当てもなく、全く景色の変わらないこの道を歩いていると、電話が鳴った。

「もしもし、浦部です」

 勤め先の運送会社からだった。

「おう、ちょっとまあ、耳が痛くなる話やと思うんやけど、聞いてくれ」

 どこか苦しげな上司の声に、進んでいた脚がはたと止まった。

 股関節周りが固まる。

「昨日、運んでくれた荷物なんやけど、肝心の荷物に破損がある、ってクレームが入ったんや」

「えっと、昨日、いくらか運んだんですけど、どこからですか?」

 話を遮るように訊いた声は、気づけば随分早口になっていた。

「あー、ほら、あのCD屋や。あっこから、CDケースにヒビが入っとったって電話が飛んだんやわ」

 ボン、と胸元が熱くなった。

「ええ? そんな、製造側のミスの可能性もあるんやないんですか? CD一枚で?」

「まあ、その気持ちはめっちゃ分かるんやけどな。浦部も分かるように、こっちに対するクレームやから、こっちが対応せなあかん。やから、ひとまず、そっち方面からちょっとの期間だけ、違う方に行ってくれへんか?」


「はあ?」


 荒げた口に手を重ねても、もう遅い。

 上司は、さらに苦しげな、呻くような声になって言った。

「すまん、一週間やから、とりあえず。それまで、短距離にしてくれんか?」

 短距離輸送なら、当然帰りは早くなるが給料は落ちる。

 そして、今の俺には、帰りが早くなるメリットは一つも無い。

「一週間ですね?」

 既に、濃密な関係を築いている人の笑顔と「お疲れ様」の声が脳裏に浮かんでは消える。

「ああ、たの」

 そこで、唐突に声が途切れた。

 電話が切れる音も、こちらを腹立たせるツーツー音も聞こえない。

 スマホを耳から離すと、「電波がありません」と、冷静な明朝体があった。


「なんやねん、ホンマ、今日っていう日は……!」


 俺は、思わず、アスファルトの上に落ちた大きな石を蹴飛ばした。

 その石は、ガツガツと角をアスファルトにぶつけながら、森の中へ転がってゆく。

「……いっそ、厄払いに寺か神社でも行ったろうか」

 舌打ちをして、だが、上手く出来ずしょんぼりとした音しか出なくて、俺は獣のような呻き声を上げて、海を睨んだ。

 焦げた銅みたいな色をしたブイが、浜に打ち上げられていた。




 しばらく歩いていると、だんだんとアスファルトの道の幅が狭くなり、森と海が近づいてくる。

 聞こえていた町の喧騒や、海を走る船も、ほとんど無くなってしまった。無論、人もいない。

 まるで、世界から隔離されたような。

 最恐のお化け屋敷に、一人で放り込まれた時のような。

 海風が吹き、ビクリと身体が震える。

 サワサワと、左隣の森が泣いた。

「あ、あー、あんなこーといーな、でっきたらいーな!」

 閉まった喉から絞り出すように、咄嗟に歌を歌う。

 その声も、浦部洋稔しかいない空間に四散して、結果、俺の胸中に霧が広がる。

「そーらーを自由に、とーびたーいなー!」

 と。

「はい、たけ……」

 大きく曲がっていく道の向こう側。


 アスファルトは、まるで森に侵食されているかのように消えていっていた。


 ――行き止まりか?

 だが、近づいてみるとどうやら、中に獣道が続いている。

 振り返れば、真っ黒い雲が、両手をだらんとたらしたお化けのように雲を占領していた。

「くっそ……」

 広大な砂漠のように乾いた、自分のものとは思えない声が出る。

 俺は、湿った落ち葉の積もった道へ一歩、踏み出した。




 森の正体は、それほど深くは無い林だった。

 それでも、霧が前も見えないほどに立ち込め、生き物の声は一切聞こえない。

 聞こえるのは、雨の音と、風で擦れ合う葉の音のみ。

 今すぐ、どこかに逃げ出したい衝動に何度も襲われながら、俺はどちらかが折れるくらいに歯を食いしばって歩く。


 ザアア……


「ん?」

 と、これまでに無かった音が、遠くから聞こえることに気付いた。

 一度足を止め、目を閉じて耳に全ての意識を集中させる。


 ザアアアアアア……


 ――川や。

 そこですぐに、頭がグルリと回る。

 ――このまま川を伝って下流に降りてったら、いずれは町に出るよな。

 胸の中に立ち込めた霧が少し晴れ、しこりが若干削れた気がした。

「っしゃ!」

 小声で、それでいて喉に力を込めて言い、胸の前で拳を握った。




 視界の霧も少し晴れ、開けた林の上空の曇り空が見えるくらいにはなった。

 俺は岩や枯れ木を乗り越えながら、音が聞こえる方へ進む。


 ザザアアアアアア……


 音はにわかに大きくなったように感じる。

 さらに、ぐちゃぐちゃとスニーカーに水が入ってきて、靴下が濡れて気持ち悪い。よく考えれば、それは、川の水が地面に浸み込んでいるということでもあるのではないか。

 脳裏に、真須美と妻の顔を思い出す。

 ――この環境におったら分かる。やっぱ、一人やったらなんも出来んわ。

 玄関を笑顔で開ける俺の姿を想像して、口角がまた上がる。


「お」


 白く泡立つ水が、視界の端に微かに映った。

「よっしゃ来たっ……」

 跳ねるような駆け足で、そこへ近づいてゆこうとした。

 刹那。


 コッチ……コッチ……コッチニ、キテ……コッチニキテ……


 幽霊を思わせるような、力のない声が、この空間一帯にぼわわんと響き渡った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る