六
――なんなんや、この状態。
熱いものが溜まったり湿ったりしていた胸の中は、今はすっからかんだった。
「……確かに、あいつは死んだはずやのに」
あの日、三本の家族に謝って、父に叱られて、人生初の葬儀に出席し、水に流されたのが嘘のようにきれいになった遺体を見て泣いた。
――ホンマ、ここはどこなんや?
スマホを付けても、電波は相変わらず繋がらない。
――どうやったら、出れるんや?
その時だった。
タスケテ、コッチニキテ、ウラトシ、ウラトシィ
俺はすぐさま、その声が聞こえた方を向いた。
胸中はもう慌てることなく、すっからかんのまま。
「ウラトシィ! あかん、急に水量が……ゴボッ、流されるっ……!」
若い顔をした三本は、真っ赤な顔をして、根っこに捕まっている。
「助けてくれ! 死にたくない!」
俺はすぐに身体を動かせなかった。が。
――ひょっとしたら、三本を無事に助けたら、俺は脱出できて、あいつも復活するんちゃうか?
ふと、脳裏に光が点いた。
その時には、俺はほどけた方のTシャツを身に纏い、急いで岸に降りた。
「おい、三本! 絶対に、こっちに流れてこい! 右側や! 左に行ったら助けられんから!」
そう言って、俺は対岸に、落ちていた岩を五回ほど投げた。
にわかに、川の流れが変わった。
「よっしゃ! 来い! 絶対掴めよ!」
だが、三本の頬は引き攣って、こちらの方を不安げな表情で見ている。
「来い! 俺を信じろ!」
その時、より大きな波が押し寄せた。
三本の手は根っこから引き離される。
「掴まれっ!」
俺は目いっぱい、Tシャツを持った腕を伸ばした。
が、三本はその手よりも遠いところを流れていった。
「ああっ、三本っ……!」
最後に、彼がこちらと目を合わせたところが、スローモーションで脳裏を走った。
「畜生」
俺は、他の大き目の岩をどんどん対岸に投げ込む。
――さっき投げた分は、そのままあるんやな。
水流は、確実にこちらに近づいてきていた。その分、俺の前に来る時の水量と水流の強さは大きくなっている。
――これって、ループする回数制限とかあるんやろか。
そう思っている時に、また、幽霊のようなか弱い声が響いた。
タスケテ……コッチニキテ……コッチコッチ……タスケテ……
上流を見ると、これまでと、全く同じ体勢で、三本は露出した木の根を掴んで、バタ足で水流に抗っていた。
「ウラトシィ! 助けてくれ! 流される!」
悲痛な叫びが、空間一帯に響いた。
「大丈夫や! 俺を信じろ! こっちに流れてきたら、絶対助けたる!」
三本が、チラリとこちらを向いた。
俺は、大きく頷き、胸をグーで叩いた。
ごくりと唾を呑んだ彼は、そっと手を離した。
そのわずか後に、大きな泥水の波が襲い掛かる。
「来い!」
三本は、狙い通りの水流に乗って流れてきた。そこにタイミングを合わせて、Tシャツを投げる。
「掴め!」
マメだらけの手が、Tシャツにかかる。
「離すな!」
だが、水流のせいか、それとも握力を使い果たしたか、掴みかけた手はTシャツを擦り抜けた。
「あっ」
三本は、まだこちらに懸命に腕を伸ばしながら、濁流に呑まれていった。
ケテ……
俺は素早く振り向いた。
三本が、濁流に必死に抗っていた。
「助けてくれぇ! 誰か! 溺れる! 水が!」
すぐに、俺は小さな岸の端に向かい、張り出した、輪っか状の木の根に手を掛ける。
――耐えてくれよ、頼むから。
ギギギ、と耳障りの悪い音を立てながらも、根っこは耐えている。
そのまま、川に落ちている岩にそっと脚をつき、徐々に体重をかける。
「よし、今度こそ、絶対助けるから! こっちに流れてこい! それで、どこでもええから俺に掴まれ!」
三本が、チラリとこちらを向いた。
俺は、先程よりも大きく頷き、胸をグーで三回、叩いた。
彼は、この窮地にしては随分落ち着いた瞳でこちらを見て、頷き返してきた。
「よっしゃ、来い!」
根っこを持つ手の力を強くする。
三本が、そっと根っこを離した。
彼は、顔を水上に上げて、苦悶の表情を浮かべながら一気に流れ落ちてくる。
ギリリ、と歯が擦れ合った。
三本が目の前に迫る。
俺は腕を川に向かって突き出した。
その手に、三本の手が重なった。
俺はがっしり、三本の手を握り、彼もゴツゴツしたその手で握り返す。
「よっしゃ、ナイス!」
そのまま、根っこを引き寄せてゆく。
が。
ドドドドド、と轟音を鳴らしながら、泥水の大波が俺たちに襲い掛かった。
「あかん」
三本の太い脚が、水に薙ぎ払われ、流れてゆく。
俺の腕もそれに引かれ、根っこを持つ手はあっけなく弾き飛ばされた。
「あかん!」
素肌が水に浸かり、石や木片が引っ掻き傷を残してゆく。
「ウラトシ! お前泳げんのに!」
三本が叫んだ。
口の中に泥水がゴボゴボと流れていく。嘔吐物をもう一度飲み込んだような気持ちの悪さ。
「あ、あぶ……」
倒木が、川に張り出していた。
「マズい」
三本は、それを避けた。俺もそれに続き、一本の枝に思い切り掴まった。
「あっ……」
二人の声が、重なった。
もう一度、二人が手を伸ばしても、中指が掠っただけだった。
「三本っ!」
「ウラトシぃっ!」
二人とも、思い切り手を伸ばす。が、その距離はどんどんと離れ、やがて、三本は見えなくなってしまった。
「三本っ……!」
脳内がぐちゃぐちゃになる。
――また、助けられんかった。
身体を持ち上げ、倒木の上に脚を掛ける。
か弱い声は、耳を澄ませても、もう一度は聞こえてこなかった。
「三本……」
目元が沸騰したみたいに熱くなる。
湯のような涙が、ヒタリ、濁流の中に消えていった。
「クッ、クッカッカッカッカッカッカ」
と、乾いた笑い声。
涙を拭ってから顔を上げると、対岸で、麦わら帽子を目深に被った老人が、釣り竿を垂らしていた。
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