「三本ぉっ!」


 三本の身体はどんどん流され、やがて見えなくなった。

「三本……」

 酢の臭いを嗅いだような鼻への刺激と、目を潤す水分。それが、堪え切れなくなって、頬を伝う。

「三本……?」

 それを拭うと、拭えない疑問が一気に湧いてきた。

 ――なんか、あの日と、まるで一緒やんか。

 三十二年前の、暑い夏の日だった。



 ***



「今日、どこ行く?」

「せやなあ……どないしよ」

 町に一軒しかないコンビニの前に集合した、俺と三本、そして他のクラスメイトの三人。

 今日は曇っていて、暑さは随分マシだ。

「電車乗って海でも行くか?」

「俺、今めっちゃ金欠やから勘弁してくれ」

「昨日は山登りやったしな……」

 そこで、一人が言った。

「せや、要山かなめやまの川とかどうや?」

 四人は大きく頷いた。

「おお、ええやん」

「なら、水着いるな」

「ほな、僕、釣り具も持ってくるわ」

 各々が自転車に飛び乗り、それぞれの家へ散っていく。




西口潔にしぐちきよし探検隊の連中と要山で泳いでくるわ」

 俺は、水着を用意しながら、普段のメンバーの集まりの、どこかで聞き覚えのあるような名前を出した。

「ん? 要山? 行ってらっしゃい」

 母は、洗濯物を干しながら、欠伸交じりの返事を返した。

 



「あー、すまんすまん」

 最後に三本が、そう言いながらのんびり自転車を漕いできて、メンバーが揃った。

「ほな、行こか」


 雑談しながら、二十分ほどで、目的の沢に辿り着いた。

 頂上にはさらに五分ほどで到達することが出来、謎の石碑が狭い平地に佇んでいる。

「ほな、俺一番!」

 と、陸上部の一人が、Tシャツを脱ぎ捨てて、沢に飛び込んだ。

「ちょ、お前早いて!」

 次々に高校生男子が上半身裸で水に飛び込む。

「ああーっ、冷てぇっ」

 俺も最後に飛び込んで、ひんやり冷たい水に身を任せた。

「うわ、ウラトシ、さすがラグビー部やな、筋肉めっちゃごつい」

「ナイスマッチョ!」

「誰がやねん!」

 そんな風に騒ぎながら、互いに水をかけあう。

「なんか、今日ちょっと水が濁ってるな……」

 三本の呟きは、耳には入っても、特に返すことは無かった。




「ちょっと、寒くなってきたな」

 日光は、ぶ厚い黒雲によって完全に遮られ、ガサガサと木の葉を揺らす風が吹く。

「うわ、雨降ってきたし。最悪」

「まだ二時間半しか泳いでないのになぁ」

 俺たちは順番に水から上がり、タオルで身体を拭いて、Tシャツを被ってゆく。

 そんな時だった。


「うわあああああああああああっ、助けてくれぇ!」


 急に増水してきた水に、一人まだ水中にいた三本が飲まれたのは。


「おい、三本、おい!」


 しばらく木の根に捕まって粘ったが、彼は俺たちの目の前で濁流に呑まれ、流されていった。

「三本ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」


 岩にへばりついた、彼のサンダルを拾うのが、俺たちの精いっぱいだった。



 ***



 なぜ死んだはずの人間が、全く同じことを俺の目の前でしているのだろうか。

「って、おい……」

 辺りを見回すと、一気に心臓辺りが強張ってゆく。

 風景は、あの時の要山とほとんど変わらない。

 違うのは、季節くらいか。

 ――にしても、冬の川にしては温かい。

 水に少し手をかざすと、死んだ人間のようなぬるい温度が肌に流れた。

 ――なんや、これ。

 バチン、と大きな音を立てて、両手で両方の頬を同時にひっぱたく。

 シュウ、と高音が頬から発生するだけで、世界は何も変わらない。

 ――なんなんや、この世界。さっきのは間違いなく三本やった。

 ポケットに入れた、ぐしゃぐしゃのメモ用紙を取り出す。


『三本の法事 供え物 団子、饅頭 写真も探す』


 マジックペンのよく滲んだ文字で、確かにそう書いてある。

「今の、誰や?」

 目の前には、相変わらず黄土色の水が泡を立てて渦巻いている。

 刹那。


 タスケテ、タスケテ


 肩の筋肉がガチガチに固まった。

 悪寒が全身を走り、背筋がピンと張る。

「……また、か?」


 タスケテ、コッチニキテ、ウラトシ、ウラトシィ


 死にかけの老婆のような弱い声が、また空間一帯に響き渡る。

「さっきのは、三本とちゃうんか?」

 俺は、三本が根っこを掴んで堪えようとしていた方向を見た。


「ウラトシ! 流される! 助けてくれ、引き揚げてくれぇ!」


 痛ましい、水風船が破裂するような涙交じりの絶叫が聞こえる。

 視界の中心には確かに、脚を必死になってバタつかせながら、露出した木の根っこにしがみ付いている、西口潔探検隊の命名者がいた。

「おい、み、三本?」

 自分でも驚くほど、怠けた声が出た。

「助けてくれ! 頼む、頼む! 死にたくない!」

 その顔はよく日に焼けて、ツーブロックの似合う顔だった。

 ――全く、老けてない。

「ウラトシ! 頼む、頼むウラトシ!」

 木の根っこを掴む彼の手はどんどんと滑り、先端の方へと追いやられてゆく。

「ちょ、ちょ待てよ! とにかく、耐えろ! 喋らんでええから耐えろ!」

 俺は慌てて、マウンテンパーカーを剥ぎ取り、Tシャツを脱いだ。


「うわあああああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 耳を塞ぎたくなるような叫び声を残して、三本は濁流に呑まれて流れてきた。

「掴め!」

 三本の身体が、手前の岩を過ぎたところで、俺は結び付けたその服を投げた。

 身体は沈んで見えない。

 しかし、マメだらけの手が、強くマウンテンパーカーを掴んだ。その重みが、どんな大物よりも強く、俺の腕を引っ張る。

「よっしゃ、そのま」

 まこっちに来い! と言うのを遮るように、マウンテンパーカーとTシャツの結び目がほどけた。


「お、おい……三本ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 マウンテンパーカーを強く掴んだまま、彼の腕は遠ざかり、間もなく水中に沈んで見えなくなった。

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