幕間一 回想

回想 前

 ファストファッションの代名詞のような店で、新しい黒ブルゾンを買うと、それをすぐに身に纏って店を出た。

 その後、チェーン店の喫茶店に入り、コーヒー一杯を頼んで、その間に「万物事始書紀」を机の上に置いた。

 カウンター席の向かいに座っている、えらく短いスカートを穿いた女性二人が、不快そうにこちらを見てヒソヒソと何か話している。

 ――次のところは。

 最後のページにある、墨の日本地図には、いくらかの点が打ってある。その数およそ、四十九個。

 井の中の蛙な老害どもによれば、日本の忌み数に四十九が入るようになったのは、この出来事が始まりなのだと話している。語呂合わせは、後付けだそうだ。

 ――今、ここか。なら、次はここか。

 東北、九州、関東、中部と順調に攻めて、残るは二十六だ。

 既に回収した場所は赤ペンでバツ印がされており、バツ印は確実に、ひときわ大きくグリグリと丸がされた、“忌まわしきあの場所”へ確実に近づいている。

 ――でも、分からない。

 異空間に入ったはいいものの、そこから生還した人間の存在が。

「お待たせいたしました。コーヒーでございます」

 ウエイトレスが置いたそれに、ドバドバとシュガーソルトを入れて、少し口をつける。

 緩和された気のしないビターが口の上の辺りを染みていった。


 バスケットボールで大きくなった手でも、片手で読むのにいっぱいになるような「万物事始書紀」を捲り捲り、何とか脳から消えない、あの男の存在を明かそうとしている。

 それでも、あまりにも現実的でなく、なおかつ都市伝説のような面白みも無い物語の数々に、そのような記述は出てこない。

「ちょっとさー、聞いてー」

 本を捲る自分だけが存在するような真空の世界に、高校生くらいの女の声が横槍を入れた。

「えー、なになに? また彼氏の愚痴聞かなあかんのー?」

 ふと顔を上げると、右隣の席に、ブレザーを着た二人の女子高生が座っていた。

「えっ……」

 すぐに書紀に戻そうと思っていた視線が、もう一度そちらに戻った。

 俺の視線は、二人いるうち、右側にいる女子高生に釘付けになる。

 ショートカットに、垂れ目の優しそうな顔をしている。百六十と少しくらいの身長に、男性を魅了するバストの大きさ。


ふみ


 ぼんやりと開いたその口が、一人の女性の名前を言った。

「えっ?」

 と、彼女らが不思議そうな顔をしてこちらを覗き込む。

「あ、すみません。違うんです」

 慌てて頭を下げて、俺はもう一度、書紀に目を落とした。

 が、神経は全て耳に集中している。

「すごい、めちゃめちゃイケメンじゃない?」

「ほら、あの、よくテレビ出てるアイドルの一人に似てる気がする」

「確かに、スタイルもファッションもカッコいいもんね」

 本人たちは小声のつもりなのだろうが、キャッキャッと小躍りする声はそのまま俺の耳に届いていた。

「で、その、話なんやけどさ」

「うん」

「伯父さんが死んじゃって、いよいよ家計が厳しくなってきて。伯母さんに、申し訳ないけどそろそろ独立してほしいって言われてるんやけどさ。どうしたらいいと思う?」

「そうなん? んー、でも一人でやってけそうやけどな」

「そうかなー。いや、でもホンマにちょっと悩んでて。受験もあるし……」

「大学に入ったら、寮に行ったら?」

「まあ、そこはバイトしたりでどうにかするしかないんかなぁ」

 頭の中に、モクモクと、二人で過ごした日々が蘇ってきた。



 ***



「お父さんは、もういなくなっちゃったの」

 随分に皺が増え、目元も黒くなった母が言ったその一言が、随分強烈に残っている。

 父の顔は、ぼやがかかった程度にしか覚えていない。

 村の首長などを務めていた家で、父と母は隣の町などに四店舗ほど、洋食レストランを運営していた。

 それなりに客は来ていたが、憎き「末」によって、金は搾り取られ、ウイルスの流行がとどめを刺す形で、ついに家は破産。

 それ以来、女手一つで育てられてきた。


 母はずっと働いていて、一日会えない日も珍しくは無かった。

 そんな時に、史は笑顔で、少ない調味料で色々なことを試しながら料理を作ったり、学校のタブレットで調べたという知識で効率よく洗濯をして俺を助けてくれた。

 健気な性格で面倒見もよく、学業優秀。ルックスも悪くない。本人はコンプレックスと言っていたが、大き目の胸を持つこともあって、男子とも上手く付き合っていた。

 そんな人気者の史は、誰にも好かれずにいる俺をずっと励まして、馬鹿みたいな話に盛り上がって、家の中ではそのことを忘れさせてくれた。


 ――なおさら、俺が殺したことが悔やまれるな。

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