第35話:狂気

 暗がりの病室で、扉が微かに軋んで、開いた。闇に紛れるような黒衣姿が、そっと、ベッドのそばへ近づいていく。


 ベッドサイドモニターのすぐそばまで来ると、黒衣はそっと、手に持っていたバッグを、ベッドサイドの小さなテーブルに置いた。

 音を立てないようにゆっくりとした動作で、バッグの中から注射器と注射針、アンプルを取り出す。

 注射針を注射器に接続して、アンプルから薬液を吸い上げてから、僅かに押し出した。

 薬液が細い注射針を伝って、床に滴り落ちた。


 寝ている美亜子の腕を取ると、注射器を腕に近づけていき——。


「そこまでにしてもらえませんか」


 三宅は、窓とベッドの隙間から、ゆっくりと立ち上がった。ベッドサイドモニターの弱弱しい明かりに照らされた黒衣の顔を、睨みつける。


「あなたの妹に会いましたよ。夢の中で、ですけどね」


 相手の顔は強張った。手にしていた美亜子の腕をベッドの上に戻すと、手に持った注射針を、力なくベッドに置いた。


「黒い女。それは貴方の妹、新堂雨月しんどううづきなんですよね。晴陽さん」


 晴陽は、感情のない目で、三宅の視線を受け止めた。晴陽の口から、呆れたような溜息がこぼれた。


「三宅君。どうしてこんなところにいるの? 早く帰らないと、だめでしょう。それに、黒い女だなんて。まだそんな話を信じているの?」

「全部、美亜子先輩を助けるためですよ。彼女は四年前のこととは、何も関係がない」


 晴陽の肩が、ぴくり、と動いた。


「晴陽さんが美亜子先輩を襲ったのは、彼女があなたの行為を知ってしまったからだ。だから僕は、美亜子先輩だけは、永遠に口を封じられるんじゃないかと思った。案の定でしたね」

