第22話:あれがシリウス、プロキオン、ベテルギウス。けれど二人は冬の大三角を見ない
大陸から、今年一番の寒気が来ているという。
寒風吹きすさぶ三宅家の庭へ出た三宅と美亜子は、天体望遠鏡をセットした。
「これ、外じゃないとダメですか」
吐く息が白い。手袋をしているのに、指先がかじかんでくる。
「それじゃあカモフラージュにならんだろう。君の母親の不評を買ってもつまらんからな」
美亜子は口元に巻いたマフラーで声をくぐもらせて、言った。
「それに、内緒話をするにはもってこいだ。百人一首部や、文芸部だったらこうはいかない。興味本位で覗き見、盗み聞き、だよ」
色々と考えた末の天文部だったようだ。たしかに、この寒さの中でわざわざ外に出てくる奇特な人間は、うちの家族には居ない。
不意に、厚手の上着が触れ合うくらい、美亜子が身を寄せて来た。身が強張り、感覚神経が右肩に集中してしまったような錯覚に陥る。
「先輩?」
うたた寝して倒れ込んだのかと、美亜子の顔を覗こうとする。
美亜子は、口元に人差し指を立てていた。静かにしろ、ということらしい。
「私の寝床のことなんだが、いい作戦はあるか? 睡眠時の監視だが、交互に起きている、寝ているという単純な話じゃないんだ。寝ている姿を起きて観察できる状況が望ましい」
美亜子は声を潜めて言った。彼女がちらりと向けた目線の先を追うと、窓からこちらを眺めている由貴が見えた。
「期末のテストが近いので、夜を徹して勉強するという名目はどうでしょう。リビングで勉強する、と言えば納得してくれるのでは。あとは、リビングのソファで交互に寝ましょう」
「……うん。じゃあ、そうしよう」
「それなら、今日は夢の共有はしないんですね」
「そうだ」
「夢子が出てきたら、どうしましょう」
「とりあえず話しかけてみてくれ。実体があるのか、無いのか。本当に亡霊のような存在なら、出自が知りたい」
三宅は頷いた。夢子が思う通りに答えてくれたら、いいのだが。
何を思ったのか、美亜子は、細く長い息を吐いた。白いもやが、わずかに空を登って、消える。
「寒いな」
ぼそり、と美亜子がつぶやいた。三宅は、ええ、と相槌を打つ。
「……千紗都は今、どんな夢を見ているかな」
「どうでしょう。寒さに凍える夢でなければ、いいんですが」
しばしの間、美亜子は沈黙した。
夢、という言葉で、三宅は気になっていたことを思い出した。今日、晴陽から聞いた話だ。
「先輩は、フロイトはご存知ですか?」
「まあ、多少はな。なにかあるのか?」
「今日、スクールカウンセラーの人に夢についての話をした時に、ユングの話を教えてもらったんです。少女の夢は何を意味するのか、聞くために。
そのときにフロイトの話が出たんですけど、結局聞けなくて。フロイトは、どうやって夢分析をしたんですか?」
「……そのカウンセラー、若い女性だろう?」
「ええ、そうですけど」
変なことを聞くものだな、と思って三宅は美亜子の方を向いた。
美亜子は口元に手を当てて、くっくっと押し殺したように笑っていた。
「ふふ。じゃあ聞けなかった、じゃなくて、言わなかったんだろうな。その女性の困惑が目に浮かぶよ」
「え?」
「私はそれほど気にしないから、答えることにしよう。
フロイト以前にも、夢分析にはその種の潮流はあったんだが、フロイトが当時、劇的に流行らせた分析手法がある。
それは、夢は抑圧された願望の象徴という考え方だ。まず根本になる精神構造の概念から話そう。
イドという本能的欲望を、倫理道徳であるスーパーエゴが抑え、エゴが現実的な行動を下す。
このイドというのは、人間が直視したくないものでもあるから、夢の中では、イドがエゴに抑圧された形で現れる、というんだな」
「聞く限りでは、簡単な話ですね。でも、それがどうして、言い辛いんですか?」
三宅は首を傾げた。
「重要なのは、エゴが検閲者として、どんな形でイドを夢に表象化させるかということなんだ。よくある例示は、蛇と、半分に切られたリンゴ」
いよいよ美亜子は、目を細めて愉快そうにしている。
「アダムとイブ? エデンの園ですか」
「その通りだ。もっと簡略化して、棒状のものが男性の象徴で、丸いものが女性の象徴といった具合かな。フロイトは、夢とは性的本能の発露であると言うんだ」
「そんなことを言ったら、大抵のものはその二種類に分別されてしまうんじゃないですか」
まだよく分からない。三宅の反応が薄いのを見た美亜子は、顔を近づけて声を潜めた。眼鏡の奥の瞳が、悪知恵を働かせる少女のように煌いた。
「その通りだ。つまり極論、寝ている人間の頭の中は、スケベなことで一杯ということさ」
三宅は思わず咳き込んだ。美亜子はそれを見て、けらけら笑う。
「そ、それは暴論でしょう」
「そう考える人も多い。そのカウンセラーとやらも、同じ考えでフロイトを省いて語ったんだろう。もっとも、男子高校生にフロイトを説いて聞かせるのは、刺激が強いだろうしな」
顔が熱くなるのが分かった。それを説いて聞かせたのは、目の前の美亜子ではないか。美亜子の笑いが収まるまで、三宅はそっぽを向いていた。
しばらく待って、寒さが耐え難いものになってきた。美亜子の方もようやく静かになったので、室内に戻ろうと、美亜子に提案をしようと思ったときだった。美亜子が口を開いた。
「三宅。右手を出してくれ。掌を上に向けてな」
空から降る雪を手で受け止めるイメージで、と言われて、三宅は手を出した。
「手袋を取ってみてくれ」
何の儀式が始まるのだろうかと思いつつも、言われた通りに手袋を取る。外気に晒された手は寒さで痺れるようで、感覚がなくなってくる。
「これから、どうしたら?」
三宅の問いに、答えは返ってこなかった。
代わりに、美亜子の小さくて細い左手が、三宅の掌に被さり、柔らかく掴む。
ひんやりとした冷たい感覚に、思わず手がびくりとなったが、動かすより早く美亜子の左手に包まれた。
手の芯の、ほのかな暖かさがじんわりと伝わってくる。その手は小刻みに震えていた。
「……冷たい。人の手というのは、こんなものか」
「……まるで、ロボットが初めて人間に触れたようなセリフですね」
唐突な美亜子の行動に、何を言っていいか分からず、思いついた言葉を口にする。無意識に、鼓動が早くなっているのが分かった。
美亜子を見る。彼女は目を瞑っているようだった。
「べんとらー。べんとらー」
「なんですか、それ?」
「知らないか? 宇宙人を呼び寄せる呪文だ。集団で手を繋いで、空を仰ぐんだよ」
三宅は呆れて物も言えなくなった。この寒空の下、そんな儀式に付き合わされていたとは。
「この寒さじゃ、宇宙人も出てきませんよ。家に入りましょう」
三宅が手を下げると、自然と美亜子の手は離れていった。
「……そうするとしよう。母親への茶番は、任せた」
言うが早いか、美亜子は明かりの漏れる家の方へ引き返していく。
マフラーから僅かに覗く彼女の白い頬は、寒さのためか、ほのかに朱が指していた。
しずかな冬の空の下、庭には望遠鏡と、三宅が残された。
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