2-6 釣果②


     

 ––––––––––––––––––大きな曇天の雲を突き抜けると、再びカラリとした空が広がっていた。眼球を突き抜けてゆく強い光に起こされ意識を取り戻すと、私は変わらず竿を握ったまま船の上にいた。

 突然に起こされて寝ぼけたような状態だったのだが、状況を把握しようと思考が正常に回り出す前に、目の前に現れた光景に心を奪われてしまう。


 ––––ああ、これは本当にすごいな‥‥。


 思わず自分が天国に至ってしまったのだと思ってしまった。

 上空に光を妨げる物が何もないこの場所は、降り注がれる陽の光のすべてが眼下に広がる雲とぶつかって乱反射を激しくしている。一面の雲の中からも神々しい光が漏れ出ている。

 世界が息を飲むほどに美しい。私は目を見開いてその圧倒的な光景を見つめていた。


 ––––いや、しかし‥‥そうだ。

   ここは‥‥私は‥‥。


 と世界に見入っていた私は、思い出すように思考力を取り戻して、状況を理解し出す。

 私はずっと光が遮られた暗い雲の中を航行していたのだったと思う。それで暗いところから一気に視界が開け、燦然と輝く天上世界に出てきたのだ。

 この光溢れる世界を目にした私は、身分不相応な自分がこのような場に至れたことを光栄に思い、たいへん喜んだ。



「もしもーし、オヂ。ここすごいね」



 だがしばらくすると私の感動は少し薄まっていた。少し前の私が諸手で感動していた天国のようにしか見えなかったこの広大な世界は、–––これは勘か。それとも霊感なのだと思うが。–––そうした本物の天上には遠く及ばない場所に思えてきた。

 霊の体がそう思わせるのか、感覚的すぎてよく分からないのだが、何か味気ないのだ。私の魂が行くべき所は漠然としてだが、ここでない感がある。


「ヤッバ。わたし、天国に連れて来られちゃった感じ?」


 クルーザーは大きな雲を突き抜けた後も航行する経路を定めぬまま、大空を彷徨っている。

 私は雲の中にいる間、しばらく眠っていたのかもしれない。何かとても意味のある懐かしい夢を見ていた。そこで幼い娘に会っていたような気もする。腹の上に強くしがみつかれ、酷く泣かれ、何かをねだられていたような気がする。風を吹き通す空虚な身体のはずなのに、私のこの霊の体には、娘の高い体温がまだ仄かに感じられる気がするのだ。

  

「このクルーザー、おっきいね。オヂのなの? ふーん」


 ‥‥‥‥‥いや、気がするだけで、気のせいか。

 だって、そんなことはなかったはずだ。

 私は眠ってなどいない。目覚めていた。起きて闘っていた。

 さっきまでは腹に娘の温もりを強く感じていたのだが、今はその感覚は薄れ、それよりも腕と手のひらにある疲労感の方が色濃く残っている。竿を強く握りしめていたという感触だ。

 私は頭を振り、はっきりと目を覚まして思い出す。


 雲の中は雷鳴が轟く嵐だった。先程までずっと船上で格闘していたのだ。獲物と激しい引っ張り合いをした時の竿の重さや、滑り落ちそうになりながらも足腰を踏ん張ってギリギリのところで踏み止まった記憶と、生々しい疲労感がまだ全身に残っている。

 視界不良の最中、目の前でいくつもの電撃が走り、そのおぞましい光景に恐怖した。船が激しく揺れ、船内の備品が地上へ落ちていった。船に稲妻が触れて、船が一回転するほど暴れてしまい、その衝撃で竿がへし折れそうになった。その悪環境の嵐の中でも私は諦めなかった。長い長い格闘の末、獲物を釣り上げたのだった。それで私は魂を震わして大いに歓喜したのだったな。あれは記憶に残るすごいインパクトだった。忘れるはずもない。


 ––––えーと。それでどうした‥‥?

   

 ‥‥‥そうだった。それで新しい釣果を得たのだったな。先ほど釣り上げた軽薄な男に続いての本日二人目だ。隣に座っている小娘を地上から釣り上げたのだ。私の記憶は、そうだったはずだ。

 

「オヂ、なにやってた人? 大企業の社長とかだったりする?」


 ‥‥‥‥‥ん?

 違うな。やはり夢を見ていただけのような気がする。幸せな思い出の世界で、少しの時間だけ久しぶりに、妻と娘と暮らしていた気がするのだ。

 ‥‥‥どうも記憶が曖昧だな。

 夢を見ていたのか。釣りをしていたのか。なんだかよくわからない。

 いったいどうしたのだ。私は?

 おいおい、冗談じゃない。死んでからボケになるとかやめてくれよ。しっかりしろ。

 

「私さ、子供の頃、ネグレクトでさ。なんかオヂを見てると、寂しくなっちゃう。パパって呼んでいい?」


 などと絶賛記憶の錯乱中だったのだが、聞き捨てならぬ言葉が隣から聞こえてきたので心の中でツッコミを入れることにした。


 お前にパパなどと言われる筋合いはない。


 

          ⚪︎



「パパ。わたし寂しい。腕組んでいい?」



 隣にいる女性の存在には気づいてはいたが、今の世の中、年頃の女性に迂闊に声をかけてしまうと色々と問題がある。

 という事で私は、紳士として普段から知らない女性には迂闊に声はかけないぞと決めていたので、何やら話しかけてくる女を無視していたのだったが‥‥。ええい、触ってくるな。息を吹きかけてくるな。なんだこの小娘は? ベタベタと妙に馴れ馴れしい。最近の若い娘はこういうものなのだろうか? やたらスキンシップを試みてくる。

 私は小娘の手を払いのけた上、再び無視する。


「えっ、ウソー。なんで? ねぇ、聞いてた? わたし寂しいんだけど」


 最近の若い娘のやることは分からん。ヤレヤレと一度リールを巻き戻してから竿を投げた。

 そこで思い出すものがあり、はぁと息を吐く。

 分からないのは自分が何をしていたかもだったな。歳を取っても頭だけは丈夫だと思っていたが、私にもついにそういう時が来たのだろうか?

 やや気落ちしたが。衰えなどすでに体の各所に見られており、歳を実感してからはそんなものは日常でもう慣れている。はっきりしたことは思い出せない。依然として頭の調子が良くなく、記憶が混乱しているが、よく分からないことを考え込んでもしょうがない。ま、要するにこんなものは気持ちの持ちようだろう。歳を取ったら衰えてゆく自分とも上手に付き合ってゆくものさ。そう気を取り直して、まだ満足する釣果を得ていないこともあったので釣りを続けることにした。


「んー、効かないか」


 そう言うと小娘は唇を尖らす。寂しいとかなんとか言っていたな。何か意図があったようだが、なんのこっちゃという感じだ。

 私は釣りをしながら横目で隣に腰掛けている小娘の方を見る。少女のように見えて‥。んー、二十歳、いや30ぐらいの女のようにも見える。今の時代の女はみんな若作りをするから年齢が分からん。ま、どっちにせよ、私にとっては小娘だ。


 この娘は今日釣り上げた二人目の釣果になる。嵐という悪環境の中で釣り上げたことは我ながら誇らしく思うが、どうにも小ぶりだ。まだまだ私の望む釣果とは言い難い。どうやら釣り上げられる獲物は人間なのだと分かったので、どうせ釣るならば、もっと生きのいい‥‥。そうだな、力士とかがいいだろう。

 私はまだ見ぬ大物を夢見て、もう一度、トライするのだった。


「せっかくスキ作ってあげているのに。もしかしてこのオヂ、鈍感?」


 と言いつつも横目で小娘を観察してみる。

 それにしても随分と霊体が黒いな。前に釣った男も黒かったが、この女もだ。見た目は可愛らしい年頃の女性のように見えるが、おかげで印象がだいぶ悪い。


「じゃあ、どうしよっかなー」


 うん‥‥? 

 そう言えば私はどうなのだ?