「口を封じるなんて、人聞きが悪いわ」


 晴陽は、ベッドに横たえた注射器を愛おしそうに指先で撫でた。彼女が撫でるたび、鋭利な針の先端が、ベッドから浮き上がった。


「これは、そんな薬じゃないもの。夢を、実現する薬」

「コリンエステラーゼ阻害薬でしょう。あなたが、皆を昏睡させるために使った薬だ。黒い女——新堂雨月の夢を見させるために使った薬でもある。

あなたが、どうして雨月さんの復讐に、当時入院していた人間を眠らせているのかは知らない。でも、そんな復讐は、無意味ですよ! 妹さんはもう……」


 晴陽は口元を歪め、声を出さずに笑った。その不気味な笑みに思わず、三宅は息を呑んだ。


「よく知ってるね。でも、間違えてもいる。だって、雨月を殺したのは、私なんだもの」


 言葉を失い、三宅は後ずさった。

 心臓が、煩いくらいに脈動している。


「どうして……? じゃあ、なんであなたは……?」

「私は、雨月のことが大好きだったの」

「わけが、わからない。あなたは、晴陽さんは」


 ——狂っている。


 その言葉は、掠れて声にならなかった。身体の芯が震え出したのが分かった。


「当然のことです。余命短い雨月に、空を飛ばせてあげたかった。永遠の、幻想の世界につれて行ってあげたかった。

それが、彼女の望みだったから。雨月の夢をかなえるためなら、私はどれだけ汚れようと、耐えられる。人を殺す罪だって、受け入れる」


「でも、そんなことをしたら、警察には分かったはずだ。飛び降り自殺ではなく、あなたが突き落としたなら……」

「あの子は、自分で飛んだのよ。自分の夢に描いた通りに」

「そんな……馬鹿な。そんなことが……」

「あるでしょう。皆、自分の見たい夢を見ているじゃない」


 ——自由に夢を、見られる機械。


 その言葉を口の中で唱えたとき、震えはいよいよ、全身に移った。


「この薬はね、睡眠時に夢を見やすくするだけじゃない。同時に、夢遊病を誘発するの」

「でも、そんなこと、絶対ではないはずだ。絶対に落ちるなんて……」


 三宅は、はっとした。

一度である必要はないのだ。彼女が天を飛ぶ、その日が来るまで、何度も、何度も——。


「雨月の夢が叶う日を、わたしはずっと待っていた。だからこれは、夢を実現する薬なの」


 三宅は足がふらつき、窓に身体を預けた。閉じられたカーテンの擦れる音がした。翻ったカーテンの隙間から、夜空の星のように、地上の光が煌めいていた。


「雨月だけじゃない。これは私の夢でもあった。雨月を夢の中で、永遠の存在にしたの」


 彼女は、涙すら浮かべて、恍惚とした表情になった。


「今泉っていう狸の理論よ。商用のFREAMの出力は、通常制限されている。

それは、余りに強い出力を出すと、夢から覚めてしまうから。でもこの薬なら、夢から覚めにくい状態を作れる。

薬と高出力の渦電流、この二つで、睡眠中の雨月の脳を最大限まで活性化させた。

そして、その時の脳波を、狸に電磁ディスクに保存させたの。

あいつらが夢のデータを作る時と一緒よ。雨月の精神はね、その時、電磁データになって形を得たのよ」

「それが、黒い女の夢の、正体……?」


 こめかみに鈍痛が走り、三宅は頭を指で押さえた。

 そんなことが、可能なのだろうか。


「……最初の犠牲者は、坂東彩奈さんだったんですね」


 震える声で、三宅は訊ねた。もはや、全ての事件はこの女によって計画されたことは、疑いの余地がなかった。


「あれは、事故みたいなものだったけど。狸の先生がFREAMの出力を上げすぎたのか、薬の濃度が高かったのか……。

雨月みたいに、飛び降りちゃった。その後は、ちゃんと修正したわ。私一人でもみんな上手くいった。

雨月の夢を見させると、皆、よく眠ったの。安心したわ。私が行くまで、夢の中の雨月を孤独にさせずに済むもの」

「それが、理由ですか。四年前の入院患者。雨月さんと親しかった人間を、雨月さんと共に夢に閉じ込める……。なんて、身勝手な……!」

「身勝手? そうかな。私はとても、いい思い付きだと思った。

雨月は孤独にならずに済むし、雨月の事なんて忘れて、さっさと退院して楽しそうにしている人間が相応の目に遭うのは、当たり前じゃない?」


 ベッドサイドモニターの微かな光で、晴陽の目が妖しく煌いた。

三宅は、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気が付いた。その目に宿っていたのは、復讐などという生易しいものではない。

これは、狂気そのものだ。


「自首してください……。千紗都を、美亜子先輩を、みんなを元に戻してください」


 三宅は、吐き気を抑えて、晴陽の狂気的な瞳を見据えた。見つめる自分までもが、その狂気に侵されていくようだ。


 あろうことか、こともなげに、晴陽は笑った。馬鹿馬鹿しいとでもいうような声で。


「自首? 私の罪は何かしら。睡眠薬とコリンエステラーゼ阻害薬を人に使った傷害罪? それとも暴行罪なのかな? 

人に夢を見せる行為は、どんな犯罪になるんでしょう。

それに、眠っている人を助けるのだって、無理ね。どうして眠り続けるのか、私には分かっていないもの」

「そんな……」


 三宅は愕然として、情けない声を漏らした。崖下に蹴落とされたように足下が崩れていくような心地がした。


「事実よ。でもね。一人ぐらいは、目を覚ますかもしれない。例えば……」


 ベッドサイドの小テーブルに置いた鞄を、晴陽は左手に持った。右手で、ベッドに置いた注射器を握りしめる。


「あなたの大切な人とか」


 弾かれたように、晴陽は闇の中を疾走した。三宅が声を上げる間もなく、病室を飛び出ていく。

 ベッドに足をぶつけながら、三宅は晴陽の後を追った。

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