3-7 うみねこ読書する①




「–––––––––でね。––––––––なの。ゲラゲラゲラ」


 

 妻が何事かを話している横で私は自分の大きな腹を机代わりにして、腹の上で開かれている聖書を読んでいた。聖書というのは2000ページを越える大著であるから、ページの初めから読むにはボリュームがありすぎるし、無限にも思える活字の完読を目指す意欲はない。目次を見ても内容が想像もつかない。なのでこの本の肝となりそうな箇所から読んでみることにした。まあ多分、小説などと同じように面白くなるのは最後の方だろうと大著のページをごっそりめくると、旧約という長い物語が締めくくられている数ページ前だった。どうやらこの本の構造は大きく二分割されているらしく、適当に開いたところが丁度、その区切りの部分なのであった。


 旧約と‥‥。ふむ、新約という題名に分かれているのか。


 題名の意味はよくは分からないが、その新約の最初の章をざっとめくってみる。するとマタイの福音書という一般小説では中編ぐらいのものがあった。ページ数をざっと数えてみて、ちょうどいい長さぐらいに思えたので、ま、これだけでも読んでみるか、という気になった。


 ふむふむ‥‥。こ、これは!


 ‥‥‥書いてあることが、いまいち分からない。

 いきなり人名が羅列されたり、比喩が多用されたりと、事前に知識のない人間が読んでも敷居が高いように感じられた。敷居が高いと言っても哲学書などとは違い、平易な言葉を使ってはいるようだが、表現に比喩が多く、書いてあることの正しい意味を読み取るのは難解だ。だから牧師が説教という形を取って、万人に分かりやすくなるように言葉を砕いて解説をしているのだろう。

 ふむふむ。そして私は何やら訳が分からぬまま、文字の表層を流すようにして読み進めたのだが、きっちりと内容を理解して読み進めないと読書というものはやはり面白くないようだ。適当に頁をめくって、読むというよりは、ずっと文字を眺めていた。ただ、そんな雑な読書の作法をしていても、いくらか頭に入ってくるような所が出てくる。私は文字の上に適当に流していた目を止めた。最後の方の場面でキリストと呼ばれた男が十字架にかかる箇所には強く興味が引かれたからだ。


 目を引かれた場面をさっそく読み込むとしたのだが、そこでふと思い出す。妻に連れられて前に一度だけ参加したプロテスタント教会の礼拝で、確かあの時、牧師は説教の中でこう話していた。「聖書は神様の言葉ですからね。聖書を読んで引っ掛かりを覚える言葉があったら、それは神様から声をかけられて呼ばれているんですよ」と。

 牧師は延々と1時間近く話していたと思うが、話の内容の大半は覚えていなくとも、雑談から出た何気ない一言が印象に残り、記憶しているという事はある。

  

 聖書を読み進めてみて分かったことは、書かれている内容の半分も理解できないと言うことだったが、そんな調子の読書の中でこの一節には目を止めた。ほとんど内容が頭に入ってこない中で、この一節だけは強い印象を持ち、うっすらと情景さえ思い浮かべさせられた。


 十字架を背負う男。

 男を侮辱する人々。

 裏切りと逃走。

 自己保身に走る仲間たち。


 そのような人々の中で男は自らを処刑する為の十字架を担がされて、杭を打ち付けられて、見せ物にされていた。そして彼は、自分の命が事切れる最後の瞬間に、彼の神に対して、語りかけたのである。そこには痛切な嘆きの言葉が書かれていた。



『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』:マタイの福音書



 実に痛ましい事だ。十字架にかけられて拷問される男を想像して私はそう思った。この嘆きの言葉はどういう心情で吐かれた言葉なのだろうか。痛みに苦しんでいるのだろうか。失望して悲しんでいるのだろうか。よく分からないが、この男がこのような目に遭わされても、自分を見捨てた者も、裏切った者も、そして自分をいま痛めつけている者でさえも、恨むことはしなかったと言うことは理解できた。男が激しい痛みや苦しみの中で人々を許し続けたのは、実に尊い事だと思った。



