2-10 釣果⑤




 釣り人というものは釣りに対してまず礼節を持っている。道具にも、魚にも、海にもだ。

 礼節とは何か。例を上げれば、自分が使う道具を大切にすることは言うまでもないだろう。釣った魚に心から感謝して綺麗に平らげるのもそうだし、海に返す場合もそうだ。釣り場をきちんと後片付けをして帰ることや、ゴミなどを捨てて海を汚さないように心掛ける事もそうなる。

 だから釣りをやって散らかすだけ散らかして片付けもしない者を釣り人とは言わない。これは他のどの趣味にも、又は仕事などにも言える考えだろう。プロは自分の仕事に誠意を持っているものだ。

 私は長い間、それこそ生まれてからの人生とほぼ同じぐらいの時間を釣りと共に生きてきた。その年月の中で、とても心を痛めることなのだが、釣りに対して無礼を働く多くの者を見てきた。私は黙ってそうした者たちが散らかした後を片付けるなどしてきたが、気分は良いものではない。そして、まさに今、もっとも最悪な気分になっている。私の敬愛する趣味が、こんなにも侮辱され、踏み躙られた光景をこれまで見た覚えがないからだ。


「わりぃ、お父さんさ。さっき借りた竿、折っちった。わりぃわりぃ。じゃ捨てとくね」

「ジジオヂ、この中で売れるものを言え。さもなくばSNSで晒す」


 男は船に収納されていた人の竿を勝手に持ち出し、折れたら空へポイ捨てしてしまった。女も盗人のように私の釣り道具を物色している。漁っては投げて、漁って投げてという有様だ。

 二人が船を荒らし始めた為に、船上は釣り道具(私の大切な思い出の詰まった)で散らかり放題になっている。


「船の鍵、どこ? やっぱこの船、貰っとくわ。爺さんには贅沢は無駄だからいらないでしょ」

「これ全部売ったらどんなになる?」

「家、建つんじゃね?」

「マジ? ヤッタ」


 先ほど悪縁で結ばれた二人は、会話を交わしていくとますます意気投合して、それに比例してますます黒くなっていった。そしてある地点で急激に存在が危うくなり、状態が悪化したように思えた。

 どうしてそうなったのかは分からない。私の背後でたわいもないことのように悪事を企みあって、イチャコラ話していたような気がした。が、急に二人は霊として致命的な一歩を踏み出してしまったようだった。結ばれて力を増すと言うのだから、二人は本当に相思相愛の間柄だったのかもしれない。

 それから周囲には彼らから発する黒い靄が出ている。その靄を発する当人らは、もはや人相も分からなくなる程、真っ黒く染まっていた。

 まるで悪霊だ。

 私は恐ろしくなり彼らが話しかけてきても一切何も答えず、無視を続けていたのだが、その現状がこれである。


「船の鍵、どこだよ。出せや、ジジイ」

「ジジオヂ、命が欲しかったらさっさっとよこせ」


 ついに脅しに来るか。馬鹿にするでない。

 二人は再び両サイドから私を挟み、暴言で私を揺り動かそうとする。


「出せ、ジジイ」

「こっち向け。ジジオヂ」


 ぬぐぐ。引かぬ媚びぬ省みぬ。

 動かぬぞ。このうみねこ、チンピラ共の脅しなんぞに決して屈しん。

 すっかり魔物のように変わってしまった二人を私は無視し、頑なに竿を握り続け、釣りを継続する。


「あー、もういいや。ジジイ、金出せよ」

「釣りとかデブの趣味。全部売って金吐き出せ」

「出さねーなら、これ全部ぶっ壊すわ」

「オヂ、やっちゃえ」


 要求に従わないからといって脅して暴れ出す。まるで地上げ屋のようなやり口だ。

 二人が暴れ出すと、船はますます酷い惨状に変わり果てた。私の人生で大切にしてきた宝物が次々に踏み躙じられてそこかしこに転がっている。

 ある竿は折れ、長年使い込んだリールなどは粉々にされた。しかし狙いは船のようで船だけには手を出さない。

 私は無惨に砕け散った釣り道具の残骸を横目で見る。愛着のあったものばかりだった。


 –––あれらは私の身体だ。私の人生を記す記録だったものだ。もはや死んでもお前たちに答える口はない!


