四
「はっ……?」
脚がピタリと止まり、辺りを見回す。
コッチ、キテ……コッチコッチ……コッチニ……
その声は、今向かおうとしている川の方から聞こえた。
「なんやねん……」
背筋を冷たいものがなぞる。
心臓が冷たくなり、孤独という絶望がもう一度立ち込めてきた。
「おい! 誰かおるんか!」
返事は無い。
「おるんやったら返事しろ!」
その時。
タスケテェッ!
これまでのものとは全く声質が違う絶叫が響いた。
キンキンと耳を掻き鳴らすような、金切り声。
「誰や!」
しかし、それ以上の声は聞こえない。
「なんや、どうした! おい!」
ケテ……
と、それに応えるような声が、また聞こえた。
最初の声と同じ、幽霊のようなもの。
「なんや、誰なんや! 何してるんや!」
声をからしながら叫んでいても、首筋には良くない汗が滲んでいた。
……ウラトシ
「え?」
そこで、身体が硬直した。
力のない、消えてしまいそうな声が、俺の学生時代のあだ名を呼んだ。
タスケテ、ウラトシ
ラグビー部の後輩が、
「浦部洋稔なら、略してウラトシ先輩ですね」
と言い出したのがきっかけのあだ名で、高校時代しか、そのあだ名で呼ばれたことはない。
真須美が小学校四年になる前に、田舎暮らし脱却をするべくこちらに引っ越してきたのだから、この辺りに知人はいないはずだ。
ウラトシ……ウラトシ……ウラトシィ……ウラトシィィ……!
獲物を待ち構える肉食獣のように、声はだんだん大きくなる。
「誰や、おい、や、やめろ、なあ」
喉に力はとうに入らなくなっていた。
タスケテ……ウラトシ……タスケテェ……
「やめろ、やめろやめろやめろ、黙れ黙れ黙れ!」
川に背を向け、俺は走り出した。脚は鉛の重りのように重く、初冬だというのに、半袖Tシャツの内側は汗でぬめる。
来た道を、とにかく戻りたい。
が。
――ここ、一体どこなんや……。
生えている木の違いは分からず、目印になるような岩もほとんど無い。
霧が立ち込めていたせいで、方向や周りの景色を確認できなかった事実が、心臓に重く圧し掛かる。
「くっそ……」
脚は回らなくなった。
それでも、脚を止めることは出来なかった。
「ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ」
喉はもうカラカラだ。
「だあっ!」
脚が、ぐちゃぐちゃになった地面に引きずり込まれた。
すぐに手を付くが、そこで跳ねた泥が顔に当たる。
ジーンズで隠れていた膝頭に、ズキリと鋭い痛みが走った。
ザアアアアアア
背後から、激しく流れる水の音が聞こえる。
「っそやろ……?」
おもむろに振り返ったその時。
ウラトシィ……タスケテェ……コッチニキテ……タスケテェ……!
ゾクリと、鳥肌が沸いた。
ウラトシィ……ハヤク、タスケテ、タスケテ、タスケテェ……!
この世のものでは無いものが叫ぶような、響くのに妙な静けさがある。
「や、やめてくれ……っ」
語尾が大きく震えた。
フラリ、フラリ、おぼつかない足取りで、俺はもう一度走り出した。
ウラトシィ……ウラトシィ……
背後で、常に声が聞こえる。
タスケテ、タァスケテェ……
その声は遠ざかることも、近寄ることもない。
――なんや、景色も全く変わらんし。
まるで、ベルトコンベアの上をひたすら走っているような、腹立たしい感覚だった。
――誰が叫んでるんや、誰なんや、あの声。
「助けてくれぇ、水が、死んでまう!」
「えっ」
脳が、醒めた。
先程までと比べ、やけにはっきりと聞こえた、助けを呼ぶ絶叫。
刹那、グルグルと“あの日”の光景が頭を回る。
「……
返事は無い。
急速に、身体が冷えてきた。
「おい、三本!」
百八十度、方向転換して、俺は走り出した。
脚は、骨が取れてしまったかのようによく回転する。不思議と全く息も上がらない。
「おい、三本!」
川はあっと言う間に近づいてきた。
地面が削られた場所に通っており、橋をかけなければ跨げないほどの、山の中の川にしては大きな部類だ。
ここまで降った雨のせいか、黄土色に濁った水が泡を立てながら、一気に流れてゆく。
その濁流の中に――。
「おい、何しとんねや! なんでお前がおるんや!」
テニス部に所属していた、高校時代の同級生が揉まれていた。
三本は、張り出した木の根に捕まっている。
自慢の挑発は既にビショビショで、顔をしかめ、苦悶の表情を浮かべていた。
「ウラトシ……なんでここに。グボッ」
彼は、こちらの姿を認めると、顔を上げて話した。そこに、容赦なく泥水が襲い掛かる。
「そんなん後や! 離したらあかんぞ、絶対、そこ離したらあかんからなぁっ!」
木の根元の土が崩れ、ちょっとした崖のようになっている。その崖の下は、既に濁流だ。
下流には、角が尖った岩がいくつも並んでいて、その先には小さな滝まである。
「くっそ、ロープ船に置いてこんかったら……」
と、視界の端に、脚をつけそうな、僅かな地面が目に入った。
――ドロドロで滑るやろうか。
頭で考えた時には、すでに身体が動いていた。
「ちょっと先で待って受け止めるから、俺がええって言うたら流れてこい! 岩にぶつからんようにな!」
「あ、ああっ……」
俺は一気に駆け出した。
と。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
後ろから、叫び声が聞こえた。
振り返れば、大きな泥水の波が三本を飲み込もうとしていた。
「あかん!」
波の中、三本の、マメだらけの手が根っこから引き離されたのが見えた。
「ちょっと待て!」
小さな岸は、もう目前に迫っている。
だが。
「ウラトシィ……」
絶叫したところで、口の中に大量の水が入り、ゴボゴボ沈んでいく三本が通り過ぎたのが、先だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます