ボオン……ボオン……


 船の汽笛の音が、辺りに響き渡る。

 

 ピュウウウ


 汐の匂いのする風の音が、首筋を掠めた。

「寒っ……」

 ブルリと身体が震えて、目が覚めた。

「なんや、ここ……」

 手を置くと、そこは湿った砂が敷き詰められている。

 目の前には、オレンジ色に輝きを放つ海。

「えっ」

 俺は後ろを振り向いた。

 深い森と、その手前に細いアスファルトの道。

 ――まさか。

 足の指は真っ赤。

 上半身は、だるんと垂れた腹が丸見えだった。

「戻っとる?」

 霧も川も、目の前には無い。

 ――なんや、なんかえらい精巧な夢やったんか、これ。

 しかし、肌には、切り傷や擦り傷で赤くなっている箇所がたくさんある。

 現に、マウンテンパーカーもTシャツも身に纏っていない。

 ――あの世界から脱出、出来たんか。


 ザッ、ザッ、ザッ


 と、遠くから砂浜を歩く足音がする。

 そちらを振り向けば、黒シャツに黒ブルゾン、黒パンツとシックな装いをした男がいた。

「あっ……」

 左手には、あの分厚くてボロボロになった本。

 人気アイドル似の顔は、下唇を噛んで眉間に皺が寄り、足元の土をギロリと睨んでいた。

「何しとるんや……」

 そんな表情のまま、いそいそと浜を森を歩き回っている。

 見る限り、眉間の皺はどんどんと深くなっていった。


 と。

 彼の目が、こちらに向いた。

 一瞬、その切れ長の目が大きくなる。

「……あんた、なんか探しもんか!?」

 思い切って、声を出した。

 男は、一切の仕草を見せず、ただこちらを凝視している。

 俺は立ち上がり、彼がいる方へ駆けた。

 脚は、腐りきってしまったかのように重かった。


 男は逃げることも近づくことも無く、その場に留まっていた。

「あんた、さっき……って言っても、結構前なんか? まあ、ともかく一回会うたな。なんか変な本か何か落として」

 その本を指さしながら、俺は言った。

 ――実際、今何時なんか分からんし。

「まあ……はい」

「なんや、なんか探しとるように見えるけど」

「……それは、あなたには関係ないことです」

「まあ、そうやろうけどなぁ……」

 と、目に、彼が開けたその本の一ページが目に入った。


 小さな川で釣りをしている、身体を隠しつつも、骸骨が少し露出している者が。


「……それ、なんや」

 雷に打たれたかのように、一瞬、身体が固まってしまう。

「これですか、だから、知らない方が身のためです」

「ひょっとして、あんた、俺の身に起こったこと、分かってくれるんちゃうか?」

「あなたの身に起こったこと?」

「せや。俺は、この道を向こうに歩いとったら、林に入ったんやけど、そこはどんだけ歩いても景色が変わらんくて、溺死したはずの友達が何回も川を流れては死んでいき、そして絶対釣れんところで釣りしとる骸骨の老人に会うたんや」

 言葉のマシンガンを浴びせるかのように、俺は唾が飛ぶのも構わずまくし立てる。

「……そうで、え?」

 フッ、と短い溜息をついて、ここからまた去りかけた。ところで、間を開けてこちらを宇宙人でも見るような目で見つめてきた。

「え、溺死したはずの友人が何回も川を流れては死ぬって言いました?」

「お、おう、言うたよ」

 と、彼は首を伸ばして、こちらに頭突きを浴びせる勢いで顔を近づけてきた。

「わっ」


「ひょっとして、要石かなめいしを動かしました?」


「……要石ってなんや」

「とにかく、大きくて重い石か、石の無いところにポツンと落ちている石を、その変な世界に入ってしまう前に、蹴ったり動かしたりしていませんか?」

 お返しとばかりに、目の前でマシンガンが狂ったように誤射される。

「……石、か」

 運送会社の上司からの連絡を受けたすぐ後に、そういえば俺は、アスファルトの上の大きめの石を蹴飛ばした……ような気がする。

「そういえば……そんなことしたかもしれん」

「どこで!」

 彼の胸が俺の肩にヒットし、危うく吹っ飛ばされそうになる。

「どこで……多分、もうちょい向こうの」

「そこまで連れて行ってください」

 有無を言わせぬ、強い口調に、俺は思わず唾液を呑んだ。

「謝礼は言われた通りに払いますので」

「お、おう……まあ、ええけど」

 ――一体、何があるんや。


 俺はうろ覚えで、その辺りまで男を先導していく。

「んー、確かな、ここら辺やったんやけど……」

「本当に確かですか? なるべく正確な情報をください」

「えぇ、そんなん言われてもなあ……」

 だんだん薄くなってきた後頭部をガリガリと掻きながら、もう少し進んでみる。

 それでも、胸の中に、マイナスな棘などは全く存在していなかった。

 緩やかに曲がった道を歩いていく。

 と、視界の右端に、赤茶けたものが入り込んだ。


「……あっ!」


「えっ!?」

 打ち上げられたブイだ。

「……ここや」

「本当ですか?」

「間違いない。このブイのすぐ横らへんで、俺は石蹴って、その石は左の林ん中に転がっていったんや」

 それを言うなり、彼は、ブルゾンに同化して気付かなかったほどの黒いリュックサックから、紫色の巾着のようなものを取り出した。

「なんやそれ」

 こちらに振り向くことも無く、彼はその服装のまま、草木を掻き分けながら森へ入ってゆく。

「え、あんたちょっと、虫とかおったらどないするんや」

 返事は返ってこなかった。

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