 他人を黒いと言ってるが、自分の霊体がどういう姿なのか気にかかった。

 そこで片方の手を太陽に翳してみると、私の霊体は白く透き通っているようだった。


「オヂ、私ね。いま、すっごく頑張ってるんだ。学費大変だし、事業とか独立しようと思って。だから応援してほしいの。オヂに助けてほしい。相談とかも色々したいし。オヂのことパパって呼んでいい? ダメ?」


 などと少し首を傾けて甘えるように言ってくる。

 またパパか。

 訳の分からんこと、ここに極まれりだな。私は泰然自若と竿を構えて、こう無言で返すのだ。

 私はお前にパパなどと言われる筋合いはない。


「‥‥ダメ?」


 小娘はさらに首を傾けて言ってくる。私は思わずしかめっ面になる。

 言いたい事があるなら年寄りにも分かるようにハッキリ言え。訳の分からんやつめ。

 小娘を無視してリールを回す。そろそろ飽きて来たので仕掛けでも変えるかと、道具入れを漁ることにした。

  

「んー、これも効かない?」


 さっきから何なのだ? この小娘は?

 世代間に距離があり過ぎて考え方がさっぱり分からん。

 私はそのように思いながら道具箱から年季の入ったウキなどを選び出し、新しいパーツの組み立てを頭で描くと、糸を引き上げて、仕掛けを作り直す。


「オヂ、私さ。寂しくて、困ってるの。頑張ってるから応援して欲しいの。すごく心細いの」


 こちら(小娘)の方も何かを仕掛けて来ているようだが意図がよく分からない。

 私は相変わらず口を開くことはなく、手慣れた作業を続ける。


「‥‥‥ねぇ、なにしてるのそれ? そんな事やるより私に言うべきことあるんじゃない?」


 意味が分からん。私はこの不躾で横柄に見える小娘を無視して手作業を続ける。何かさっきから同情を誘うような事を言っているが、まったく共感できるものがない。むしろ警戒してしまう。だって、お前の霊体、見るからにドス黒いんだもん。


「じゃあ、ぶっちゃけるね。お・か・ね、ほしいの。援助してくれたらパパにしてあげる」


 そう言うことか。思わずため息をつく。

 私は生前、家庭を守るのに必死で、そういう場には付き合いでも寄りつくことはなかったが、もしや水商売の女か? いや、少し違う気もするな。どうにも素人臭い。なんというかバイト感覚というか、定職にはしていない気がする。どういう事を生業にして生きている人間なのかよく分からない。どちらにせよ、稼ぐのにまっとうな考えを持っていない女だとは分かった。

 私は仕掛けを作り直し終えて、再び竿を投げた。


「また無視? カッコつけてる系オヂ?」


 また訳の分からん言葉を使いおって。

 残念だったな。娘ならもういるぞ。それも飛び切りに手のかかる奴がな。

 フン。育てる苦労を知っていれば娘など一人で十分だよ。ヤレヤレ。


「どうしよ。ん〜〜〜‥。あ、オヂ、フェロモンすごい。デブ好きかも。ハゲも可愛いよ。援助してくれたらもっと好きかも」

 

 ‥‥金か。

 娘とそう変わらない年齢の若い女が、道理の道から逸れて、どうしてこういった悪い道に至った理由は分からない。そもそもの話、さっきの男もだが、なんでもう死んでいるのに金にそこまで拘る? 仮に金銭を無心するにしてもだ。最近のこういう若い女は、なんの情緒もない物言いで駆け引きするものなのだろうか。昔憧れた映画の女優などは色っぽく遠回しに距離を詰めてくる感じだったがな。

 ‥‥‥ムッ、いま竿がチョンと動いたな。


「あ、説教系オヂかな? つまんな。一番メンドなヤツじゃん。男なんてみんなエロやろ。アホくさ」


 何を言っている。男がみんなそんなだと思うな。

 それに、ちょっと今、話しかけるな。チョンと食いつきそうなんだ。

 ほれ、竿の先を見てみろ。チョンとな。


「おいジジイ。何で無視するん? なんかムカつく感じがするんだけど。あ、説教系だからジョーシキでも語ろうとしてるん? でもどうせエロでしょ? 高校の時の担任もそうだったよ。いちいち説教してからエロとか笑えるー」


 だから男がみんなそんなだと思うな。

 で、なんだと? 高校の教師だと? まさかそれは教師と爛れた関係を持ったとかではあるまいな。最近では教育者とは名ばかりで、勉強の技術しか教えられない者が教壇に立っていると聞く。実に嘆かわしい事だ。

 昔はそうではなかったはずだがな。教師は教師だった。時代は移り変わり、そうか、人の道を説ける者はもういないのか‥‥。

 私は世を嘆きながら獲物に食いつかせるために竿を微妙に揺らす。


「オヂなんてみんな偽善者でバカばっか。言っとくけど、私は誰よりも世の中のジョーシキを知ってるし、正しく生きているんだから、馬鹿にすんなし」


 ‥だいたい分かった。この小娘の哀れなところは今までに敬意を持てる大人に出会わなかった事だろう。そうした悪い大人は、このような小娘に人生を悟ったような顔をさせて、誰もがそれでいいと言って相槌を打って、その実は見捨ててしまったのだろう。この小娘を欲望の目で見ず、物のように扱わず、誰か一人でも親のような愛情の目で見つめて、まともな言葉をかけてやったらと思うと悲しくなった。



          ⚪︎



「説教してきたオヂはみんなクセーんだ! オメーらの古臭い常識なんて建前のくせに偉そうにすんな!」


 知らんな。私は自分の知っている常識で判断する。今の世の流行り廃りに合わせた考えなど持ち合わせておらん。そもそも人倫に古いも新しいもないだろう。


「黙ってんな! 偉そうにすんな! ジジイ、知ったかぶりすんな! オヂはどうせみんなエロのくせに知ったかぶりすんな!」


 などと小娘はいきりだって叫びだす。放っておいたら勝手にこうなった。

 私はしげしげと小娘の表情を伺う。

 変な媚を浮かべた顔ではなく、ようやく本心で話すのだと思ったのだが‥‥、


「‥‥あ、ヤバ。間違えた。やーん、冷たい態度取らないで。オヂ、いじめちゃヤダ。ね?」


 すぐに表情を切り替える。甘えるような媚びた顔だ。

 本気で怒っていたと思ったのに、この女は瞬時に、自分の作り出した険悪な雰囲気を消し去り、また振り出しに戻した。私の身近には怒ったら怒りっぱなしで、しばらくは不機嫌に付き合わせられる女性しかいなかったので、その荒技は感心するところだったが、ちょっと気づく事があった。

 (ん? この娘、泣いてないか?)

 相変わらず小娘は黒黒しい姿をしているのだが、一瞬見えた表情に、この女の本性が見えてしまったような気がした。


「んふふふ。私にはね。応援してくれるオヂがたくさんいるの。だから寂しくないよ。だからオヂもパパになってよ」


 どちらにせよ、世も末だ。年頃の若い娘が、こんな爺に歪んだ媚を売ってくる。それも売ろうとしているのは自分の色だけで、欲しがっているのは貪欲に金だけだ。人格に誇りも品性もない。

 悲しいのは、この若い娘が今でもずっと、そこらの中年とこうした交渉して生きてきたという事実だ。  

 この状況をなんと言ったらよいのだろうか。実に嘆かわしい。


「オヂ、何かムカつくこと考えてない? 私ね、別に不自由じゃないよ。自分らしく生きようとしているだけ‥‥––––あっ、待って! ウソー、鳴ってる。マジー♪」


 女は急に明るい調子になって騒ぎ出した。何事かと思ったら、ヤレヤレ、またあの機械(携帯)か。

 現代人はみんなアレと一心同体のようだな。


「ウソー、なんで? ヤバ、久しぶりすぎるんだけど。ちょちょちょ、嬉しひひ」


 おかしなテンションになってまで女はただの着信に小躍りしている。

 そんなにもアレ(携帯)はよいものなのだろうか。


「ねぇ私だよ! どのオヂなの? 待ってて、すぐに会ってあげる! 寂しかった。ずっと寂しかったよ!」


 ‥ふむ、なんとなくだが分かった。

 憶測なのだが、携帯というものは現代人の魂に結びついているのではないだろうか? 物質への強い想念が霊体と一体となって結びついているのかもしれん。そう、ちょうど私とこの釣竿のようにだ。カラクリは分からないが、何かいろいろ仕組みがあるのだろう。

 それにしても小娘の嬉しがりようと言ったらないな。携帯が繋がるだけのことがあんなにも喜ばしいことなのだろうか。私は生前からアレ(携帯)には全く興味がないのでよく分からん。

