三
当てもなく、全く景色の変わらないこの道を歩いていると、電話が鳴った。
「もしもし、浦部です」
勤め先の運送会社からだった。
「おう、ちょっとまあ、耳が痛くなる話やと思うんやけど、聞いてくれ」
どこか苦しげな上司の声に、進んでいた脚がはたと止まった。
股関節周りが固まる。
「昨日、運んでくれた荷物なんやけど、肝心の荷物に破損がある、ってクレームが入ったんや」
「えっと、昨日、いくらか運んだんですけど、どこからですか?」
話を遮るように訊いた声は、気づけば随分早口になっていた。
「あー、ほら、あのCD屋や。あっこから、CDケースにヒビが入っとったって電話が飛んだんやわ」
ボン、と胸元が熱くなった。
「ええ? そんな、製造側のミスの可能性もあるんやないんですか? CD一枚で?」
「まあ、その気持ちはめっちゃ分かるんやけどな。浦部も分かるように、こっちに対するクレームやから、こっちが対応せなあかん。やから、ひとまず、そっち方面からちょっとの期間だけ、違う方に行ってくれへんか?」
「はあ?」
荒げた口に手を重ねても、もう遅い。
上司は、さらに苦しげな、呻くような声になって言った。
「すまん、一週間やから、とりあえず。それまで、短距離にしてくれんか?」
短距離輸送なら、当然帰りは早くなるが給料は落ちる。
そして、今の俺には、帰りが早くなるメリットは一つも無い。
「一週間ですね?」
既に、濃密な関係を築いている人の笑顔と「お疲れ様」の声が脳裏に浮かんでは消える。
「ああ、たの」
そこで、唐突に声が途切れた。
電話が切れる音も、こちらを腹立たせるツーツー音も聞こえない。
スマホを耳から離すと、「電波がありません」と、冷静な明朝体があった。
「なんやねん、ホンマ、今日っていう日は……!」
俺は、思わず、アスファルトの上に落ちた大きな石を蹴飛ばした。
その石は、ガツガツと角をアスファルトにぶつけながら、森の中へ転がってゆく。
「……いっそ、厄払いに寺か神社でも行ったろうか」
舌打ちをして、だが、上手く出来ずしょんぼりとした音しか出なくて、俺は獣のような呻き声を上げて、海を睨んだ。
焦げた銅みたいな色をしたブイが、浜に打ち上げられていた。
しばらく歩いていると、だんだんとアスファルトの道の幅が狭くなり、森と海が近づいてくる。
聞こえていた町の喧騒や、海を走る船も、ほとんど無くなってしまった。無論、人もいない。
まるで、世界から隔離されたような。
最恐のお化け屋敷に、一人で放り込まれた時のような。
海風が吹き、ビクリと身体が震える。
サワサワと、左隣の森が泣いた。
「あ、あー、あんなこーといーな、でっきたらいーな!」
閉まった喉から絞り出すように、咄嗟に歌を歌う。
その声も、浦部洋稔しかいない空間に四散して、結果、俺の胸中に霧が広がる。
「そーらーを自由に、とーびたーいなー!」
と。
「はい、たけ……」
大きく曲がっていく道の向こう側。
アスファルトは、まるで森に侵食されているかのように消えていっていた。
――行き止まりか?
だが、近づいてみるとどうやら、中に獣道が続いている。
振り返れば、真っ黒い雲が、両手をだらんとたらしたお化けのように雲を占領していた。
「くっそ……」
広大な砂漠のように乾いた、自分のものとは思えない声が出る。
俺は、湿った落ち葉の積もった道へ一歩、踏み出した。
森の正体は、それほど深くは無い林だった。
それでも、霧が前も見えないほどに立ち込め、生き物の声は一切聞こえない。
聞こえるのは、雨の音と、風で擦れ合う葉の音のみ。
今すぐ、どこかに逃げ出したい衝動に何度も襲われながら、俺はどちらかが折れるくらいに歯を食いしばって歩く。
ザアア……
「ん?」
と、これまでに無かった音が、遠くから聞こえることに気付いた。
一度足を止め、目を閉じて耳に全ての意識を集中させる。
ザアアアアアア……
――川や。
そこですぐに、頭がグルリと回る。
――このまま川を伝って下流に降りてったら、いずれは町に出るよな。
胸の中に立ち込めた霧が少し晴れ、しこりが若干削れた気がした。
「っしゃ!」
小声で、それでいて喉に力を込めて言い、胸の前で拳を握った。
視界の霧も少し晴れ、開けた林の上空の曇り空が見えるくらいにはなった。
俺は岩や枯れ木を乗り越えながら、音が聞こえる方へ進む。
ザザアアアアアア……
音はにわかに大きくなったように感じる。
さらに、ぐちゃぐちゃとスニーカーに水が入ってきて、靴下が濡れて気持ち悪い。よく考えれば、それは、川の水が地面に浸み込んでいるということでもあるのではないか。
脳裏に、真須美と妻の顔を思い出す。
――この環境におったら分かる。やっぱ、一人やったらなんも出来んわ。
玄関を笑顔で開ける俺の姿を想像して、口角がまた上がる。
「お」
白く泡立つ水が、視界の端に微かに映った。
「よっしゃ来たっ……」
跳ねるような駆け足で、そこへ近づいてゆこうとした。
刹那。
コッチ……コッチ……コッチニ、キテ……コッチニキテ……
幽霊を思わせるような、力のない声が、この空間一帯にぼわわんと響き渡った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます