2-5 スズメ①




「あー、へんなのがいるーー」


 

 何かな?



「デブってて、ハゲてて、いつもプープーおならばっかりしてるひと。誰なのー?」



 誰なのかな?



「ねぇねぇ、お母さん。誰なのーー?」



 ヤレヤレ、気持ちよく寝入っていたというのに娘に起こされてしまった。

 午睡から目覚め、薄目を開けると、まだ幼稚園に入ったばかりの頃だろうか。幼い娘が何やら喚いている。

 どうやら私は居間で寝転がり、いびきを欠いていたようだった。

 何かやけに現実感のある夢を見ていた気もするが、眠りが深かった為かよく思い出せない。

 えっと、今日は‥‥いつだったかな?



          ⚪︎



「嘘つき! ゼッタイ、連れて行ってくれるって言った!」


 

 娘がずっと癇癪を起こしている。

 ヤレヤレ、娘には困ったものだな。

 疲れているんだ。休日のお父さんを起こすんじゃないよ。

 


「お〜き〜て〜!」



 そう引っ張るな。娘よ。

 ‥‥思い出した。今日は日曜日で、つまり楽しい寝て曜日だったはず。

 だったらお父さんは居間でゴロゴロする日だろう。

 そんなに引っ張ってお父さんを困らせんるじゃない。お父さんにはゆっくり昼寝をする大事な用事があるんだから。



「ヤーダ〜。お〜き〜て〜!」



 困った困った。

 娘には困った。本当にこま‥‥‥‥。

 んー、眠い。お休みなさい。



「キリンさん、みーたーい〜!」


 

 首をなが〜くして待ってるね。スヤスヤ‥。



「ゾウさん、みーた〜い〜!」



 お鼻をぶるんぶる回して待ってるよ。スヤスヤスヤ‥‥。



「ラッコさん、み〜た〜い〜〜!」



 おや? 

 お昼寝中かな?



          ⚪︎



 ぐえっ。


 娘は押しても引いても私が起きないと分かると、腹の上へダイビングを決行してきた。まだ幼稚園に入ったばかりの小さな身体とは言え、娘に思っ切り乗っかられてはたまらない。少々ダメージが入る。しかし娘はまだまだ軽い。大柄な私の目を覚まさせるまでには至らなかった。


 という事で、すやすや‥。

 おやすみなさい。 

 


「ヤーダ。行く。ヤ〜〜ダ」



 娘は私の腹にしがみついて離れない。

 可哀想によほど動物園に行きたかったのだろう。

 などと幼き娘を憐れみつつ、幸せな安眠を貪ろうというところで、ふと奇妙な疑念が出てくる。


(‥‥‥‥ん、動物園? 私が娘を連れて行くのか? 成人した娘を今さらなんで動物園なんぞに? そうか、孫たちを連れて行くのだったかな? ‥‥‥‥孫?)

(‥‥‥アレ、おかしいぞ? 娘はもういい歳ではなかったかな?)


 こうして眠気に身を任せて微睡んでいると、なぜだか幼い娘が泣いている姿と、成人した娘が小言を言ってる姿がダブってくる。

 どうにも眠たすぎて意識が定まらない。

 とても眠たくて、このまま眠気に身を任せるままにするのが心地がいいのだが、こう騒がれては仕方がない。少しだけ目を覚ます努力をしてみることにした。



          ⚪︎



「ミーン、ミーン、ミンミン、ミーン!」



 けたたましい夏の虫の鳴き声がする。

 ‥‥‥暑い。とても暑い。

 目を覚まし始める前は、なぜだか気温というものを忘れているかのような錯覚をしていたが、急に思い出すかのように夏の感覚が鮮やかになり、じりじりと肌にひりついてくる。

 そうだ。今日は真夏のとても蒸し暑い日だったな。 

 昼寝をする私の足元には、古い機種の扇風機が忙しく働いている。



「アーン、アーン!」

「ミンミン、ミーン!」

「ア〜〜〜ン!」



 夏に唄う蝉に負けない小さな子供特有のキンキンとした甲高い泣き声がする。

 (‥‥ああ、よく覚えている)これは娘が幼い頃の懐かしい声だ。


 ‥‥‥‥そうだった。娘はまだかように幼いのだ。今年、小学校に上がったばかりで、赤いランドセルを買ってやったら、それを背負って大喜びしてたじゃないか。

 ‥‥あれ? 違うな。なんで今、間違えた? それはもっと後の話だな。

 ‥‥‥えーと、そうだ。娘はまだ幼稚園児だった。一昨日も確かアニメを見て動物が好きになったとかで大騒ぎをしていたな。今度の休みに一緒に連れて行ってやると約束すると、あんなに嬉しそうにはしゃいでいたじゃないか。なぜ娘を小学生などと勘違いをしたのか?