 ま、かくゆう私も竿とクルーザーが出てきたら大変喜んだのだが。

 (そうか、物への執着か‥‥)

 などと考えながら、私は釣り糸の先にある浮きの反応を眺めていた。


 

「–––––––えっ‥‥‥‥。ア、アア、やだ! コレ、マジやっばいヤツじゃん!!」



 ちょっと前まで嬉々としてしていた女が急に大声で叫び出した。スマホから声を聞いた途端に恐怖で引き攣る顔になっていた。


「–––––すぐに逃げなきゃ、アレが来るよ! –––––ヤバい、ずっと追われてた! 忘れてた! なんで?なんで?」


 声は裏返り悲鳴にまでなっていた。

 女は挨拶もせずに船から空に飛び込んで、急いで逃げるように消えて行った。

 はて、なんのこっちゃだ。



          ⚪︎



 やっと去ったか。女はあのまま何処かへ消えてしまった。すぐに戻ってくるかと思ったが、しばらく経っても戻っては来なかった。

 静かに釣りを楽しみたいだけなのにどうにも雑音が入り込んでくる。

 女が去ってから釣果は得られず時だけが流れた。当たりの気配は何回かあったのだが、それもすっかりなくなっていた。竿はもう微動だにしない。


 ––––ボウズか。

 

 時刻は恐らく正午を過ぎて、三時ぐらいだろうか。太陽の位置が傾きかけている。

 普段ならばこの辺で撤収し始めるところなのだが、釣りをやめても帰る家がない。ならばもう少し粘ってみるのもいいかもしれないと、釣り竿を垂らして腰を落ち着かせた。

 さらに時間は過ぎ、風は凪いで徐々に日が暮れてゆく。いつも孤独を癒してくれたはずの釣りが、何故だかとても寂しいものに感じられた。


 ––––この趣味は、帰る家があったからこそ面白かったのかもしれんな。

 

 などと寂しさを覚えた時にふと思い出した。

 で、結局、先程のあの女はなんだったのだろう? 世代が離れている為か言っていることが、ついぞ何も理解できなかった。

 見るからにあまり良い人生を送れたとは思えない霊魂だった(黒いし)。失礼かもしれないが、ろくでもない生き方をして、ろくでない死に方をしたに違いない。なんとくなくだが、生前は愛情ある関係性に恵まれず、人に利用され、人を利用するだけの関係を築いて来たのだろう。


 ––––哀れだな。誰かがあの小娘を本気で助けてやれなかったものかな。誰かがこのような所で死を彷徨う前に、まっとうな人の道に戻してやれなかったものか。


 そう心で呟きつつ、私自身も大概だと思った。

 女を哀れだと心配するような事を心には思ってはいるが、やはり所詮は他人事で、だからと言ってどうしようとも思わない。娘と年齢が近いように見えたから、あの女の不幸だったろう人生と、その結果である今の哀れな姿を通して、実を言うと自分の娘を心配しただけなのだ。


 ––––私は、あの女を食い物にした男たちとは違う。ささやかな同情もしている。だがあの女にとって私は積極的に自分を利用しなかっただけの、他とそう変わらない大人なのかもしれない。


 船は再び雲に包まれてゆく。大きな雲に近づいているが、私は少し疲れてしまい舵を切る気力もなく、船を進むに任せた。


 ––––そうだな‥‥。薄情かもしれないが、あの女の人生は他人事なのだ。やはり私が守るのは、私の娘、ただ一人だけなのだ。


 すっかり船は深い雲に覆われてゆく。

 私はその雲の中で、ひたすら娘のことを考えていた。


 ––––私はただ死んで、このまま消えてゆき。娘を、愛しいあの子をあのような酷い世界に残してゆかねばならないのか。


 自分の人生は全うしたつもりでいたが、やり残してきたことは多くあった。

 先程の若い女と出会った事により、それを改めて気付かされる。

 そうして、その後悔だけが大きくなる。

 私は深い雲の中で思っていた。


 ––––まだ何ができたろう。あの子に。

   何をまだ教えられたろう。あの子に。


 私はただただ、スズメのことだけが心配だった。




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