2-4 釣果①



 海はいい。海は疲れを癒し、心の汚れを洗い去ってくれる。

 私が釣りを趣味としていたのは、大海原(大空)にあるこの静寂を愛していたからだ。寛大な自然はいつでも、社会という荒波で揉まれに揉まれて、荒んでしまった心を静かに受け止めてくれた。


 ––––視界の端に雲がゆるりと流れてゆく

   船は風でたゆたい流れて進む

   私は一面に広がる透き通った青の世界に、ひとすじの糸を垂らす

   これが至高でなければ、何が人生で最高のものになるのだろうか


 男が生涯の趣味を持つことは良いことだ。生涯の趣味というものは、どこにも逃げ場のなくなった疲れ果てた精神の、最後の避難所となってくれるものなのだから。

 


「お父さん、いい天気だね!」



 だから娘にグチグチ言われてもあえて・・・釣りをやり続けたのは、道楽だけが理由ではない。そのようなやむに止まれない理由があったのだ。

 


「え、ガン無視? マジで言ってる?」



 あ〜〜、海はいい。

 本当にいいなー。

 

 現代社会においては、どうしても様々なしがらみによって精神は擦り減らされてしまう。逃れようとしても肉体的には会社や家庭に拘束されて身動きできない。繰り返すようだが、だからどうしても心の避けどころが必要だったのだよ。私のように心労で疲れた男にはね。まあ分かる人には分かると思うが、男はそういうものを必要とする生き物なのさ。

 私は自由満開な心持ちで釣りを満喫して、一つ大きな欠伸した。



「聞こえてない? お互い霊だから、もしかして見えてない? あ、ウソでしょ。いまちょっと、こっち見たでしょ?」



 ああ、海はいいなー。

 余計な雑音はシャットアウトされるし、ここではすべてのしがらみがなくなる。

 釣りは孤独を楽しめる唯一無二の趣味だよ。

 あー、心が癒やされる〜。 



「面白い人だな。もー、冗談やめてよ〜。あはは」



 ええい、うっさい。

 さっきから何だ。



          ⚪︎



「ねぇ、お父さんさ、もう釣れた?」


 見りゃ分かるだろう。

 釣れとりゃせんわ。


「じゃあさ、釣ってくれるなら次は女の子がいいんだけど。頑張ってよ」


 若造め。年配者に軽薄な物言いをしよってからに。

 こやつの見た目は30ぐらいだろうか。うっすらと髪を染めて、顎髭を生やし、派手なジャッケットを着ている。主張の強い色合いの格好をしても、最近の若者らしく清潔感は損なっていない。一見するとどこにでもいる陽気なアンちゃんように見えるのだが、どうにも胡散臭い。さっきの二人組も胡散臭くはあったが、それとは質がだいぶ違う胡散臭さだ。身に纏う雰囲気に黒いものが感じられる。


「あはは。ほんとにビックリしたよ。いきなり引っ張り上げてくるんだもんさ」

  

 うむ、私の勘が黄色信号を灯している。

 あまり近づかない方がいい人間だろう。

 私は男に対して無視を決め込み固く口を閉ざした。

 

「お父さん、もしかして釣りジャンキーなの? 死んでまで釣りとかマジでぶっ飛んでんね。本当に面白い人だな。あはは」


 などと男は私の横に腰掛けて、人好きのする笑顔で陽気に笑っている。

 それを私は横目でチラリと見てみるのだが、


 –––なんだコイツの姿は‥‥?


 実を言うと黒いのは雰囲気だけでなかった。男は実際に黒いのだ。霊体が煤けている。

 どう見ても良いもののように見えない。いかにも邪悪な存在のように見える。

 だから表面上は陽気で社交的に振る舞っていても、正体が丸見えのため信用できないのだ。

 こういう手合いは関わらないのが一番だ。私は無視を続ける事にした。

 

「俺、釣りってやったことないんだよね。子供の頃に一度やったことはあるんだけど。あ、これルアーでしょ。これとこれ、何に使う道具なの? 興味出てきたよ。俺も釣ろうかな。釣竿貸してよ。お父さん」


