3-8 うみねこ読書する②


 ‥‥‥もう本に飽きてきたので閉じてしまってもよかったのだが、妻のお喋りはまだ続いている。仕方がないので、さらに適当にページをめくって、気になる文章がないか見てみる。ペラペラとめくっていたページから、この文章が目に飛び込んできた。


 

『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。』:コリント信徒への手紙



 まず読んで思い浮かんだ感想は、文章が忍耐で始まり忍耐で終わることの不満だった。愛は『苦労のない喜び』であると説くべきではないかと思った。

 だってそうだろう。誰が勇んで苦しみ、愛を望むというのだろう。愛することで苦しむのなら誰もそんなものは望まない。労せずに無条件の喜びが与えられた方がずっといい。それに宗教の教えであるならば、夢見心地な言葉を並べた方が耳障りもいいだろう。私が宗教家になってこの文章を添削するならば、愛は喜ぶことであり、楽しくもあり、愉快そのもので、苦楽はすべて忘れられる。神を信じることによってご利益があり、必ず幸せになれるのだ、と直すことだろう。

 うん、その方が絶対いい。その方が勧誘もしやすいんじゃないか。信じた甲斐もある。著者にケチをつけるのではないが、人を丸め込むためには、もっと上手い言葉があったのではないだろうか、などと思ってしまう。


 だが、ここには愛は苦しみの結実であると説いてある。耐えることで始まり、耐えることで実が結ばれるという言葉だった。恐らく苦しみを覚悟して、長い忍耐の時を耐え抜くことで愛は成し遂げるものだと言う事を言っているのだろう。


 まあ言っている事は分かるさ。立派な教えだとは思う。だが私が求めているものとは違った。

 もし本当に神という存在がいるならば、–––私には、–––私だけには、もっと便宜を与えて楽をさせてくれる存在ならばいい。ざっくばらんに言えば、信じたり祈ったりという労力の対価に、罪の赦しとか救いとかの概念じゃなく、即物的なご利益を約束してほしいのだ。でもそんなものは叶わないとは分かっている。現実はそう甘いものでなく、私は元より誰にとっても世の中というものは特別扱いはしてくれないのだ。

 しかしだ。ただでさえ、こんな世の中なのだ。生きる事は十分に苦しいのだから、人の心の中の感情的な部分にまで苦行を迫られるとなると逃げ場もなくなる。精神も肉体と同じだ。肉体が食事を摂るように、心を活気づけてくれる苦味のない美味しいだけの言葉が欲しくなる。書店に置いてある啓発本を読むと、どれを取っても読後、何かためになるようなものを受け取った気持ちにさせられ、ポジティブな気分にさせてくれるものだ。多くの人々が神に求めている役割というのは、こうした精神面における平穏や充足なのではないだろうか。世の中は窮屈でも、頭の中の世界ぐらいは自由気ままに気楽になりたいものだ。


 (ヤレヤレ、神様。あんたは私と同じで、あまり口が上手くないな。少しは信じさせてくれよ)


 聖書は神が話され、あなたと直接会話をされる為の言葉である、という牧師の言葉を再び思い出して、私は目の前に神がいるかのようにして、諭すようにそう答えた。



          ⚪︎


   

 私は得るものがないと分かり、多少ゲンナリした気持ちを持って、いよいよ本を閉じようとしていた。しかし、腹ペコの状態であったことを思い出し、妻がいつ終わるとも知れないお喋りを続けている最中に手持ち無沙汰になるのを恐れて、もう一度ページを戻して、十字架にかけられた男の嘆きの言葉を見ていた。そして、しばらくその言葉をぼんやりと眺めていた。




 ––––––––––––〈‥‥様、‥‥さんを助けて〉–––––––––。




 –––––何だ? 

 –––––今、微かに白い光が視界を覆ったのだと思う。

 –––––それで、誰のものかは分からないが、掠れた声が聞こえてきた。

 


 するとどうだろう。

 突然に天啓に打たれた。発明を思いつくように何かのヒントを悟った。

 まったくおかしな話だ。それから私の心に起こったのは革命的な変化であり、強い衝動だった。今の今まで自分が考えていた事と正反対の思いだった。

 十字架とは刑であり、苛烈な苦しみを負う拷問である。にも関わらず、私もこの男と共にありたい、楽とは程遠い状況にある男の背中を追いたいという思いが急に出てきてしまう。

 どうしてなのだろうか?

