目覚めると、黒い四階建てが右隣に佇んでいた。

 ――またか。

 相変わらず、二階から湯気と光とピアノの音が流れてきてはいる。

 ……が、女性の声は聞こえない。

 だらんと力の抜けた腕を支え棒のようにして起き上がる。と。

「ンンッ?」

 目を二度、三度擦って、さらに頬を両手で叩いてもう一度。

「オオォッ!?」

 と、後ろから強い警告音が響いた。

 振り返ると、グレーのバンが、鋭い目つきのライトでこちらを睨んでいる。

「ア、アー……」

 急いで、あのエントランスの方へ動く。脚と胴体を結ぶ糸が切れたような気だるさ。

 車が通り過ぎると、ボクはもう一度、辺りを大きく目を開けて見回した。

 ――なんで?


 目の前に、瓦礫が積み重なった景色は無かった。


 そんなことを言うと笑われるほどの、いくらかの低層マンションが密集する光景。どこもかしこも、人の心を和ませる明かりが灯っていた。

 遠くからは、車が一気に動き出すエンジン音が聞こえてきた。

 ――どういうこと?

 見たことのある景色で、母国であることに変わりはない。

 ――侵攻前の景色か、あるいは復興後の景色か。


 ボクはひとまず、エントランスに入り、階段を登ってもう一度、『Green Birds Peace』に向かった。

 あれほど重かった脚が、今はなぜかフワフワと軽い。軽すぎて、逆に動かしにくいほどだった。

 と、内装全体が、大理石風の高級感あるものに変わっている。

 人一人通るのがやっとだった階段が、随分広くなり、エレベーターも増えている。

 階段を駆け足で上がると、あったはずの透明なドアが撤去されていた。カウンターの奥までなぜか見えるなと思えば、そこを仕切っていたレンガの壁が消えているのだ。

 さらに、Green Birds Peaceのロゴも、フォントが走り書きのような感じになって、四葉のクローバーの形に変わっている。

 ドアが無いので、変に立ち止まることも出来ずにボクは店に入った。

 店の中に人は誰もおらず、ただ空調の音だけがノイズとして耳に入ってくる。

「あのー、誰か……」

 尻すぼみな声が、ぼわんと反響して返ってくる。

 ただ一人、生き残った人間になってしまったかのような孤独だ。

 無論、奥の席を見つめても、見えてくるものは何も無かった。


「何か、ご注文ですか?」


 身体が破裂したかのように、鳥肌が湧く。

 鼻にかかった、高めの声が右耳から。

 ボクは、首に金具が嵌め込まれたみたいに、ぎこちなく振り返った。

 カウンター席の中の厨房で、こちらに背を向け、何かを作っている人がいる。

 茶色のハイネックシャツと黒のパンツに、深緑のエプロンを着た、すらりと背の高い人。

 手には、薄手のグローブを付けて、頭は大きめの“バンダナ”を巻いている。

「あ、えっと……、じゃあ、カフェラテを一つ」

「かしこまりました」

 その言葉は、どこかカタコトで、まだ練習中のようにも思えた。

 ――あの人がマスターか。そう言えば、これまでに見たことが無かったな。

 またボクは、さっきと同じく、奥の机の上をぼんやりと見ていた。

 と。

 ――なんだ、あれ。

 目が、視界の違和感を脳に訴え始めた。

 ハーニャが座っていた椅子に、紙が貼ってあるのだ。

 ちらりと厨房の方を見ると、マスターは奥の部屋に消えていた。

 ボクは席を立って、ハーニャが座っていた椅子に素早く近づいてみる。


『予約済み』


 ――予約?

「ああ、これですか」

 後ろから声がした。

 マスターが、カフェラテをボクの座っていたカウンターに置いて、厨房に向かってまた何かを作り始めている。

「ここは、予約済みのお客様がいて、これから来られますよ」

「あ、そうなんですか……」

 それは、ハーニャなのだろうか、それとも、全く関係ない人なのだろうか。


「……なにか、心当たりがありますか?」


 と、急にその声が低くなった。

 口元まで運んだカフェラテが止まる。

 マスターは、相変わらずこちらに背を向けたままだった。

「えっ……」

「あの席に、何か」

「えっ……?」

 さっきまで、どこか親近感のあった声が、冷たく疎外感のある声に変わる。

「あなたから、どこかおかしな臭いがするんですよ。ここにあるわけの無いような」

 段々と早口になって来た。一つ一つの言葉を寸断するような早口だ。

「あなたは……」


「あ、こんにちは! ここの席でいいですか?」


 マスターが何かを言いかけた時、聞き覚えのある、女性にしては低い声がした。

 振り返ろうとした時にその顔が浮かんで、首が止まる。

「いらっしゃいませ。三名様ですね」

「はい」

「どうする? ハーニャこっち行く?」

 恋人の名前が出た瞬間、コップを握る指がピクリと動いた。

 ――どういうことなんだ?

 

「……顔を見れば分かりますよ」


 マスターが言った。少し、声のスピードが落ち着いた。

「今ご来店された三人の女性に、心当たりがあるのでしょう?」

「え、なんで……」

「私は知っていますよ。心当たりがあるのではないのですか?」

 彼はククク、と日本のアニメの悪役キャラのような、不純な笑い声を発した。


「あなたは、この世界における“タブー”を犯してしまったのですよ」


 狂気じみた笑いに混じったこの言葉が、ボクの背筋を凍らせた。

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