 貴様にお父さんなどと言われる筋合いはない。

 おい、勝手にルアーに触るな。

 おおい、それにも触れるな。

 貴様なんぞに私の竿(命)を貸す訳がなかろう。


「この竿借りるね。何これ? この糸とかどうすんの? 針って自分でつけるの? ちょっと面倒臭いね。あー、そうか。この遊びって、投げたらずっと待たないといけない感じのやつだったよね。あはは。今更それ言うみたいな顔しないでよ。やっばい、暇すぎるでしょう。なんか音楽とかない? え、ない? あそう。じゃ、やっぱ、釣りはもーいいや」


 ふん。即効で飽きたか。

 釣りの良さが分からんとは、浅い奴だな。

 出会って僅かばかりの間柄だが、数々の軽薄な言動で男への心証はずいぶん悪くなっていた。そして釣りへの侮辱を口にした事により、いよいよ語るべきことはないと判断する。

 やはり黙る事に決め、男を無視しつつ釣りを続ける事にした。そのうち飽きたら船を離れて何処かへ行くだろう。

 男はすっかり釣りには興味をなくしたようで、私の隣から立ち上がって船内を徘徊し始めたようだ。先ほど勝手に持ち出した釣り道具は、片付けられることもなく粗雑に捨て置かれていた。



          ⚪︎



「おー、マジ、いい船。でっけーし、眺め最高! スッゲーじゃん。お父さんさ、この船動かしていい? 鍵はどこにあるの? 貸してよ」


 ヤレヤレ、忙しない奴め。今度は船か。

 さすがに後ろを振り向いて様子を伺うと、男は操舵室に上がって、船を操縦しようとしているようだった。


「ウッホー。浪漫だよね。こんなの一度は運転してみたいと思うじゃん」


 男は操舵を握って適当にあっちこっち押したり動かしまくっているようだが、余計な事をして船を壊さないか私は内心ヒヤヒヤだった。


「お父さん、早く鍵ちょうだいよ」


 おい、ふざけるな。渡すわけがなかろう。お前は新車を他人に貸すのか?


「聞こえてる? かーぎ。受け取るから投げてくれていいよ」


 勝手なことばかり言いよってからに。

 ん? あいつ、顔に何を付けている? 大きなホクロ‥? ではないな。ああ、あれか。オデコに私がさっき飛ばした鼻くそをつけておる。

 

「大丈夫。ぶつけないよ。運転上手いよ、俺。こう見えて外車3台持ってるからさ。死ぬ前にも新しいのを納車したばっかりだったんだよね。あれっていくらだったかな。自慢じゃないけど確か4千万円? 勿体無いことしたな。まだぜんぜん距離、乗ってないのにさー」

 

 自慢だろうが。胸糞悪い。

 そんな稼ぎがあるなら買おうと思えば船も余裕で買えただろう。

 私は生前はファミリー向けの安いミニバンと社用のトラックにしか乗っていなかった。

 若造め。人は見た目によらんな。生きていた頃は実業家か何かだったのだろうか。

 ふん。あえて鼻くそのことは言わない事にした。



          ⚪︎



「おー‥、ダメだ。今フラッシュバックした。なんか急に嫌なこと思い出したよ。俺、車を運転してて死んだんだった。ヤバかったなー。あの女、運転中に騒ぎ出すんだもんよ。ヒステリーかよ。チッ、クソ女、アイツ。–––––‥‥アレ? ‥‥‥アイツ? あの女、‥‥誰だったけ?」


 先程から操舵室に入り込んで騒いでいるあのうるさい若造は、先ほど釣り上げたばかりの初釣果だった。

 私は黒服の二人組と別れた後、颯爽とクルーザーに乗り込み、快速を飛ばしてかなりの距離を移動した。そして、しばらくすると大物が釣れそうなポイントを見つけたのだった。

 そこは都市の中心部の上で、有名な街並みが見下ろせた。眼下には何か大きな黒い気配がわんさか蠢いており、大漁の獲物がいることを予感させた。

 私はさっそくワクワクしながら糸を垂らしたのだった。


「‥‥‥まあいいや。あんなクソ女、思い出す必要もねーや。でさ、お父さんさ、さっきも言ったけど、本当にビックリしたよ。死んでから街をプラプラさまよっていたら。いきなり引っ張りあげられるんだもんさ」

 

 私の愛用するうみねこブラックファイヤー28号は手動リールだ。電動も良いのだが(年を取ってから完全に電動に切り替えたが)、私のように年季の入った釣り師は仕掛けを準備し、糸を垂らし、釣り上げるまでのすべての過程を愛している。手巻きでしか味わえない格闘感というのだろうか。筋肉に伝わってくる重さ、糸の張りを通してのまだ海面から見えぬ獲物との無言の会話が好きなのだ。


「ねぇ、ところでお父さんさ。娘いるでしょ? 俺ね、そういうのわっかるんだ〜〜」


 最初、根掛かりなのかと思いきや、急に暴れ出した。竿を制御しようとしても覚束ない。散々に抵抗して暴れ回るから私も血が騒ぎ楽しくなってしまった。コイツはきっと私と語れる・・・獲物だと期待した。


「これ霊感っていうの? 死んでるだけに? あはは。で、娘さん、可愛いでしょ? 年齢も若いでしょ? 俺と同じぐらいな感じ? 違うな。ん〜〜、もうちょっと下かな? もうちょい下? あ、当たり? そういうのわっかるんだ〜〜」


 で、コイツだ。

 ぜんぜん、語れん。

 とんだ雑魚を釣り上げてしまった。



          ⚪︎



 あの鼻くそ男はまだ操舵室から離れず、動かない舵をいじって遊んでいる。ただ無邪気に遊んでいるように見えて、念入りに船を調べているようにも見える。運転をしてみたいだけで、船には軽い興味しかないかのように装っているが、どうにも怪しい。鍵は絶対に渡さん方がいいだろう。勘というやつだ。


「ダメだ。動かない。やっぱり鍵は必要か。‥‥‥‥‥ふーん」


 男はそう言うと、操舵室から飛び降りてきて、再び私の横に腰掛けてくる。

 そうして笑顔で笑いかけてきた。その笑顔の裏で奴の霊体が黒く歪む。見るからに含みのある作った笑顔に見えた。

 私は生前、トラックのドライバーをやっており、よく人を助手席に乗っける機会があったため、多少は人を見る目がある。

 ほとんどはやんちゃ系統の者ばかりだったが、見た目は厳つく態度も粗暴であっても、なんとも愛嬌のある男というのは多く見てきた。ひたすら喋りまくる者もいたし、私のように無口な者もいた。無愛想で口が悪い者も多くいたが、不思議と嫌いな者は一人もいなかった。一生懸命に汗を流して働く人間とう言うのは、基本的にみな人は良いのだ。

 だがこの男の笑顔からは危険なものを感じる。ほれ、その証拠に、また霊体が黒く歪んでおる。

 

「紹介してよ、お父さんさ。俺こう見えて一途で女を大切にする男だからさ」


 ふん。それを親に言うのか?

 娘は既婚者だ。残念だったな。


「もしかして結婚してたりする? 大丈夫、俺ってそういうの気にしないから」

 

 誰が貴様なんぞを娘に近づかさせるか。バカモンが。

 コミュニケーションが達者な人間の中には、親しくなろうとしてあえて馬鹿げた軽口を叩いて、それを笑い話にして話を広げようとする者もいるが、そう言う感じにも見えない。私に興味は持っているが、なんと言うか私という人間の情報を知ろうとしているだけで、親しくはなろうと思っていないはずだ。そういう輩は警戒した方がいい。

 コイツは本気で親に娘を紹介しろと言っている気もする。狼に自分の子を引き渡すバカがどこにいるというのか。

 それに、おい、お前のその薬指についているのは指輪ではないのか?


