママがいた。私に自分の話をきちんと聞いていたのかと聞いてくる。


 ‥‥‥‥あまりにも状況がおかしい。妻はどこへ行ったのだ? 私は居間にいたずではなかったか? 

 居間‥‥‥? 

 私は辺りを見回したが、どこをどう見ても自分がいるのはBARだった。

 

 馬鹿な。ここが自宅に見えるか?

 さては手に持っている酒を飲んで記憶が飛んでしまっていたのだろうか。いや、グラスには口をつけた形跡がない。私はまだ飲んでいなかったはずだ。そう、一口の酒も。

 

 違和感がどうしても拭えない。

 でも‥‥。と私はもう一度、辺りを見回して確かめてみる。

 

 ‥‥やはり今いるのは確かにBARだ。しかし私は妻の話を聞いていたはずだった。

 そう、妻の話を‥‥。

 アレ‥‥? ‥‥‥そうだったかな?


 BARは妖しげな雰囲気を醸し出している。私は記憶が抜け落ちてしまったことで、この場にいる事が少し怖くなってしまった。なんだかえも言われない不安を感じて、前後不覚に陥りそうな意識を立て直そうと、今『誰』と『何』をしていたのか、もっとしっかり記憶を思い出そうと試みてみる。 


 ‥‥えっと、それで私は考えていたんだ。あの本を見て‥‥。何の本だったかな? そう、そうなのだ。考えていたのだ。私は『愛する』ということを。



「そうよ、あなたは考えていた。私を愛するということをよ」



 私はママの言葉に驚いてしまう。

 そして動揺を隠せない私をよそに、ママは魅力的な⬛︎⬛︎⬛︎な唇を近づけ、吐息をかけてこう言う。


「フフ、横槍なんて許さない。あの邪魔者の言葉なんて忘れてしまいなさいな。あなたは私のもの獲物よ」


 ママは⬛︎⬛︎⬛︎の笑みを浮かべて言う。

 邪魔者? 誰の事を言っているのだろうか‥?


「フフフ、忘れたの? あなたは私と話していたの。ほら話していたでしょ。年頃の娘さんの話を。ウフフ、‥ずっとね」


 とても甘い香りのする声だった。その声に絡め取られるようにして、抱いた疑問が薄れてゆく。そして瞼をとろんと落として思った。

 ‥‥そうだったかもしれない。ずっとママに愚痴っていたのかもしれない。私はずっとこのBARにいた。そして、幼い頃の娘の話と、中学生ぐらいの娘の話をママにしていたのだ。


「そうなの。あなたは娘さんの話ばかりしていたわ。‥‥それでね。わたし、娘さんに勝つのは諦めちゃった。でもね」


 娘に勝つ?

 なんでママが娘に勝たねばならないのだ? 

 などと疑問は思ったが、ママの甘い声がそれをすぐに忘れさせた。


「ねぇ、それで聞かせてほしいの。奥様とのことよ。あの向日葵の」


 ‥‥‥‥‥妻? 


 ‥‥ああ妻のことか。

 妻には特に愚痴はないよ。

 こんな年寄りの惚気など聞かされたくないと思うが。

 私は妻のことが好きでね。私には勿体無いぐらいのいい女なんだ。

 ははは。そう言いつつも惚気てしまったかな。

 だからすまないね。私はあの花をここへ持ってこれないんだ。


「そうね。あなたは大切な【ツリ】よりも結局、奥様だって言うのだもの。驚いちゃったわ」


 ‥‥‥‥【ツリ】?

【ツリ】とはなんだ? 思い出せない。

 さっきまでは普通に知識としてあったものが、抜け落ちていることに気づく。

 あれは確かに私の身体のようなもので、生涯の友だった。

 ‥‥だが少しだけ思い出したよ。チンピラどもに滅茶苦茶にされたのだったな。大切にしていた思い出のすべてを。さらにはどこかへ【ツリ】をなくしてしまい絶望したが。‥‥‥‥それでも趣味は趣味なのだ。諦めるしかない。失って気落ちはするが、その感情を引きずって生涯の伴侶である女性まで見失う訳にはいかないだろう。


「‥焼けるわね。知ってるかしら? 人ってね、なかなかそうは割り切っていけないものなのよ。でも、あなたはそうなのね。それができるのね。ふふふ。‥それで、確かにあなたはそんな良い夫だったけれど。奥様は本当にそうだったかしら?」


 何を言っているんだ? 私の愛した妻が最高の女でない筈はなかろう。

 これは反論する必要があるな。

 私は言い返そうと、ママの顔を見た。


 ––––‥‥いい女だ。


 視線を向けるのを待ち構えていたかのように、ママは蠱惑的に微笑んでいた。私は一瞬で魅了されてしまう。

 それはまるで⬛︎⬛︎⬛︎ようだったからだ。

 

「私はそれが知りたいの」


 その甘く、耳をくすぐるような声を聞くと私の思考は、取り憑かれたように一つの言葉を呟きだす。(‥‥いい女だ。とてもいい女だ。いい女だ。とてもいい女だ。いい女だ。とてもいい女だ。いい女だ。とてもいい女だ。いい女だ。とてもいい女だ。いい女だ。とてもいい女だ。いい女だ。とてもいい女だ。いい女だ。とてもいい女だ‥‥)

 思考が一つの言葉を繰り返し続けると、脳が酒に酔ったように蕩け始めた。


「ねぇ、私が入り込む隙はどこにあるのかしら?」


 ママは⬛︎⬛︎⬛︎的な笑みを浮かべる。

 私は悟った。これは誘惑だ。⬛︎⬛︎⬛︎の抗い難い危険な誘惑だ。

 それを知りつつも、抵抗するという考え自体が蕩けて思考から消えていっている。


 ––––いい女だ。とてもいい女だ。いい女だ。とてもいい女だ。いい女だ‥。


 手に握られたままのグラスの氷はさらにとけてゆく。

 私は一つの思考に囚われながらも、なんとかそれから抜け出そうとする。無意識に強い危険を感じていたからだ。このままだと思考が完全に奪われてしまう。だから私は思考を手放さない為に、意識を堅守する支えにしようと愛する妻のことを思った。しかし、ダメだった。妻のことが上手く考えられない。それで悟った。––––今まさに、この妻への思いこそが攻撃されて奪われようとしているのだと!


 ––––いい女だ。とてもいい女だ。いい女だ。とてもいい女だ。いい女だ‥。


 頼るもののない私は、なす術もなく、深い暗闇に誘われてゆく。抵抗しようにも、暗闇の中で溺れるようにもがいてみるだけだった。

 かつて私の心の柱としてあったはずの【ツリ】はもう頼りにならない。

 家族の姿も見えづらくなっている。

 暗闇は誘惑を仕掛けてきている。このままでは闇の中で私は溺れてしまう。

 だが、ダメだ。見失ってはいけない。‥‥‥私はどうしても家族を守らなければならないのだ。


 ああ‥‥そうだ。

 先ほど読んでいた本だ。あれが私を守ってくれる。


 藁をも掴もうとする気持ちだった。抜け落ちていた記憶の中から、頼りになるものを必死に探し出して、その藁を手繰り寄せようとしていた。

 思い出せ。私は確かに一冊の本を読んでいた。私は今すぐに、あそこに書かれていた言葉を思い出さなくてはいけない。


 思い出せ。思い出せ。思い出せ。

 さもなければ、私は取り込まれてしまう‥‥‥!


 深い暗闇に落ちようとする私に、あの言葉が光を放ち始めていた。

 言葉は、今の私を守る唯一の灯りだった。

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