 私は無視をするのが戦う意思を示すことだとばかりに、さらに頑なに釣りを続ける。


「金、金だ。よこせ、ジジイ。殺すぞ!」

「よこせ。ジジオヂ、もっかい、死なすぞ」


 結託した二人は詐欺師から地上屋へ、さらには強盗に様変わりしてしまったようだ。そして、年老いた私に二人して金を脅し取ろうとしてくる。

 死後の世界に金など何の意味も持たないものだ。なのに人を殺さんばかりの物凄い執着心で、よこせよこせと迫って来る。



  金、金金金、カネーーー!

  金金、きゃきゃきゃ、カネーーー!


  カネ、ネニャ、カネカネー!

  キャキャキャ、ヨゴゼェーーー!



 これではまるで亡者ではないか。

 さらに二人の存在は様変わりした。金を求めて吠える姿は黒々として恐ろしい

 人間とういうものは現実に脅威にさらされるまで、自分がどういった行動を取るタイプの者だと理解していない場合が多い。敵が襲って来たら一目散に逃げる行動を取る者いれば、吠えかかって逆に襲いかかるタイプの者もいるだろう。どうやら私はこういったピンチの時に、体を硬直させて身構えるタイプだったようだ。



  カネェーーーー

  カニャーー


  ろーんしてでも ほけんにはいってでも もってこい

  ヨコセヨコセ オマエノ イノチヲウッテ カネニシロ



 私はこのような道理を弁えぬチンピラ共に対抗する手段を何も持っていない。しかし脅しには屈しないと言う強い意思だけはあった。私は一歩も引くものかと、竿を両手でしっかりと握って、釣りをし続けたのである。


 

 プルルルウルル。プルルルリ‥‥

 ジジジジジジジジジ‥‥



 すると奇妙な音の着信が同時に鳴った。二人は言葉にもならない言葉で嬉々としてその着信に反応をした。二人の持っている例のスマホから発信された音だったらしい。


「「%*、、@##」」

 

 二人は同時に受信を押した。飛びつくようにだ。

 すると、彼らのスマホから一気に闇が噴出してきた。それは生き物のように動いて彼らを包んだ。


「「¥¥**;@/¥!!!」


 彼らは言葉にもならない悲鳴を発して、瞬時に闇に呑み込まれた。



          ⚪︎

 

 

 二人を飲み込んだ闇にはなんとなく意思が感じられた。生き物のように私の背後に回り、漂っているようだった。そうして、(錯覚か)、私を見てニタニタと笑っているようだった。

 私は今度ばかりは本当に恐怖した。何かおぞましい冷酷な存在が背後にある気がした。

 頼る術が何もなく、両手で握っていた竿に、さらに私は縋った。

 背後で蠢く闇は、私という人間を舐めるように観察しているようだった。


 さすがにこれは逃げた方がよいだろうと私は周囲を探った。

 気づかなかったが、太陽はすでに沈んでおり、眼下には煌びやかな世界あった。


 少し気を逸らした隙に、闇は急に大きく膨らみ、あっという間に広がった。そうして私ごとクルーザーを一瞬で飲み込んだ。密かに楽しみにしていた夜景もあっさりと呑み込んでしまい、周囲のすべてを闇に変えしまった。


〈何もない〉

〈何も見えない〉

〈何も聞こえない〉

〈私は足下も覚束ない暗闇の中で、釣りの姿勢のまま佇んでいる〉


 しばらくなす術もなくそのままでいると、お守りのように両手で強く握っていた釣竿も消えて、闇に取り上げられてしまった。

 そうして暗闇に中に、私は身一つで取り残されてしまう。

 周囲には闇だけがあり、孤立した状況が作られる。ただこの闇は(錯覚ではないだろう)生きており、孤独とは言えなかった。闇は笑いながら、周囲で私の動向を窺っているようだった。



          ⚪︎



 私はトボトボと歩き出す。

 たいへん気分は落ち込み、死んでから釣りによって立て直せていた気持ちが、ダダ下がりに盛り下がってしまっていた。


 ––––こんな事になってしまうなんてガッカリだ。


 そうして私は暗闇の中で、前後の文脈が判然としないぼんやりとした気持ちに支配された。その理由もはっきりしないぼんやりとした気持ちのまま、とても落ち込んでしまう。


 ––––ああ、そうだ。ガッカリなんだよ。多分これが最後にやれる釣りだったのに。


 私は少しだけ考える力が戻り、そう思った。

 周囲の闇は最初の内は生き物のように感じられたが、だんだんとその感覚が弱まってくる。闇がただの闇になり、私というものは闇の中にポツンと取り残されたような存在に感じられた。とても孤独だった。

