なんとなくその場を離れるのも躊躇われて、その場でぼんやり佇んでいると、森の中から草木を掻き分ける音が聞こえた。

「うおっ」

 男は、葉や枝にまみれ、顔は砂埃がついた状態で現れた。

「ありがとうございます!」

 初めて見る、高校球児のような無垢な笑顔を浮かべて、彼は泥らだけの手で握手を求めてきた。

「お、おう……」

 その手も、爪は綺麗に切られ、泥があってもツヤのあることが分かるものだった。

 紫の巾着からは、底が横に張り出していた。

 何か、細長いものが入っているようだ。

「……で、謝礼に、俺の言うこと聞いてくれるんやったな」

「はい」


「その袋ん中には、何が入っとんの?」


 下がっていた目尻が一瞬にして引き攣った。

「それは……ちょっと」

「なんや、ひょっとして、なんかやましいことでもしとるんちゃうやろな」

「いやいやいやいや、それは無いですそれは無い」

 と、また表情を崩して、彼は顔の前で大きく手を振った。

「サザエの密漁でもしとるんちゃうか?」

「いやいや……」

 が、俺と目が合えば、その笑みも潮が引くように消えていった。

「なあ、証明してくれや。別に、誰にも言わんし、言うたところでやし」

 じっと、俺は男の目を見据えていた。

 彼は、手に持った巾着に目を落とすと、キュッと口を結び、それを開けた。

「どうぞ、ご覧ください」

 首を伸ばして、中を覗き込む。


 ――なんやこれ。


 泥と草にまみれた、真っ白い棒。

 両端が膨らんでいて、真ん中あたりは細い。

 ――ダンベルか。いや、ちゃう。これは、まさか。

 今年のクリスマスはどうしよう? と、家族三人でソファの上でカタログを捲っていた記憶が蘇る。

「おい、これ、なんや」

「分かりませんでした?」

「いや……」

 首の辺りが強張る。

「……あんたの口から、言うてくれ」

 男はそっとそれを引き取り、結び目を締めた。


「遺骨です」


 イコツ。

 同音異義語を探しても、高校現代国語、成績二では出てこない。

「あの、遺骨か。……誰のや?」

「それは、知らない方が身のためです」

「何でも言うこと聞くんとちゃうんか」

「これはダメです」

「なら、あんたの存在、警察に売ってもええんやで。死体遺棄して、その骨を回収してる可能性も無くは無いんやからな」

 男は、先の細い顎を触って、左上を向いた。

「……分かりました。他言無用です。お願いしますよ」

「おう、そらそうや」

 彼は、口をこちらの右耳に近づけてくる。


「これは、先程あなたが出会った、釣りをしていた老人骸骨の、腕の骨です」


 ザバァン、と、海が爆発音を鳴らしながら砂浜に押し寄せる。

「……え、あの、老人か」

「そうです。これ以上は、本当に勘弁してください」

 彼はそう言って、顔を離してゆく。

「……どういうことか、さっぱり分からんねやけど」

 そう言って、俺は尻ポケットに手を突っ込んだ。

「あ、ひょっとして、そのおかしな世界のものを持ってきていたりしませんよね?」

「え、お、おう」

「ならいいですが……。もしあれば、二つの世界の繋ぎ目が出来てしまって、あなたか、あなたの周りの人がギョウブに処遇を決められてしまう可能性があるので……」

 よく分からない言葉の羅列が、俺の頭を空過してゆく。

「その、処遇とやらは、どうなんの」

 もう一度、彼は口を俺の右耳に近づけてくる。


「楽園で永遠に暮らすか、それとも永遠に苦しみ続けるか、です」


 いまいち、しっくりと頭にしみなかった。

「まあ、念のため、やっておきます」

 彼は、リュックサックからあの本を取り出し、パラリと一、二ページ捲る。

「はあっ」

 思い切り息を吸い、挙手をするようなポーズで、大声で何かを唱え始めた。


「バンブツはぁギョウブドノのいうままなりぃ。われらはぁギョウブドノのおもいのままにうごくカイライにぃおなじ」


 歌舞伎役者のような独特の抑揚をつけて読み上げると、目を閉じて、本を開いて閉じるような動作を三回繰り返し、両掌を、俺の左右の肩で叩いた。

「はい、ひとまずこれで、ギョウブの怒りを鎮めました。何事も無いことを祈ります」

 彼はもう一度握手を求めてきた。

 俺は、一瞬思考を巡らせてから、それに応じる。


「……あんたは、一体、何者なんや?」


 彼はそれに全く反応することなく、「ありがとうございました」とだけ話して、手を離した。

「それでは、あ」

 と、彼は自分の着ている草木が引っ付いたブルゾンを脱いだ。

「せめてものお礼です」

 感情が削ぎ落ちたような無表情のまま、彼はそれを、上半身を露出している俺にかけてくれた。

「お、おう、ありがとう……」

「それでは」

 小さく頭を下げ、巾着を入れたリュックサックを背負って、元来た道へ戻り始めた。


 俺は、その背中が見えなくなってから、ぐちゃぐちゃに混ざった思いを抱えて、家族が待つ家へ歩き出した。

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