「えっ」

 俯いて皮を覗き込んでいる老人の、微かに見える口元はぐにゃりと歪んでいる。

 俺が着ていたものの色違いのような、カーキのマウンテンパーカーを羽織り、フードの上から麦わら帽子。首にはグレーのマフラーを巻いている。脚にはダメージの入ったデニムパンツを穿いていて、足元は穴の開いたスニーカー。

 イスラム圏の女性のように、素肌を見せまいとしているようだった。

「あなたは……?」

 既に死んだはずの三本を除き、この空間に来て初めて出会った人間。


「わしは、今は何者でもない。おぬしの虚像と言っても、過言では無いかもしれん」


 アウトドア用の手袋をはめた手で、マフラーに隠れた顎に手を当てて言った。

「どういうことですか……?」

「んん? わしから教えることは特には無いの」

 若干掠れた、高めの声で、老人はカカカとさも愉快げに笑った。

「なら、俺……私が経験したことを聞いてもらってもいいですか」

 神経を尖らせて、下から下から、質問を繰り出す。

「そんなことなら、いちいち説明されるまでもないわい」

 僅かに見える口の端が、糸で吊られたように持ち上がる。

 老人は、右手の人差し指を、リズミカルに左右に振った。

「かなり前に水難事故で死んだはずの高校時代の友人が、目の前で、何度も死んだんじゃろ? おぬしは助けようとしたが、一度も助けることは出来なかった」

 心の奥を吹き矢で突かれたような気分だった。

「な、なんでそれを……?」


「知っているかと? 私は、全てを知っていて当然なのじゃ」


 カッカッカッカッカ、と老人は身体を揺らした。

「どういうことですか……。あなたは、一体どんな人なんです?」

「だから、わしは今は何者でも無く、おぬしの虚像に過ぎんような存在と言っておろう?」

 間髪入れずに老人は答えた。

「じゃあ……あなたは、全てを知っておられるんですよね。なら、この、死んだはずの人間が何度も同じ事故に遭うような、この空間は、一体何なんですか?」

「何? それは、今になってからおぬしが知る必要のないことじゃ」

「えっ、それはどうい」

「ただ、一つだけおぬしにわしから言えることがある」

 帽子を左手で押さえながら、老人はこちらに首を向けた。


「おぬしは、いるはずではない、間違った世界に迷い込んでおるんじゃ」


 ずんと重い沈黙が、一瞬この川を挟んだ空間に流れる。

 自然に背筋が伸び、肩が固まった。

「間違った世界ということは……、ここは、私が普段暮らしている世界とは、異なる世界、ということなのですね?」

「その通りじゃ」

 つまらなさそうに答えた老人は、再び水面に視線を落とす。

「ここは……どういう世界なんですか?」

「おぬしらが暮らす世にいられなくなった人間のうちのいくらかが存在しておる、果ての無い空間じゃ」

 老人は、釣り竿を上げ、針に引っ掛けたエビを濁流に放り、別のエビを針に指す。針によって殻を貫通させられたエビは、抵抗することも無く、濁流の中へ落とされていった。

「私たちが暮らす世の中にいられなくなった人間……ということは、ここは死者の生きる場所、ということですか?」

「……半分は正解、かの」

 老人は、腰に下げた袋の中から、一匹のエビをこちらに投げてきた。

「えっ」

「腐っておった。こいつは餌にしても、何一つ食いつかん。お主にやるわい」

 ――いや、こんな濁流の狭い川で釣りなんかしても、ええ結果出るわけないやろ。

「あ、ど、どうも」

 そこに捨てると、この老人に帰してもらえなくなる危険性を感じて、俺はビショビショに濡れたズボンのポケットに、そっと入れた。

「この世界に花、その中でも、いくらか、選別された人間のみが存在する。これ以上は、おぬしに言うことは無いわ」

 釣り竿を上げ下げしながら、先程の話の続きを気だるげに語る。

「これ以上に聴いて、良いことは一つとして……おっ」

 と、老人は話の途中で、声を躍らせ、竿をぴょいと上げた。


 針には、三本の履いていたサンダルの片方が、突き刺さったままのエビと共にかかっていた。


「あっ、それは」

「……なんじゃ、こんなもんか」

 こちらの存在は全く見ていないらしく、老人は針からサンダルとエビを取って、川の下流へ投げ捨てた。

「あっ、それ、さっき言ってた死んだ友人の……」

「おぬしに渡せばろくなことは無いじゃろう? それを、おぬしらが暮らす世に持ち帰られたりすれば、こちらはおぬしらの処遇を決めねばならんことになる」

「処遇って、どういう……?」

「それを聴いてしまえば、もう一生、おぬしは家族に会えんかもしれんぞ?」

「え、それは止めてください」

「なら、愚かなことはせんことじゃ」

 俺は、それ以上何かを言うことも出来なくなった。


 また、川を挟んだ二人の間に沈黙が降りる。

 今度は、老人が一人の世界に入り込んでいるように、竿を上げては餌を変え、針を変えとせわしなく動いているので、俺は何かを口にすることは出来なかった。

 ――よく考えれば、この川、魚もおらんやんか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る