3-6 ハト⑤
私は温かい目で愛する妻を見つめる。
楽しげに色々な事を喋っている妻が愛しかった。
にっこりと微笑む。何事かを喋り続ける妻が、こんなにも元気である事が嬉しかったからだ。
そうして黙って妻の話に頷き、理解を示し続けるのである。
「––––––––でも、無料て言われたらね。びっくりするじゃない。–––––––絶対。そんなはずないって–––––––それでシュークリームの中に唐辛子が入ってたの。ええっ、嘘でしょう? 斬新! て思うじゃない–––––––もー、びっくりー。分かるかしら?––––––––」
わかるぞー。
いろいろ大変なのだな。
「––––––––つまり餡蜜とアボバドのコラボレーションみたいな感じかしら。もっと言うとチョコレートだと思ったらサラミだったみたいな–––––––謎ね。みんな謎。–––––––ま、今言ったこと全部、釣り関連のことだから、あなたはみんな知ってると思うけど––––––––」
うんうん。わかるぞー。
いろいろなことが、いろいろとあるのだろう。
「––––––––––––––––でね、傑作なの。あなたにも一緒に来てほしかったわー。–––––––ですって。もー、すっごい面白いでしょ。ゲラゲラゲラ」
わかるぞー。
つまり、いろいろ
⚪︎
といった感じで妻が何やらずっと喋っているが、そのすべてに頷き続ける。私はこのように妻の声のすべてに聞く耳を持ち、妻が話す姿を寛容な心を持って温かく見つめる優しい夫なのである。
素晴らしい! これぞ夫婦円満の奥の手だ。
このコミュニケーション技術を駆使すれば、もはや妻の長話など苦にはならないのである。(全国のお父さんたちレッツやってみよう)
テレビニュースなどでは熟年離婚の話題が度々とりだたされるが、もしかすればパートナーから発するこういうストレスを生真面目に受けてしまうことから、高年の夫婦の綻びが生じるのかもしれない。パートナーの話をうるさいと思ったり、話を聞かないと感じてしまう事は非常に危険な兆候だ。だからこそ私は、このように上級技術を用い、積極的な聞く姿勢を示し、妻に微笑み続けるのである。
にこにこ (いつも愛しているよ)
にこにこ (いつも聞いているよ)
「––––––––––––––––で、あなたはどう思う?」
ほい来た。お得意様。
フフフ、心得ているさ。
私はマニュアル通り二度ほど深く頷く。1度目は「え、そんな話があるのか」と初耳のように驚いて。2度目は妻の意見に「たいしたものだな」と実に感心したように頷いたのだった。
フフフ。さあ、どうだ。
「え‥‥‥。ちょっと待って、どういうこと? 私は芸能人が政治家と不倫て言ったんだけど。なんで頷いているの? 両方とも妻子がいるのに許せないじゃない。あなたそんな人だったの?」
しまった。
何か間違えてしまったらしい。
私は焦る気持ちを抑えて冷静を装う。
コホンコホンと咳払いをした後、上半身をゆっくりと起こして寝転がるのをやめ、一旦、天井の梁を見つめて気持ちを落ち着かせる。それから(不倫とか言っているから、多分、このリアクションならば無難だろう)と考えて、実に嘆かわしいといった落胆した感じを出しつつ、自分でもよく分かってないが、とりあえず首を横に振ってみた。
さあ、(再チャレンジ)行ってみよう。アンサー。
「え、ちょっと、もしかして、本当に聞いていなかったの? 芸能人がやらかしたでしょ? それで宇宙旅行の無料招待券が当たるかもって話だったじゃない」
またまた、しまった。
私は今度は慌ててしまい、急いで状況の把握に努める。
(さて、なんと言っていた?『芸能人の不倫?』『宇宙旅行?』 いったい何の話だ? これとそれにどういう繋がりがあるのだ?)
