3-5 ハト④
ハトや、おハトさんや。
「もー、すっごい面白いの。それでね。牧師さんの家の猫ちゃん、お魚くわえたままびっくりしてね。もー、大暴れ。せっかく教会の婦人会のみんなで作ったお料理をね。みーんなひっくり返して逃げちゃってー。私たち大慌てよ〜。牧師さん、カンカンに怒っちゃって〜。ゲラゲラゲラ‥‥」
おなか空いちゃったなー。
ご飯はまだかな?
「でね、タマちゃんが。あ、タマちゃんは向かいのおウチのオウムね。変な言葉ばっかり覚えちゃってー。奥さんが旦那さんの愚痴ばっかり言うから、タマちゃんがずっとそればっかり喋るの。だから旦那さんと喧嘩すると。あ、あそこの旦那さん昔の人で、自分が悪くても絶対謝らないし折れないじゃない? で、奥さん、頭くるからタマちゃんに旦那さんに鬱憤を全部ぶちまけるんですって。そしたらタマちゃんレコーダーみたいに覚えちゃってね。ゲラゲラ。それでねぇ。傑作なの〜。ゲラゲラ。四六時中、タマちゃんから奥さんの愚痴を聞かされた旦那さんが、もういい分かったから、悪かったから謝るよ、て。ゲラゲラゲラ!」
うーむ。最近、とんと妻の全自動主婦機能が老朽化の為か作動しない。困ったものだ。
⚪︎
結婚を機に仕事を退職して専業主婦におさまった妻は、出会った頃から変わらずのフル稼働で喋り続けている。私のような無口な男の隣で、よくもまあ飽きもせず喋り続けられるものだと思うのだが、いつも楽しげにしていてくれるので、そんな妻を見て私も幸せだった。
私たち夫婦は結婚当初から、円満な関係が続いており、大きな喧嘩もしたことがなかった。長い年月をつつがなく共に過ごして来れた。
そんな夫婦生活の中で問題があった事と言えば、なかなか子宝恵まれずそれだけが長年の悩みの種だった事だろうか。
あの頃は妻を憐れに思うと同時に、妻に申し訳なく感じていた。
そして夫婦共々、年齢が高くなり、子供はもう仕方ないだろうと諦めかけていたところ、奇跡というものは起きるもので、妻は高齢出産で娘を産んだ。うるさいのが一人増え、途端に家は騒々しいものになったが、妻はじゃじゃ馬のように暴れ回る娘をよく躾け育ててくれた。
それからも家をよく守り、頑張ってくれたのだが。私が定年を迎えて、同じ会社に非正規で再雇用で働き出し、また娘が成人近くなって、大きな面倒から手が離れたことで、一気に肩の荷が降りたのだろう。洗濯などはやってくれるが、料理の方はめんどくさいのかあまりやらなくなった。
うーむ。別に手の込んだものじゃなくて、いつもの店屋物で十分なのだが。
何かないのかな?
「でね、その近所の小学生の男の子たちが、なんかチラチラ、ウチの周りで見かけると思ったらスズメのことが好きだったらしいの。最近の小学生はませてるわー。でもあの子、昔からモテるのよねー。授業参観に行って驚いちゃった。あの子がアイドルみたいな扱いされているんですもの。で、そうなの。面白いこと思い出しちゃった。試しに同級生の子にもスズメの印象を聞いたらなんて言ったと思う? ウチの子を可憐とか言うんですもの。思わず思いっきり吹いちゃった。笑ったわー。ウチではあんななのに。あの子、ほんとっ外面だけはいいんだから〜。どんだけなのよ。ゲラゲラゲラ!」
うむ、これは無理だな。待つ他あるまい。
「おい、いま何時だと思っている。飯はどうした?」と口に出したいところだが、私は古いしきたりをを知る昭和の人間だ。一度、家事という大仕事を妻に任せたら、迂闊に口を出すべきではない。夫たるものは妻に全幅の信頼を置くべきで、小言などは一切言わず、黙ってすべてを妻に任せるべきだと私は思っている。だから私は妻を信じて飯を待つのだ。
ぐぎゅるると腹の虫が鳴る。
‥‥‥‥とは言え、腹が減った。武士は食わねど高楊枝と言うが、これは辛い。私は居間で寝転がったまま、なんとか気を紛らわそうとテレビをつける。適当にチャンネルを回してみたが、面白い番組はなさそうだ。19時を過ぎていたので野球の試合がやってないか確認したがスターズ戦は放送がないようだ。