 まだ漠然としていて、はっきりと考えが纏まらないが、今の私は男が十字架にかかる姿に強い憧憬を覚えており、だから文章を強く見つめ、意味を探し出そうとしていた。得たヒントは僅かなものだった。今の閃きを取り逃してしまわないように、刹那のものにしないように、必死にさえなって探した。さっきまで軽んじ批判的に切り捨てようとしていたものを、今は敬意を持って学び取ろうととしている。まったく持って支離滅裂な感覚だった。



『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか‥‥‥‥』



 紙に印字されている文字を眺め続けて、言葉の表層からさらに深く、より深く、言葉に命を吹き込んだ霊的な部分にまで意識を入り込ませて意味を読み取ろうとした。すると書かれている聖書の言葉から、お厳かな重力が感じられて、魂が言葉の中へと強力な引力によって引き込まれてゆく。それは不思議な感覚だった。魂に重力がかかり、肉体とのズレが生じたことで、私はこの時初めて自分が霊的な存在なのであると知らされる。私にけして訪れる事はないと思っていたスピリチュアルな体験だった。

   

 おおよそ知識というものは咀嚼する時間を置かなければ本当には身につかないものだ。だから時間が経ってから、聞いた言葉がスゥと頭に入ってくることがある。

 牧師が言っていた罪が赦されたり、人が救われたりする理屈は、とんと理解できていない。裏切られる事をさえ覚悟し、十字架にかかることを自ら望むようにして、この男が何を熱心に目指したのかもさっぱり理解できていない。


 しかしだ。この十字架の男は苛烈な忍耐の果てに愛することを成し遂げた・・・・・・・・・・・、というその事実だけは理解できるのだ。自分の担った責務を全うし、神のために、または自分を信じる者たちのために、あるいは自分と今敵対して侮辱して石を投げつけてくる者たち、つまりこの私の為にも愛することをやり遂げて、人々にまざまざと大きな愛を示したのだ。


 先ほどから聖書を読んできて、大部分が意味が分からない言葉の羅列だった。だが、なぜだか最初から、この場面だけ光景が浮かび、男が十字架をを背負う姿にだけは、はっきりと共感できていた。それが今、どうしてなのか分かった。私は知らずして、自分も、この男の道を目指そうとして歩んでいたからだった。なぜならばこの男の姿は、人が誰かを本気で愛する時、その人に決めなくてはならない覚悟と、耐えて進むべき道の険しさを示し、歩む者の模範の姿になるように思えたからだ。


 私は先ほど思いついた悟りを、今度はきちんと理解して頭の中で言葉にした。

 愛する事は喜びだけではない。本当に愛するということは、–––愛を全うするという事は、かほど苛烈な苦しみを覚悟せねばならない事なのだろうか、と。


 だとしたら私はどうなのだろうか?

 私にとって愛さなければならない対象とは、無論、家族のことである。例え十字架を背負わされるような苦しみを受けても、それでも愛すことからはけして逃れられない枷となるのは家族である。

 いま現在、苦労をしつつも私は家庭を守っている。私はそんじょそこらの苦難程度では義務を放棄したりしない。だから私は家族を愛していると言えるだろう。


 だがそれは、今は幸いなことに、とも言える。

 世の中には一寸先に何があるか分からないからだ。


 まだ私は順風の中にある。だが、もし、‥‥‥もし、帆が翻り大きな逆風に身が置かれたとしたら、私の家族への愛情は一体どうなるだろうか?


 私はそれでも忍耐強くあれるのだろうか?

 私はあっさり弱くなり挫けてしまうのだろうか?

 果たして私は彼のように十字架の道を真っ直ぐに歩める者なのだろうか?

 


 (‥‥‥私は誓った愛を全うする事ができるだろうか?)



 宗教の理念は何も分からない。ただ私は初めてこの男の姿をはっきりと見た気がした。

 そしてこの十字架の受難を思うと、妻と娘が明瞭な姿で心に思い浮かんでくる。

 もし私が苦難の中で誰かを愛さなくてはならない時、十字架を背負った男の後ろ姿を見ることになるのだろうか。






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