第34話:黒い女の夢

 三宅は目を開いた。目を開いたはずなのに、何も見えない暗闇だった。


 しばらくしていると、目が慣れてきた。真っ暗ではなく、天空に上限の月が出ていた。おかしな夜空で、星は一つもない。辺りを見回すと、遠くにうすぼんやりと浮かび上がる人影があった。


 ふらふらと、人影の方へ向かっていく。恐怖は無かった。なぜか、その人影に会わないといけないという、そんな気がした。


 近づくにつれ、人影は細いシルエットを明らかにしていった。その肩幅は、男性の者ではない。若い女性のそれである。


「誰だ?」


 人影は訊ねた。まだ距離があって、その顔色は窺い知れない。三宅は立ち止った。

 何を、分かりきったことを訊くのだろうと思った。


「三宅、雄一」


 三宅は、夢見心地で答えた。これが夢の中なのか、現実なのかは、そんなことすら三宅の頭には無かった。


「……どこからきた? どうやってきた?」


 三宅は、首を傾げた。先ほどの問いには自然に答えられたのに、今度の質問には、さっぱり思い浮かぶものがない。


「さあ……。わかりません」


 くっくっ、と暗闇から押し殺したような笑いが聞こえた。どこかで聞いたことがあるが、思い出せなかった。なぜか、とても懐かしいもののように思えた。


「これは夢だよ、三宅」


 その瞬間、人影の顔が白く浮かび上がったように、明瞭に形を成した。無骨な丸い眼鏡。全てを見通すような、茶色がかった瞳。


 南美亜子、その人であることを、三宅は認識した。


「あ……美亜子先輩……」

「ふむ。君はやはり、前頭葉の活性化が鈍いとみえるな。ほら、目を覚ませ」


 美亜子は、佇んでいる三宅に近づくと、背伸びをして三宅の両頬を両手で押さえた。


「痛いか? 痛くはないだろうな。夢だし」


 頬が押さえつけられる感覚がして、頭を振った。意図せぬ感覚に、今まさに瞼を開いたように、五感が世界を知覚し始めた。

 気が付くと、雨が降っているようだった。霧雨が、身体を濡らしている。寒くはない。


 三宅は、周りを見回した。


「ここ……は……」


 美亜子が、呆れた様子で三宅を見つめる。頬を伝った雫は、涙のように顎に沿って落ちた。


「君が来たんだろうが。ここは、私の夢だ。そして他ならぬ、黒い女の夢でもある」


 暗闇から、足音が聞こえた。リノリウムの床を叩くような、甲高い音。


 三宅の見当識は、一瞬で覚醒した。自己の認識と、ここに至った経緯を思い出す。そして、素早く、音の聞こえた方を見た。


 闇が蠢いた。漆黒に溶け込んだ黒いドレスの裾が揺れたのだ。


「君がここに来たということは、まだ可能性は残されているわけだな。それも、ただのやけっぱちという訳ではあるまい。

 ただし、一つ忠告しておく。起きたらメモをしておくことだ。カウントダウンはこれから始まる。後は君次第だよ、三宅」


 月明りの下に、腰の細いウエストのシルエットが浮かび上がった。黒いドレスの胸元で、長い髪がたなびく様に揺れている。


 女の手が、長い髪を掻きあげた。その顔貌が、あらわになった。女の右の目尻には、小さな黒子があった。


「あなたは……」


 言いかけて、三宅はごくりと、つばを飲み込んだ。その顔を、三宅は知っている。よく、似ているのだ。


 三宅が呑み込んだ言葉は、黒い女によって引き取られた。


「——あなたは、だあれ?」


 凛とした声。それは虚空に響くように、耳に残った。

 直後だった。身体が大きく揺さぶられるような振動音が、耳のそばで聞こえた。

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