ザワザワ……ザワザワ……ザワザワザワ


 林の木が大きく揺れている。

 その風が、マウンテンパーカーとTシャツを失った、突き出た腹に直撃する。

 水と一緒に、皮膚から温度が逃げていく感覚がしていた。

 老人は、相も変わらず顔を隠して釣り糸を垂らしている。


 ピュウウウウウ


 また、風が肌を掠り去ってゆく。

 鼻がむず痒い。

 老人は、頬杖をついて水面を覗き込んでいる。

 ――あかん、ヤバい。

 歯を食いしばって、鼻をギュッとつまむ。

 も。


「ブアックション!」


 老人が顔を上げた。

 相変わらず、顔は隠され、表情は見えない。

「……なんじゃ、寒いのか」

「は、はいっ……ックション!」

「魚が逃げてまうじゃろ」

 一瞬、自分を気遣ってくれているのかと心が温かくなったのは勘違いだったか。

「すみません……」

 そこで、これまでずっとシチュエーションをイメージしていた一言が口を突いた。


「あのー、どうすれば、ここから元の世界に帰ることが出来るんですか?」


 と、老人は動きを止めた。

「あ、いや、その」

 フードと麦わら帽子で隠された目が、こちらを凝視しているように思える。まるで、監視カメラに捉えられているような気味の悪さだ。

「……帰りたいんかぁっ?」

 高めの声で、変なアクセントをつけてこちらに訊ねる。

 まるで、俺を試すかのように。

「はい……家族に、会いたいです」

 そう言った時、頭の中に、三人で旨いものを食べて笑っている時や、バラエティ番組で腹を抱えている時が蘇る。

 それが、涙腺をプスリと突いた。

「ちょっと、ゴタゴタしちゃってるんですけどっ……、はいっ、家族に、会わせてください」

「ふうむ……」

 老人はふと考え込む。


 ドックン、ドックン


 心臓の音が大きく聞こえた。

「……ここから出るには、わしの許しが必要になる」

「えっ、は、はい」

 胸の奥から、この老人に対する疑念が渦を巻いて湧いてくる。それを押し殺して、俺は話に耳を傾ける。

「……ここは、特殊な空間なんじゃ。楽になる資格が無いと判断された者が、苦しむ場所じゃ」

 先程の快活な話に比べ、声も低く、語りもゆっくりになっていた。


「そして、今、わしは一人の女の処遇に頭を悩ませておるんじゃ」


「はあ……」

「それに関しては……いや、これ以上は止めておこう」

「そこまで言ったのに、ですか?」

「そうじゃ、これ以上は言えん」

「そうですか……。え、というか、あなたが、その処遇とやらを決めてるわけなんですか?」

「そうじゃ。だから、前から、わしは全てを知っていて当然の存在と言っておろう」

 少し、老人の声に、神経質な嫌悪が宿った気がした。

 だが、一度降ってわいた疑問を、俺は、海を泳ぐマグロのように止めることが出来なかった。


「なら、なら、なんであんなにいい奴だった三本を、こんな場所で、何回も死なせているんですか……っ。何回も、苦しませているんですか……?」


 視界が目に張った水滴のおかげで揺れる。

「何じゃと?」

「なんで、あんないい奴にあんたはこんな酷い目に合わせとんのか、って言うとんねん」

 言い切って、俺は慌てて口をつぐんだ。

「あ、いや、すみません、ちょっと、感情的になって……」

「なんで、か。それは、おぬしが知らん、その者の一面、過去があったからじゃ」

 強くなる語気を何とか抑えようとしているかのような、そんな口調に聞こえた。

 しかし。

「でも」

 喉が、そう息を吐いてしまった。


「でもぉ? おぬしは、その者の全てを知っておるとでも言うか?」


 むくりと立ち上がった老人は、麦わら帽子を押さえ、地面を蹴った。

「あっ」

 老人は、俺のすぐ隣に着地した。

 そのまま、手袋をはめた手で、俺の顎をグイッ、と勢いよく上げる。

「ひっ……」


「おぬしは、わしのことを、恐らく微かに知っているはずじゃ」


「え?」


「だから、わしは、おぬしの処遇を決めることが出来る」


 グググ、と顎にかかる力が大きくなる。

「や、やめろ……」

 と、視界に、異端なものが映り込んでいるのに、俺は気づいた。

 目の焦点が、その“白いもの”に合っていく。

「あ、あなたは……」

 麦わら帽子が、少しだけ浮き上がる。

 そこからも、またあるまじきものが見えた。

「あなたは……」

 身体が、ガタガタ、ガタガタ、震え始めた。

「何者……」

 老人の手首と、目のあたり。


 そこに、皮膚は存在していなかった。


 不純な白色の、細い棒がたくさん組み合わさって、その形を作っている。


「何者、じゃと? 何度も言ったじゃろうが」

「が、骸骨……」

「ん?」

 老人は、ふと自分の手首を覗き込んだ。

 その時、悍ましく強い力がわずかに緩んだ。


「うわあああああああああああああああああああああああああああああああっ、ああああああああああああああああああああっ、骸骨だあああああああああああああああああああっ、うわああああああああああああああああああああああああっ!」


 鼻水をダラダラ流しながら、俺は何も考えずに走る。

 とにかく、川から離れたい。

「何をしておる!」

 後ろを振り返れば、音も無く骸骨老人が追いかけてくる。

 その距離は、腕を伸ばせば届くほどだった。

「やめろおっ!」


 刹那。


 タスケテッ!


 甲高い女の絶叫が、空間一帯に響いた。

 骸骨老人の気配が、やや遠ざかる。

 目の前に、漢数字の七のような形をした枯れ木があった。

 俺は、その上に向かって、右足で地面を蹴飛ばした。

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