 ‥‥やはり眠いからだろう。私の頭の中で娘の寸法が大きくなったり、小さくなったりしている。不思議なことだ。

 とにかく思い出せてよかったよ。やー、よかったよかった‥‥‥‥。

 それじゃ、おやすみなさい‥‥‥‥‥‥。



「どうぶつえーん〜。お父さん、ヤダ。寝るな。いっ〜く〜の〜〜」



 それからしばらくの間、娘の泣き声を子守唄にして、スヤスヤと心地よい眠りの中にいたのだが、やはり少しだけ娘の様子が気がかりになり、薄目を開いてみる。



「アーーン!」



 誰が娘をこんな泣かせたのだろう。まったく酷いことをするね。起きたらお父さんが叱ってあげよう。プンプン。

 では、おやすみ。



「アーーン! アーーーーン!」



 と思いつつ安らかな眠りに入ろうとしたのだが、いい加減、真夏に体温の高い子供にしがみ付かれてクソ寝苦しかった。

 娘の声は、いくら張り上げようと騒音に感じられないのだが、人間湯たんぽの方は厳しい。すっかり腹に張り付いてしまった娘の体温はだんだんと高くなってくる。これではたまらない。

 それで眠気まなこで薄目を開き、娘を覗き見る。



「やーだ〜。や〜〜ダ〜!」



 ずいぶん酷い顔をしている。

 そう言えば、スズメはこういう風に泣く子だったな。娘の泣き顔をいつも見ているはずの私だったが、なぜかこの泣き顔がひどく懐かしいものに感じられた。


(‥‥懐かしいか。どうしてそう思えるのだろう? 毎日うんざりするぐらいこの顔は見ているはずなのに。‥‥‥どうして今はこんなにも愛おしく思えるのだろう?)


 などと考えていたら意識がだいぶはっきりしてきた。今日は娘を動物園に連れてゆく約束をしていたのだ。


(‥‥‥ああ、覚えているよ。これはあの時の後悔だ。一度くらい言うことを聞いて、娘をどこかへ連れて行ってやればよかった。ずっとそう思っていたんだ。‥‥‥‥そうだった。娘は初めて動物園へ行けるこの日を、本当に楽しみにしていたのだったな)


 眠気のために時間の感覚が混在としており、意識が朧げになっているようだ。定まらない意識は、いま目の前にあるはずの景色を、なぜだか遠い過去にあった懐かしい思い出として映し出していた。



「アーーン。どうしていっつも約束破るの。ゼッタイ、行くって言った。言ったのに。アーン、あーん」



 いやさ。違うんだ。お父さんだってお前と動物園に行きたかったさ。すっごく楽しみだったんだよ。本当だよ。でもね。お父さんにはお前を育てる為にお仕事というものがあってね。たまにだけれどね。お父さんも嫌なんだけど。接待というものがあるのだよ。すっごく嫌なんだけどね。しょうがないよね。昨日も仕事終わりに、どうしても同僚たちと夜釣りに行かなくてはいけないという接待があってね。仕方なかったんだよ。お前を育てるためには、時にお父さんはお前との約束よりも嫌な事を優先させなければいけない事があるんだ。

 ごめんね。お父さんは仕事ばっかりで。

 動物園はまた今度行くからね。



「‥‥‥‥‥‥‥‥スピー、スピー」



 娘は私に抱きついたまま、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったようだった。

 扇風機の人工的な風とは別に、外から心地よい風が吹き込んでくるようになる。この家の午後の居間は、風通しがよく、程よく日光が入り込んできて気持ちがいい。

 家の外では妻のよく通る大きな声が聞こえてくる。またご近所の方と話し込んでいるのだろう。

 こうして眠気を感じながら休日の時間は静かに過ぎてゆく。

 私は腹の上で眠る娘の背中をポンポンとゆっくり叩きながら、そんな穏やかな時間を楽しんでいた。


 

          ⚪︎



『今日は楽しい寝て曜日のウタ』



 今日は楽しい寝て曜日

 お父さんと一緒に寝よう


 君が夢見るのはジャングルジム

 ビルよりも高く登って てっぺんだ

 お次はブランコをゆらして羽ばたいて

 浮かんで 飛んで 

 それ 空中遊泳だ

 お空の小鳥さんたちにご挨拶だね


 おやおや

 そんなにお父さんの手を引っ張って

 次はどこへ行きたいのかな?