 闇は深く、世界に際限なく広がってゆく。光などこの世に最初からなかったもののように私の記憶から忘れさられてゆく。広がってゆく闇は、やがて私の心にも侵食してきて、こう呟いたような気がした。

 

 ––––(私の人生は失敗だった)

 ––––(守ったつもりの家庭もダメだった。釣りもダメになった)

 ––––(‥‥酒でも飲みたいな)


 私の心は、入り込んできた闇によって呑まれかかる。だが私の微かに残された理性はその言葉に抵抗した。この暗闇の世界で唯一の明かりであるかのようなその理性は、闇に反論してこう呟いたのだ。


 ––––釣りがもう一度したい。


 暗闇の中で、私はそう縋った。暗闇の中で光を求めたのだ。

 だが釣竿がどこかに落ちていないか探っても見つからない。やはり完全に見失ってしまったようだ。


 ––––ああ、暗く、寂しい場所だ‥‥。


 竿はどこかへいってしまった。

 まったく見つからない。

 望みを持つことは虚しい。

 もうアレは絶対に私のもとに戻らないような気がする。

 それがとても悲しくて、心細くなり、心が急激に萎む。


 ––––スズメ‥。スズメ。

   お父さんを探しておくれ。


 心を支える柱となっていたものがいきなり取り去られて、私は弱くなってしまった。

 闇が私の心をより閉ざしてくる。私は怖くなってきた。魂がふるえる程に。

 娘に助けを求める。すすり泣くようなか細い声でだ。


 ––––スズメ。お前はどこにいるんだ‥‥。


 生前はこうではなかった。私はもっと強かった。老いて体力がなくなってくると、ますます妙な意地が出てきた。自分はそこらのジジイと違って鍛え方が違うのだと電車で席を譲られると無視をしたり、なにかと世間様に手を差し伸べられても払いのけていた。

 そうだ。私には意地があった。

 爺だと舐めるなよと背筋をシャンと伸ばし続け、家族にも完全に甘え切るのもよしとせず、娘に叱られると不貞腐れた。

 私はそうして強がり続けた。まったく持って可愛くない老人であった。しかし、その矜持は、死ぬ間際まで持って貫き通せたと思う。

 だが今は矜持もなく哀れで弱々しい老人となっていた。退職してやり甲斐を失い。急激に老け込む男を何人も見てきたが、私も釣竿を失ったことにより自分を支えていた気力の全部をすっかり失ってしまったのだ。


 ––––スズメや。どこにいるんだ。

   

 娘はいない。呼びかけてもどこにもいない。それをとても寂しく思った。

 そう言えば、娘とは喧嘩別れをしてしまったのだ。


 ––––スズメスズメ。すまなかった。お願いだ。お父さんを助けておくれ。


 ああ、ダメだと私は諦める。娘にはもう愛想を尽かされてしまったのだ。

 だからきっと娘は迎えに来てくれない。探してもくれない。

 そう思うとますます心が寂しくなる。暗闇が引き摺り込むように私を掴もうとしてくる。


  怖い。怖い。

  寂しい。


 私は助けを求め続けた。他に頼りになるものはないかと探った。

 それで私は自分の心の奥底に灯っている明かりをようやく見つけた。それに手を伸ばした。


 ––––‥‥ああ、そうだ。私にはお前がいた。こんな時にこそ私はお前に頼りたいのだ。


 うっすらと火が灯るように彼女の笑顔を思い出した。

 私は妻に会いたかったのだ。今、妻にたった一言でいい。あの懐かしい声をかけてもらえたら、どんなに救われるか。

 こんな暗闇の中で一人では心細すぎる。

 妻の声が聞きたい。妻に触れたい。切実にそう思った。


 ––––ずっとずっと、お前に会いたかった。


 妻は遠い日に失ってしまった私の魂の灯火だった。

 暖かく灯るその明かりに手を伸ばした。

 私はこの手に握れる確かなものを、暗闇の中で探していた。








 

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