          ⚪︎



 かと言い、これでこの宗教を信じようという気にはなれなかった。偉人が後世まで語り継がれるような偉業を成し遂げ、大勢の人々にメッセージ性のある生き様を示す事は尊い事だとは思うが、‥‥‥ああそうだ。思い出した。


 あの礼拝の時に牧師は語気を強めて言っていたな。「だから、あなたの罪は許されましたよ」と、高らかに宣言するように『キリストが私たちの代わりに十字架につけられたことにより、タダで、タダで! 私たちは救われるのです! 私たちはタダでその救いの恵みを受け取ることができるのです!」と自慢げに言っていたっけ。


 私はそのキャッチセールスを行うような言葉に、正直どうにも安っぽいなと思った。神に救われるのなら、もっと信者に苦行をさせたり、哲学をさせた方がそれらしく説得力があるように思える。その本心を横に置いて、大のお喋りにも関わらず、長い説教を黙って熱心に聞いている妻の顔を立てて、または他の礼拝に参加されている方々や、場にある厳しい空気に同意して、なるほど有難いものだな、と欠伸を噛み殺しながら、なんとなく納得したような顔をし、二、三度頷くことにした。



          ⚪︎


 

 このように私にとって宗教とは、まあ言ってみれば人付き合いのようなものだ。大勢の他人に有難いと思われているものに、なんとなく手を合わせて自分も有り難がり手を合わせる。そこに特に深い考えはない。どこぞに転がっていた石ころを、これは有難いものだから祀っているのだと言われてたら、そんなものだろうと思うだけだ。人様が大切にしているものを敢えて否定や侮辱をしようとも思わない。皆が手を合わせるのなら、私も手を合わせる。そういうものがあっても構わないと思うだけで、特に意見などは差し挟まない。神というそもそも実体が定かでないものは、人は創作して何とも言えるし、何とでも扱えるのだから。 

 

 そういう次第で自分が何かの宗教を本気で信じる姿などは想像できない。性格が擦れいているのか。疑り深いのか。純粋になりきれないからだ。私が年末年始にだけ信心深くなるのは、万人に有難いと言われている場所に手を合わせているだけの事なのである。


 あえて言えば、付き合うのなら距離感だけは、気をつけねばならないとは思う。

 だって、ほら、世の中には宗教関連の危ないニュースがそこら溢れているし恐いだろう。宗教と聞けば、まず最初に思うのがどういう金の流れが絡んでくるのかとかだしな。狂った組織に取り込まれたらお終いだ。奴らに隙を見せたら干からびるまでチューチュー吸い取ってくるのだから。


 まあ、そんなことを言う私には根本から宗教は合っていないのだ。信じようという心構えよりも、先んじて疑いや警戒心を持ってしまう。一生、信心など持てない人間なのだろう。



          ⚪︎


 

 私という人間は、天地がひっくり返っても自分自身を理由にして神に頼るような事はないような気がする。実際に天変地異が起きて、地震によって大地に呑まれるようなことが起きても、私は多分、最後の一瞬まで釣りのことを考えるだろう。その自信がある。しかし、私にとって神に本気で祈りたくなるような出来事があるとしたら‥‥。

 そうだな。あるとしたら家族に大事が起こるような事だろうか‥‥。


 ふと不安がよぎり、考えてしまう。


 万が一、娘に何か事故が起こるようなことがあれば‥‥。

 もしかすれば妻が亡くなるようなことがあれば考え方も変わるかもしれない‥‥。



「–––––でね、もー傑作。言ってることが、ちんぷんかんぷんなの。ゲラゲラゲラ」



 フッと私は笑い。今、頭によぎった考えを一蹴する。

 まったくの杞憂だな。妻は口から生まれたような人間で、喋ることがなくならない限り、元気であり続けるだろう。



「–––––ゲラゲラゲラ」



 ほれ、そして今も電池が満タンだ。この妻が私よりも先にいなくなるなんて事は、それこそ天変地異が起きてもありえないだろうな。ハハハハハ。





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