二
ボクは両親を連れて、地下鉄に乗って国から逃げ出した。友人たちに一言の連絡も入れず。
隣国にしばらく身を寄せ、避難先を考えていた時だった。
『じゃあ、日本に来いよ』
“大工”と呼ばれる建築家として働いている、ボリス・ボンダレンコからメッセージが届いた。彼は今、修業を積み、“トウリョウ”になっているのだという。
なにやら、人は温かく、福利厚生も充実していて、何よりも安全で食べ物が美味しいのだそうだ。
――魅力的な国じゃないか。
とりわけ、富士山をはじめとした、様々な貴重な景観が見られるというのが、心を惹きつけた。
「パパ、ママ、ボリスが住んでいる、日本へ身を寄せよう」
二人は、悲壮な表情で一つ、頷いた。
***
大学の臨時の英語教師になったはいいが、日本語は想像以上に難しかった。
学生たちがただ笑っているのが、ボクには全て自分に向けて放たれている毒の吹き矢なのではないかと感じられる。
「Please don’t sleep during the class」
後ろの方の席でノートに顔を埋めている女子に声をかけても、反応は無い。そもそも、それが通じているのかさえ分からなかった。
――日本の学生がこんなにも不真面目だったなんて、思ってもみなかった。
首を一周回してから、ボクはまたホワイトボードに、努めてゆっくりと文字を書き始めた。
――ハーニャ。
家に帰ってボクを励ましてくれる存在は、もうそこには無い。
ピロン
後ろから、スマートフォンの通知音が僕を挑発するかのように耳に飛んだ。
ボクは、大きな溜息をつくことしか出来なかった。
本当に定刻通り、駅に着いた電車から降りたボクは思いっきり息を吸った。
「ああ……スマーチノ」
植物と水が織りなす新鮮な空気を腹いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
そのまま、プラットホームを出ると、“ハカマ”を身に纏った、同じ茶髪の男が立っていた。
「やあ、相変わらず人を小馬鹿にしたような笑顔だね」
ボリス・ボンダレンコは、こちらに手を差し伸べながら近づいてきた。
「そっちこそ、相変わらず頼りない顔してるよ」
ボクは、がっちりとボリスの手を握り、軽く彼と抱擁を交わした。
「プリビート」
こんにちは、と改めて彼に言ってから、すぐそばに泊めてあった、コンパクトな日本車のワゴンに乗り込む。
「Here we go!」
「英語教師に採用されたからって、ウクライナ語を捨てたのかい?」
ボイコが、僕の頭をちょんと人差し指で叩く。
「まあいいや、行こうか」
滑らかに車が動いた。
「すごい、全く音がしないね」
「電気自動車だからね」
駅前のちょっとした住宅街を抜けると、田んぼと畑の中の太い一本道を通っていく。
「ワオ……」
「春や夏は、もっと美しくなるよ」
窓を開けて、風を手に受ける。
ピィーヒョロロ
空を旋回するホークの影が、歓迎の挨拶をしてくれるかのように鳴いた。
車が静かに止まって、連れられたところは海の匂いがしていた。
「日本食の代表、寿司を味わわせてあげようじゃないか」
感謝しろよ、と書かれたような笑顔でボリスは言った。
待合スペースにはそれなりの人がいて、壁には色々なものが飾られている。
「これは何だい?」
壁に掛けられた絵を指さしてボクは訊ねた。
墨の黒で描かれた、棺のような箱の中にいる裸の女が驚いたような顔をしていて、腹からは随分キリリとした赤ん坊が出てきている。
「ああ、これは、この辺りの町や村の宗教の絵さ」
「へぇ。じゃあ、これは?」
奥の方のテーブルに、ウシの頭にナイフが突き刺さり、ウシが悲鳴を上げているというような黒い像がある。
「これも、その宗教の魔除けみたいなものかな。うちにもあるよ。興味があるなら、これを読めばいい」
そう言って、彼は鞄から一冊の、やけに分厚い本を取り出した。
『万物事始書紀 末信仰者同志編』
随分長い間使われたのか、灰色の背景に骸骨が右を指さしている、というデザインの表紙はグニャグニャ折れ曲がり、背表紙の糊付けが外れかけている。
中身も、破れているところや、茶色いシミがついているところ、潰された虫の死骸がついているところなど汚れ跡がたくさん見られる。
ページの内容はと言えば、ページのほとんどは墨で流れるように書かれた“カンジ”ばかりで真っ黒。時々、額に飾られたもののような絵が挿入されていたりする。顔の無い人間がマンモスを狩っていたり、同じく顔の無い人間が、槍を持った男を吹き飛ばしていたり、というようなものだ。
「これは、なんて読むの?」
「バンブツコトハジメショキ、スエシンコウシャドウシヘン」
機能停止寸前のロボットが喋っているような日本語で、ボリスは言った。
「イングリッシュバージョンも、“大工”の仲間が作ってくれたから、後で読むなら読んでいいよ」
と、ボリスの名前が呼ばれて、彼は立ち上がって席へ向かってゆく。
ボクも慌てて本を持ってそれを追う。
――唯一の神がいてこそ世界が成り立っているっていうのに、奴はそれを否定して日本の異端な宗教に浮気してるっていうのか?
胸の中に渦を巻いていた炎は、そういうことだったのか。
僕は、首にかかった十字架をギュッと握って、隣をすれ違った、ナイフの刺さったウシの置物を睨んだ。
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