「おーい、ボリス! 行き過ぎだよ!」

 ボクの声は、全く響くことも無く、ボクの耳にどこか寂しげに帰ってくる。

「ボリス! おい!」

 季節のせいか、虫の声も、鳥の声も全く聞こえない。無論、人の声も。聞こえるのは、厳かに発せられる自然の音だけ。


 ピチャン


 シャツの中に、一滴の雫が落ちた。

 その瞬間、脊柱が凍結したかのような悪寒が走る。

 まるで、世界から隔離されたような。

 最恐のお化け屋敷に、一人で放り込まれた時のような。

 

 ザワザワ……


 神聖な森が、侵入者を告げるかのようにざわめく。

「ママァー、ウウゥゥ……キルドァミャンプトァガンァゲンスト……」

 ボクの口は、独りでに、曲の雰囲気に似合わぬ大声で歌唱を始めた。だが、悲鳴じみたその声は、それはそれで人を殺した少年に似合うような気もする。

「ガリレオォーッ、ガリレオォーッ、ガリレオォーッ、ガリレオォーッ」


 刹那。


 九十九折になっている道を曲がると、いきなり、目の前を草木が遮ったのだ。

 ――行き止まりか? いや、どう考えてもこんな中途半端なところで終わるわけ。

 と、道を塞ぐ草木の左脇に、僅かに道のようなものが見える。

 ウサギ一匹分くらいの狭い道だった。空気が、そこに吸い込まれていっている。

 ――この先に何かがあるのか。ボリスはこの先に行ったのか?

 目を細めて辺りを見渡しても、他に道らしきものは見られない。

 ボクは、顔の前で十字を切って、胸に手を当ててから、その小さな道へ身体をねじ込んだ。




 尖った葉に顔を切られながら、横向きで進んでいくと、突然、視界が晴れた。

 ――やっと終わった。

 服についた枝葉を払おうとした。その手が、ピタリと止まった。

「……オオ?」

 見当違いな景色。だが、見たことのある景色。

 ――あんな低い山に、こんなところがあるのか?

 脳裏に、駐車場から見たこの山を思い浮かべる。

「そんなわけがない」

 鼻を、火薬の臭いがする黒煙が掠める。


 目の前には、瓦礫が積み重なった、ゴーストタウンが広がっていた。


 ――ここは、どこなんだ。

 ところどころ、建物が立っていたと思えるような、崩れ落ちた壁が覗いている。

 それらを、黒焦げになった瓦礫が埋めていた。土砂に、レンガやガラス、木がぐちゃぐちゃになっている。もはや、何が建っていたかを想像することも出来ない。

 ――ひょっとして、ここが「末」とかいう宗教の聖地のひとつというところか。

 針金が通ったみたいに動かなかった脚をそろりと動かす。

「ボリス! いるのか!?」

 ボクは、小刻みに震える声を必死に張り上げる。

「ボリス! いたら返事してくれ!」

 と、向こうの森の中から、何か棒が突き出ている。

 カーキ色で、ラジオのアンテナを伸ばしたような筒状で、先端には。

 近づいてみると、そこにはショベルカーが荒らした跡が足を引きずり込まれるほどの地面にくっきりついている。

 ――いや、ショベルカーじゃない。

 藪の中には、草木にカモフラージュしたカラーの鉄板。それに、巨大なキャタピラーが付いている。


 ――戦車。


 正面には、白いペンキか何かで「Z」と書かれている。まるで自分たちを誇るかのように、デカデカと。

 ――ここは。

 治安のよく、景色もとても美しい、日本という国なのではなかったのか。




 腹の中に渦巻く、ゴキブリの死体を磨り潰したようなのような気持ち悪さを必死に抱えながら、ボクはその向こうへ進んだ。

 向こう側に行くにつれ、建物の保存状況はマシになっていく気がしていた。


 フウオォォォン


 孤独に吠える、黒焦げになった集合住宅を、ボクは首に手を当てながら見上げた。

 五メートルほど先には、集合ポストの落ちた玄関。丁寧な手書きの手紙たちが、窓ガラスの海に漂っている。


 フウオォォォン


 死んだ人間の骨のような、ガラスを失った窓に風が吹き込み、重い恨みを表すような音が響く。

 と、玄関の方から、こちらに向かって一枚の紙が飛んできた。それが、ボクの爪先でピタリと止まる。

 オペラのチケットみたいに、シャープなデジタル文字で書かれた長方形の紙切れ。それに、青いスタンプが大きく押してある。

 ――召集令状だ。

 名前は知らない人だった。でも、国の名前と大統領の名前は、日本の誰よりもよく知る名前だった。

 ボクは、それを拾い上げて、遠吠えを続けているアパートのどこか一室をぼうっと見つめていた。

 目にツンと鋭い痛みが走り、鼻の脇を一筋、雫が伝った。出したくても、喉に突っかかって、声は出ない。




 粉々になっている家屋と、辛うじて骨組みを保っている建物の狭間を歩く。

 相変わらず人はいない。

 でも、なぜかボクの中にあった孤独感だけは消え去っていた。

 ――今も僕は、幾重にも重なった誰かの死の上を歩いているんだ。

 と。

 ほとんどの建物が瓦礫になっている中、一軒、原形を保っている建物があった。

 しかも、すすが付いているものの、窓ガラスが割れ落ちたりしているわけでも無い。

 さらに、二階からは、“ヤマブキ色”の光が周囲の瓦礫を照らしている。

 そこから、ポロンポロンと洒落たピアノの音と、人が蠢く気配がボクの肌を触った。


「えぇー、そんなことあるの? めちゃめちゃ面白いじゃん」


 しん、と辺りが静まり返る。

 ムチに打たれたように、ボクは身体が動かなくなった。

 脳裏を色々な記憶がフラッシュバックする。


「……ハーニャ?」


 亡き恋人の声が、窓の中から聞こえた気がした。

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