 君のことが大好きなお父さんは

 今日は一日中

 いくらでも一緒に遊んであげられるからね

 

 今日のお父さんは

 君の貸切なんだ


    十


 動物園? そこへ行きたいんだね

 それじゃあ、この夢の国のチケットを切ってごらん


 ああでもね 

 そこへ行きたければ

 お父さんに笑顔を約束しておくれ 

 君の笑顔が夢の世界での入園料になるのだからね


    十

 

 ヤッタネ

 ゾウさんがお鼻で 

 君を背中に乗せてくれたよ

 さあ、お父さんと一緒に夢の国の動物園へ出発だ

 

 しっかり手をつないでいてね

 今すぐ君が会いたかった

 お友達のキリンさんに会いに行こう

 コアラさんにも挨拶をしなくちゃね


 ワニさんも

 トラさんも

 ペンギンさんも


 待ち遠しくして君を待ってるよ


     十


 笑っているのかい?

 君の笑顔は

 お父さんの喜びなんだよ


 楽しんでくれたのかい?

 君の笑顔のおかげで

 お父さんの疲れはなくなっちゃった


     十

  

 それじゃあ

 いい子にしていた君のために

 もっと君が笑顔になれるように

 お父さんが秘密の魔法をかけてあげよう


『えい! ちちんぷいぷい

 でっぷり お腹がふくらんだ

 お父さん魔法!』


     十


 わわ、スゴイネ!


 ここは夢の国の動物園 

 ティラノザウルスくんが吠えてるね

 知ってたかい? 

 あれはキリンさんじゃないよ

 ブラキオサウルスさんて言うんだよ

 それであれはツチノコ 

 あれはネッシー

 続いて宇宙人

 仲良し夫婦のドラゴンもお空で遊んでるね

 あれ? あそこで手を振ってくれているのは妖精さんかな?


    十


 どうしたの?

 誰を探しているの?


 大丈夫 

 君は迷子になんてなってないよ

 お父さんは ほら

 ずっと君の手を握っている 


 だから

 いつまでも遊び続けよう 


 君は

 どこまでも

 どこへでも

 自由に駆けて行っていいんだよ


     十


 大丈夫

 ずっとついていくよ お父さんは

 君が手を引く場所へなら何処へだって


 お仕事はないよ

 接待もないよ

 途中で 腰が痛い

 アイタタなんて言わないよ

 今日のお父さんは

 君に負けないくらい張り切っちゃうんだからね


 よし、頑張るぞ!

 もっとサービスしちゃうぞ!


 

『この夢の国の動物園で!』



 えっーーー

 お父さんはこんなにも頑張りたいのに

 君はもう遊び疲れてしまったの?

 疲れて眠くなってしまったの?


 えーーー

 すごい残念

 チョー残念

 お父さんは君ともっと遊びたかったのにぃ〜


     十


 じゃあ、こっちへおいで

 お父さんのフカフカなお腹の上で眠りなさい

 家まで送って行ってあげよう


 おやすみ 

 今日は楽しかったかい?

 君と一緒に遊べて

 お父さんも本当に楽しかったよ


 愛しい我が子よ

 わたしの宝物よ

 たくさんの笑顔をありがとう

 おかげでお父さんも

 明日からのお仕事を

 笑顔で頑張れる


     十


 今日は楽しい寝て曜日

 お父さんと一緒に寝よう



          ⚪︎



 娘の寝息がだんだんと静かなものになってゆく。私の腹の上ですっかり寝入ってしまったようだ。

 このまま一緒に夕方まで眠ろうというところで、先ほどから外で井戸端会議をやっていた妻が家に戻って来た。家から出る前に掃除途中だったようで、掃除機をかけ始める。しばらくの間、廊下と隣の部屋から音が聞こえていたが、私たちの眠るこの居間へも掃除機を引っ提げてやって来た。

 妻は邪魔臭いとばかりに掃除機の先で私を押し出す。突っつかれると私は心得たとばかりにゴロゴロと転がりながら、部屋の端へ移動する。

 娘も慣れたもので、私の上に引っ付いたまま、一緒に器用に転がってゆく。

 妻は手際良く部屋の半分を片付け終えると、部屋の端に寝転がっていた私をまた掃除機の先で突っつきだす。

 私は再び部屋の反対側の端まで転がっていった。娘も小判鮫のように眠ったままくっついてる。

 しかし今度は転がる回転数が合わなかった為に、私は仰向けにならず、うつ伏せの姿勢になり端にたどり着いた。そして娘の方は私とは上下逆さまにひっくり返り、ちょうど私の尻に顔を埋めている体勢になった。



 ブーーっ!



 あっ、出ちった。

 娘が尻に顔を付けているにも関わらず、豪快にこいてしまった。

 するとすぐに娘はムックリと私の尻から顔を上げる。

 泣き疲れの顔やら怒りやらが混じった実に不細工で実に不機嫌な顔をしている。

 しばらくワナワナと震えていたのだったが、母親が家に戻って来ていて、台所の方へいるのを確認すると、娘は一目散に駆けて行った。

 そうして妻に大声で話しかける。



「ねぇねぇ、おかーさん。粗大ゴミの日、今日じゃなかったのー!」



 私は娘の将来を不安に思った。



 










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