「それでね。スズメったら、顔を真っ赤にして怒るの。服の洗い方が気に食わなかったみたいで。なんかいろいろ縮んじゃった。最近のファッションなんて、お母さん、分からないわよ。ほんとあの子は癇癪持ちなんだから〜。それなら自分で洗いなさいよ。文句ばかりは一人前なんだから。あなたが叱ればいいんだけど、あなた本当にあの子に甘いんだから。困ったわー。ゲラゲラゲラ!」
お腹が空いたなー。話が終わる気配がちっとも見られない。
スズメがいれば、あいつが勝手に文句を言い出すので楽なのだが、どこかへ遊びに行って、まだ帰って来ていない。
仕方ない。やはり妻の話が終わるまで気を紛らわすしかないか。私はもう一度、何かないかとテレビのチャンネルを回してみるが興味を引く番組はなかった。これは厳しい持久戦になりそうだ。
⚪︎
「–––––でねー。–––––で–––––じゃない。–––––––––––––––それがほんと面白い顔してて、––––––––––そう言えば、–––––でしょ? ゲラゲラゲラ」
うーむ。私は真剣に唸り考え込んでしまう。何か妻に(口で伝える以外で)
お腹が空いたよと伝える手段はないものだろうか?
‥‥無理だな。空腹の為か考えても良い方法が思いつかない。それにこのような難しい問題は考えれば考えるほどお腹も空いてしまうものだ。とりあえず妻の話を右から左へ受け流しつつ、時が経つの待った。
「–––––––––––––––––––––––––だもの。面白いわ〜。–––––––––––––––––––––でね。わたし言っちゃたの。––––––––––そうそれで、八百屋さんが、じゃあいいよって言って、大根もオマケしてくれたの。ゲラゲラゲラゲラ」
お腹、空いちゃたなー。
まだかなー。まだ終わんないかなー。
「で、落としたら欠けちゃって–––––––––––––––––––––スズメったら、ほんとバカなんだから〜。–––––––––––––––––––––あ、そうそう。ご近所の–––––––––––––––ゲラゲラゲラゲラ」
歌でも歌って紛らわすか。
ヘイホー ヘイホー
おなーかが すいた〜
ヘイホヘイホヘイホ、ヘイホ〜 ヘイホ〜♪
「––––––––––でね、あなたもそう思うでしょ?」
ハッ。
しまった。話を振られてしまった。
好き勝手に喋っているかと思いきや、突然こういう不意打ちのような真似をやってくるから困る。
だが、私も寝る時以外は年中喋り通しているような女の夫を、伊達に長年もやってきた訳ではない。私には対妻用のコミュケーション技術があるのだ。
私は今の妻の問いかけに、黙ったまま深く頷いた。「おや、そうだね。私もそう思うよ」という感じでだ。この時、少し穏やかな笑みを浮かべるとなおいいだろう。実によくできた夫の態度だ。
「でしょー。そうなのよ。それでね。新築祝いに羊羹を持って伺ったんだけどね。すごいの。そのおウチ、家の中にエレベーターがあるの。お婆ちゃまの為だって。お孫さんがつけてくれたらしいのだけど。嬉しいでしょうね。私もほしいわー。私もやってほしいけど、絶対スズメじゃ、ダメねー。ゲラゲラゲラ」
よかった事なきを得た。
何分、妻の話は長い。その長いお喋りを、延々とまともに聞かされたらたまったもんじゃない。精神の疲弊は半端なく、長時間の肉体労働の後などに聞かされた日には特にキツい。しかも夫は逃げることはできないのだ。本当にキツい。
それならば「お前の話は長い」と思い切って断ってしまえばいいのかもしれないが、実を言うと(この辺りは私の複雑な心情になるのだが)別に私は妻のお喋りを聞いていることが嫌という訳ではないのだ。むしろ出来うるなら、妻にはいつまでも元気に楽しくお喋りしてほしいと思っている。私にとって妻が幸せそうにしている事は至上の喜びなのだから。
だとしても物事には限度というものがある。
あるのだが、私としては妻が健やかにしている姿をずっと見ていてもいたい。
だからして、これは夫婦間の仲を円満にする為に、苦行を経て得たスルースキルなのだ。
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