推理のしようにも役に立たないキーワードをよこされ、話の前後の文脈もまったく聞いていなかったので何のことやらさっぱり分からない。
「え、バカにしてるの? あなたずっと頷いていたけど、もしかして聞いていないかったの? えっ、バカにしてる? ずっとニヤニヤ気持ち悪い顔してたけどそういうことだったの?」
私は焦りながらしばし良い対応を考えたが思いつくものがなかった。
致し方ない。事態が予期せぬ方へ悪化する前に緊急時対応を実行しよう。私は立ち上がり仕事に使っている鞄を持ってくる。そして鞄の中から妻に内緒で独り占めをしようとしていた職場で貰った最中を二つ(事務のお嬢様方(38歳、42歳)から、「良かったら奥様にもどうぞ〜」と余分に貰った)出すのだった。
「あらやだ。これ有名なあの店のやつじゃない。美味しー。上品な味。やっぱり値段が高いのは餡子が違うのよねー。あらー、こっちのはお餅が入ってる。これ幾らなのかしら。高いわよね。今度取り寄せしようかしら」
ふぅ、なんとか気を逸らすことに成功した。今日は偶々、仕事場で最中を貰っていたから助かったが、危ないところだった。
うむ。備えあれば憂いなしとかなんとかだな。これからは妻の小腹の足しになるものを鞄に常備しておこう。
⚪︎
お腹がぐぅと鳴る音を聞いて、居間に備え付けてある柱時計を確認すると時刻がもう20時30分になっていることに気づく。
これはいくら何でも遅過ぎだろう。ウチの晩御飯はいつもならば遅くとも19時には始まるはずなのだ。
(もしや忘れているのか? いやそんなはずはない。だいたい痩せの大食いである私よりも腹空かしの妻が、自分の腹時計が鳴っているのを気づかぬはずはないのだ。もう少しだ。もう少しで長話は終わる。そろそろ妻の腹のハト時計も顔を出してご飯の時刻を告げるはずだ。)
いい加減、話が終わらないものか。私はいつまでも妻がご飯を作ってくれないことに焦燥感を感じ始めていた。
「もー、笑えちゃうわよね。それでね。牧師さんの家の猫ちゃん、面白いの。今日、教会の婦人会の皆んなで作った料理を作ったんだけど、猫ちゃんがやって来て、食べちゃったの。牧師さんが叱ったら、猫ちゃん、びっくりしてね。せっかく作ったお料理を、みーんなひっくり返して逃げちゃってー。もー、私たち大慌てよ〜。ゲラゲラゲラ!」
繰り返している‥‥だと?
妻のマシンガントークのキレは、年齢が高くなっても衰えることなく相変わらずなのだが、老年に片足を突っ込むと同じことを何度も言うようになった。なのでこの流れはとても危険な兆候だ。
おい、その話はさっき聞いたぞ。次はまさかトリだか、アザラシだかのタマちゃんの話ではないだろうな!
「でね、タマちゃん。あ、タマちゃんは向かいのおウチのオウムね。変な言葉ばっかり覚えちゃってー。旦那さんが奥さんと娘さんに叱られて、タマちゃんに愚痴ばっかり言うからタマちゃんがずっとそればっかり喋るの。でね、タマちゃんから愚痴を聞かされた奥さんと娘さんが、お父さん本心ではそんな事を考えてたの!ってなっちゃって。ゲラゲラゲラゲラ!」
そうだった。
私は絶句し、地獄の周回が始まった事を知らされる。
高年になり、同じ事をなん度も言うようになった妻は、たちが悪いことに、同じ話題を繰り返すたびに、どんどんとエンジンがかかり出して、ますます舌鋒が止まらなくなってような気がする。
こうなると長い。すごく長い。フルスロットルで喋る妻の燃料が切れるまで、辛抱する他なくなってしまう。
もうじき終わると思われた妻の長話は果てが見えなくなり、私のご飯は一気に遠のいてしまった。
私は半ば諦めて、何か気を紛らすものはないかと辺りに置いてるものを漁り出す。そこで暇潰しによさそうなものを見つける。妻が友人作りに最近通い出して、私も妻によって強制的に連行された事のあるキリスト教会でもらった聖書を手に取ったのだった。
そう言えば妻に連れられて参加させられた教会の礼拝の最中に、黒猫が1匹うろついていたな。アレが妻の言っていた暴れていた猫だったのかな、などと思った。
気を紛らす為に手に取っただけだったので、ろくに読む気は起こらないのだが、形だけは本を開くことにした。そうして、興味もなくペラペラと数ページめくると、(まあ、何もないよりはマシか)という考えに至り、よっこらせと寝転がって少しだけ真面目に読んでみるのだった。
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