十一
目の前に、ドアノブ。
その奥には、橙色の明かりと、せっせと動く影。
ノブに手をかけかけては、その場で握り、ノブを握っても、引くことが出来ない。
「……ああっ!」
小さく言って、地団駄を踏もうとして、ゆっくりと足を地面につける。
真須美は、もう帰ってきているだろうか。
妻は、もう許してくれているだろうか。
俺は、何か変わることが出来ただろうか。
と、中から、どこか気だるげな声が聞こえた。
「今日の夜、どうすんのー?」
真須美の声だった。
ソファに座り、スマホを無表情でスワイプしている様子が目に浮かぶ。
「今夜はー、うーん、真須美が好きなグラタンと、お父さんが好きなボロネーゼにしようかなあ」
催眠術にかかったように、身体の動きが止まった。
そのまま、意識を無にして、ドアの向こうの音を聴く。
「お父さん、まだ帰ってこんの?」
「まあ、もっと乙女心が分かるようになって帰ってくるんじゃない?」
「んー、あの汗臭い中年ジジイに、乙女心までは無理じゃね?」
「そっかー」
「まあ、もうちょい更生して帰って来るやろ」
身体が熱かった。
雪がチラチラ降ってくるこの中で、俺と、この家だけが熱を発している。
「真須美……っ」
ひっ、と、自分らしくもないしゃっくりが出る。
「あ、なんかドアの前で気配せんかった?」
「そう? ひょっとしたら、帰ってきたのかもね」
「久々に、ハマチ食べたくなってきたわー」
大きな雫が、何本にも分かれて頬を伝ってゆく。
隣人さんが見れば、この様子をどのように思うだろう。
でも、そんなことは関係ない。
俺は、手で顔を拭って、目いっぱい口角を上げた。
そのまま、ドアノブに手をかけ、勢いよくこちらに引く。
「ただいま!」
「あ、おかえりー。遅かったじゃない」
目の前には、橙色の灯の灯った空間で、二人が笑顔でこちらを見る光景があった。
「うわー、もう腹いっぱいや。やっぱ、ボロネーゼ最高」
「私の作った、でしょ?」
妻が、俺の肩を小突いてくる。
「てか、なんかズボンの中にエビが入ってたけど。釣りで使ったやつ?」
「ん? ああ、そうかもしれん……」
と、ふと。
――あの川を挟んで、老人から投げられたあのエビは、どうしたっけ……。
「今日さー、高校で男子がさ、バスケでめっちゃイキってんのよ」
その微かな不安は、愛すべき娘の愚痴によって掻き消された。
「まあ、今どきの男子はそういうもんや。分かったってくれ」
「えー、やっぱ、男子って乙女心が分からんよなあ」
「分かる努力はしとるつもりなんやけど」
「やっぱ、男子と女子って違う生き物なんかなあ」
机を挟んで、真須美は少し不貞腐れたような表情でも、ペラペラと言いたいことを放す。
今日の朝の出来事など、それこそ夢のようだ。
「せや、お父さん」
「ん、なんや?」
「最近流行ってる都市伝説、知っとる?」
「知らん。あ、俺トイレ行きたくなってきた」
「苦手やからって逃げんでええって」
呆れたような表情を見ると、浮きかけた尻がもう一度椅子に着く。
「でさ、なんか、黒シャツに黒ブルゾンに黒パンツに黒リュックっていう、全身黒のイケメンくんに会ったら、ようわからん異空間に連れ去られるみたいなやつ」
食卓に、しばしの沈黙が流れた。
「……ん?」
「で、なんか帰れんくなるんやけど、ちょっと特別な力を持った石を蹴ったら、元の世界に戻れるらしい。そのイケメンくんって、なんか分厚い本持ってて、色んな説があるんやってー」
あ、そういえばさー、と、真須美は、今度はアイドルの話題を出してきた。
その言葉は、今の俺の頭の上をどんどんと通り過ぎてゆく。
――あの男、ちゃうな?
俺は、振り返って洗面所の洗濯機を覗こうとして、やめた。
脱ぎ捨てた黒ブルゾンが視界に入るのが、怖かった。
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