六
今日はちょっと、久々に友達と喫茶店で話してくるね。
ハーニャは、“あの日”の朝、そういう風に話していたはずだ。
今、窓からコーヒーの渋みのある香ばしい香りが鼻を湿らせる。
――まさか。
ボクは居ても立っても居られなくなって、その小さな四階建てビルに入った。
人一人通るのがやっとくらいの階段を上がると、透明なドアの向こう、レンガの壁に、シックな字体で書かれたネオンのロゴが光っている。
「……Green birds=Peace」
まざまざと、あの日の朝の会話が思い起こされる。
――なんか、平和的な名前だなぁ。
あの時、ボクは確かにそう思ったのだ。
「だからー、そんな変なことあるわけないって」
「いやいや、それがホントに……」
女性たちの、イヌの喧嘩を思い起こさせるような話し声が漏れ聞こえる。
ボクはそっと、ドアを押した。
入店を知らせるようなヴァイオリンの音が鳴る。
中は、隠れ家バーのようなカウンターと、テーブル席が五つほど並んでいた。
ところどころに観葉植物が置かれていて、落ち着いた赤茶色トーンの室内に爽やかさを足している。
「……ッ!」
一番奥のテーブルに、三人の若い女性が座っているのを見て、稲妻に当たったかのように身体の動きが止まる。
見開かれた目はその一点だけを捉えていて、声にもならない声だけが辛うじて口から漏れた。
――ハーニャ。
恋人は、こちらに背を向けて座っている。透き通った金色のポニーテールが、肩と連動して縦に揺れていた。
その向かいに座る二人の女性も、こちらには全く気付くことなく、ケラケラと手を叩きながらハーニャと目を合わせている。
――なんで、今、こんなところに……神の、ご加護か。
復活したのか。三人揃って。
――でも、なんでこの建物まで一緒に。
ひょっとして、いくらかはしごして、ここではないところでミサイル攻撃に遭ってしまったのか。
「ねえー、ちょっと、何か頼む?」
「ケーキとかデザート無いの?」
「あるよー」
ハーニャが、メニュー表を手にとってそれを開いた。
刹那。
ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ
サイレン。
突発的に身体が硬くなる。
「ヤバッ」
「えー、せっかくいいところだったのにー」
不安げな表情をするハーニャとは対照的に、他の二人は気だるげに口を開けて、おもむろに席を立とうとした。
刹那。
ドゥオオオオォン
轟音が耳を突き抜けた。
視界が真っ白になる。
地面が崩れるような音。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
甲高い三つの悲鳴。
オリーブオイルのいい匂いが鼻をくすぐった。
目を開ければ、空はこちらに落っこちてきそうな重い曇り空。
「……生きてる」
立とうと思うと、右肘にズキンと鋭い痛みが走った。触ると、また同じ痛みが走って、ボクは思わず歯を食いしばる。
手には、紅のどろんとした血が付いていた。
――さっきのは。
ボクは手をついたまま後ろを振り向いた。
シンプルな石の玄関。
首に手を当てながら顎を上げると、少しすすがついてはいるものの、原形を保っている黒色の四階建てがあった。
窓は、湯気と光とピアノの音が流れてきている。
――さっき、ミサイルで潰されたんじゃなかったのか?
「ハーニャ、それで、彼氏とは相変わらず仲良くやってんのぉ?」
中から、聞き覚えのある女の声がした。
先に幽霊か何かがいるのではないかというくらいには、おどおどしながら階段を上がる。
二階には、レンガの壁が洒落ているカフェが、ドアの向こうにあった。
今度は、躊躇することなくドアを開ける。
そろそろと、一番奥のテーブルを覗くと、若い女性三人組が話で盛り上がっているところだった。
――さっき、ミサイル攻撃受けたんじゃなかったのか?
「ねえ、ヴィクトリア、ところであんたはいい加減彼氏できないの?」
ヴィクトリアと言われた少し太った黒髪は、広がった髪の毛を触りながら言った。
「そんなの、私みたいなデブはもうダメ。それより、エレナの方がまだ希望あるよ」
エレナと言われた二人に比べて身長の低い、栗色のツインテールは、少し顔を赤らめて縮こまった。
「いやいや、そんなことないよ」
「なんか顔赤いよ? ひょっとして、とっくにいるんじゃない?」
「そんなわけないよ……」
「ハーニャ、先輩としてなにか訓示してあげれば?」
ヴィクトリアからの指令を受けたハーニャは、うーんと手を組んで虚空を見上げた。
「ま、もうとにかくアタックすることじゃない? 尻に敷けばいいんだから」
ビシッ、とハーニャはエレナに指さした。
「今、ユーリ何してんのかなぁ……」
「恋する乙女の表情だ」
ヴィクトリアに頬をつんつんと突かれているハーニャ。と。
「……あなた、さっきからずっとこっち見て棒立ちしてるけど。何様?」
レンガを這う低音が、ボクの心臓を震わせた。
豊満な身体から伸びた腕の、尖ったネイルがこちらを睨んでいる。
「何、ニヤニヤしてるわけ? ハーニャに惚れた?」
と、そこでハーニャが慌てて振り向いた。
「……え、ユーリ!?」
ハーニャは丸い瞳をますます丸くして、口に手を当てた。
「え、カレシ!?」
先程まで寺の“吽形像”のような目でこちらを睨んでいたヴィクトリアは椅子を蹴倒して、音が鳴るほど勢いよく頭を下げた。
「それは、失礼なことを……」
「ど、どうしたの? なんで、わざわざ……」
「え、いや、ボクも分かんないんだけど……というか、あとどれくらい店にいるの?」
ふと、この先に待ち受ける悲惨な未来を思い出したボクは、そう口走っていた。
「えー、まあもう少しは」
「今すぐ出ないとダメだ」
「え、なんで?」
「ダメなんだって。とんでもないことになる」
「何? いきなり来て何を言い出すかと思えば」
ハーニャは、唇を尖がらせた。
ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ
刹那、サイレンの轟音が響き渡る。
「えっ」
間もなく、視界が真っ白、網膜が焼きつけられた。
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