3章 うみねこお父さんと妻

3-1 ハト①


 私が妻と初めて出会ったのは、近所にある小汚い定食屋での見合いの席だった。歳は私が三十代に入ったばかりの頃だったろうか。妻の方は二十代半ばを過ぎた年齢で、小さな会社の事務をしているらしかった。この食事会に至るまでに何度と見合いの失敗を繰り返してきて、いろいろと悟ることがあったので、今回も一度いちど顔を合わせたら、もう二度会うこともないと私は思っていた。なので心苦しいが相手の方には数時間ほど付き合ってもらって、失礼のない形でお開きにするつもりだった。


 自分が女性を値踏みできるような男だとは思っていなかったので、特に容姿などを気にするつもりはなかった。ただ健康そうであるか、善良そうであるかという点だけは確認していた。第一印象は、今回の見合い相手は「随分と明るい人だな」という簡単な印象だった。



          ⚪︎



 幼少の頃から父親と爺様に海に連れられていた。海は物心つく前からの遊び場であった。であるから私にとって釣りは友のようであり、青年期に入るとかけがえのない恋人のようなものであった。いっそ海に愛を告白して結婚指輪でも投げ入れてやろうかと思っていたくらいだ。ま、それは冗談であるのだが、昔から夢中になっていたのは釣りだけで、記憶にある私の青春の香りは潮と磯の匂いがするものだった。そうした次第であるから、とんと色恋沙汰になどには興味はなかった。

 

 高校を卒業して早々に運送会社に就職し、収入と社会的地位を確保した後は、思う存分に休日を使って釣りライフを満喫していた。

 他の同年代の者らが、もっと大きな収入や社会的地位を得るために、又は美しい恋人に出会おうと心を迷わせている最中、私という人間は全く迷いのない生き方が決まっていたので、ストレスフリーで悠々自適な人生を謳歌していた。


 学生の頃は、

 学校––釣り––寝る→ 学校––釣り––寝る

 

 という理想的な生活サイクルだったが、


 就職すると、

 仕事––釣り––寝る→仕事––釣り––寝る

 

 と、さすがにやや不自由なサイクルに変わってしまったのだが、だいたいこんな繰り返しが私の今までの生き方で、女性などというものはあまり興味がない、と言うより、私の生活に入り込む余地がなく、はっきり言って必要がなかった。

 そうして平穏に十代二十代を過ごして、二十代の終わりに差し掛かろうとした時に孫が欲しいと文句と言い続けていた母親がついに痺れを切らしたのだった。



          ⚪︎



 高校を卒業して就職をした年に、すぐに家を出るという選択肢を考えもしたが、世間体の悪さと母親の小言をさえ我慢すれば、実家暮らしというものは何かと快適なのであるから、敢えて不便さを選んで3食付きの家を出ることもないと考えた。その選択は正しく、釣りファーストの生活は苦労なく続けられ、ますます充実してゆき、年齢が上がるほどに活動範囲も広がって、日本各地の様々な場所に遠征に出かけるなどして釣りライフを楽しんでいたのだった。当時の私は日本中の海が自分を呼んでいる気がしたものだ。

 そんな次第であるから母親には逆らえない。今の充実した生活を捨ててまで所帯を持つ事に何のメリットを見出せないまま、母親に強制されて何度か見合いの機会を持つことになった。


 初めの数回は気合を入れた正装をして、有名なレストランで見合い相手と顔合わせをしたが、生来無口な気質の私と相性が合う女性が早々に見つかるはずもなく、気まずい時間だけを過ごしていつも解散という流れになっていた。

 相手の女性は、おもに母親の井戸端コミュニティのおばはん方の縁故から選ばれて(おばはん連中はいつも大張り切りだった)、私の前に連れられてきたようだった。その方々にはわざわざご足労させて申し訳ない事をしたと思っている。

 世話役たちは真向かいに男女の顔を合わせさえすれば、例えボンでもクラでも、自然と何かが始まるのものだと期待していたようだったが、いくらお膳立てをしても何も始まりようのない人間には、残念ながら何も始まらないのである。

 そうして3回目、4回目‥‥6回目と話が淡々と流れてゆくと、『あー、こりゃダメだな』、という事をおばはん連中も周知理解してきたらしく、席についたまま一向に会話を始めない私をほったらかして世話人同士の雑談が多くなってきた。

 それで諦めてくれるのかと思いきや、母親の井戸端コミュニティは甘くはなかった。『うみくんに幸せになってもらう会』と称して、やがて見合いは目的が変わり、おばはん方が集まって食事会をする口実に使われるようになって行った。


 それで本日の『うみくんを幸せにする会』→もとい、前回開催より名称変更の『うみねこ寿々の会』のおばはん連中は、食事会の後に開催されるボーリング大会に出かけるために集まっている。

 いったい見合いはどこに行ったのだろうか。これで何度目の会合となるのだろうか。会を重ねる度にレストランのグレードは徐々に下がってゆき、今日などは近所の定食屋に集合している。

 狭い店舗の中をおばはん連中が占拠して、それが本日の目的とばかりに皆んなしてゲラゲラと大盛り上がりでお喋りしている。本来主役であるはずの私はと言えば、隅っこの方で茶などを啜っていた。


 私は今日の会合に集まっているメンツ見渡す。ほとんどは私が子供の頃からの近所に住んでいる顔見知りのおばはん達だった。まったく持って実家暮らしの弊害である。知らない顔も幾人かいるが、皆んなして楽しそうにゲラゲラとお喋りして笑い合っているので、どれが今日の私の見合い相手なのか分からなかった。


「みなさーん、そろそろ宴もたけなわという事で」


 と奥様の一人が声をかけると皆んなして「そうね。そろそろ行きましょうかね」などと笑いながら、それぞれの手荷物を持って、ボーリング大会へ出発する準備を始める。

 スコアがどうだとか、体を動かすと健康にいいのとか談笑して、とても和やかな雰囲気でゾロゾロと奥様方が店舗から出ていき、全員このまま行ってしまうのかと思われたところ、


「ハトちゃん、あなたはそっち」


 と一緒に出て行こうとしていた女性の一人が高年の奥様に呼び止められる。彼女は私の座っている定食屋のテーブルの前へ座るように指示を受けた。

 女性はその奥様に「やーだー。忘れてたー」などと明るく笑いながら言って、いそいそと私の前に着席した。

 さて、私の母親はと言えば、私と彼女に一言も声をかけることもなくすでに店舗を後にしている。あっち母親の方は完全に忘れてしまっているのだろう。




 

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