「なに見てるの? あ、コレ。ちょっと記憶喪失みたいでさ。なんでコレはめているのか覚えてないのよ。なんとなく結婚したけど、結婚してなかったような気がするんだよね。よく分からないこと言ってるけど、俺もそこのところ記憶が曖昧でさ」


 さっきからコヤツのせいで釣りがまったく楽しくない。隣で不快な事を喋りまくられ釣りに集中できなくもなっている。


「ま、いいじゃん。死んでるし、いま実質フリーみたいなものでしょ。ヘーキヘーキ。だからさ、紹介してよ」


 あー、この感覚はあれだ。

 過去に似たような人間に出会った経験があった。思い当たる記憶がある。

 昔、会社に備品の納入のために出入りしていたセールスがいたのだが、そのセールスがウミさんだけに個人的に取り扱っている投資の話があると言って、その話をするために本業をそっちのけで私の運転する車(トラックの助手席)にまで乗り込んできた。必ず安定して儲かるから、老後に備えて貯金をすべて預けてみないかという話だった。

 気味の悪いほどの明るい笑顔で「ここだけの話」を連発して、しつこく誘い込もうとしていたが、私がうんともすんとも答えないのを見て、諦めて消えていったのだが、しばらくしてその男が私の勤めていた会社に出入りしなくなると、長く一緒に働いていた人の良い同僚も一人消えた。投資で騙されてとんでない額の借金をこさえてしまったらしい。


「取れないんだよね、この指輪。何でかな?」


 私は獲物がかからぬ釣竿を適当に横に振って、心の中で大きなため息を吐いた。

 それでふと思った。

 ジロー君の事だ。

 あの日、娘がこんな碌でもない男を連れて来なくて本当に良かった。

 今さらながら、改めて天が娘の夫にジロー君を与えてくれた事に感謝した。 


「あ、待って、なんか連絡入ったわ。–––ハイハイ。えっ、あんた誰よ?」


 こんなところまで来て携帯か。先ほどの黒服の二人組も使っていたな。霊の世界の常識はどうなっているのだろうか?

 私も会社に散々持つように言われたが、ついぞアレは持たなかったな。

 あらゆる圧力を跳ね除けて、会社の人間に諦めろと睨みつけていたら。

「まあウミさんだからしょうがないね」

 とまで言わせるようになったから私の勝ちだ。ふふふ。




「お金貸して」




 何の脈絡もない一言だった。

 男は真顔で不躾にそう無心してくる。

 貸すわけがなかろう、と私は無言で答える。

 

「あそ」


 男はすぐに諦める。またスマホに耳をそばだてている。私は横目で男をその様子を見て、これは言い慣れている者の態度だな、と思った。

 

「‥‥‥あー、少し思い出したわ。さっき街をプラプラしてたって言ってたけどさ。ずっと恐い何かに追われているんだった。‥‥‥でも、なんだっけ、おれ、何に追われているんだっけ? ヤッバ、わっかんねーや。すっげー、恐ぇぇ」


 スマホからどんな声があり、それがどういう内容だったのか具体的なものは察しがつかないが、男は急に感情を取り戻したかのようにはしゃぎながらも、真剣に焦っているようにも見えた。


「お父さんさ、すっごく名残惜しいと思うけど、ごめん逃げるね」


 男はそう言うと船から空に飛び込んだ。周囲はいつの間にか薄い雲に覆われており、男はその雲に沈み込んでいなくなった。そのまま何処かへ行ったかと思ったが、男は再び雲から頭をひょっこり出して、忘れ物をしたかのようにこう言う。


「あ、娘さんの連絡先だけ教えてくれない?」


 こういう手合いの男に会うと私はいつも思うのだ。

 娘が心配だと。



          ⚪︎



 (‥‥スズメ。あいつは今頃どうしているかな)


 私が答えないのを見ると、男は鼻くそを付けたまま雲に潜ってどこかへ行ってしまった。

 辺りは暗くなり、知らぬ間に船は薄暗い雲に囲まれていた。

 

 (まったく嫌なものだな。いつもこうだ。娘の心配をし出すと際限がなくなる)


 考え事をしていて舵を切るのも忘れてしまっていた。

 娘のことが気がかりになって気が回っておらず、船の進路はそのままになり、私は船ごと深い雲の中に入って行ってしまったのだった。







 

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