第21話:午後八時 自宅に望遠鏡を担いでいく

 大きな望遠鏡を抱えて、住宅街を歩く。会社帰りのサラリーマンが対面からやってきて、物珍しそうに三宅を目で追った。

 平然を装って、三宅は前を向いて歩く。


 背後の不規則な足音が気になって、振り返った。


 リュックサックを背負った美亜子が、ふらふら、とぼとぼとついてくる。その姿を見て、三宅は彼女に気付かれないように、微かな溜息をついた。


 今夜、美亜子と天体観測をする。……という表向きの話をもっともらしく吹聴し、美亜子の親は問題なく、三宅の母親はしぶしぶ、三宅家への美亜子の宿泊を認めた。ただし、絶対に同じ部屋で寝ないこと、という条件付きである。


 プライベートな空間に誰かが立ち入るのは好きではないが、美亜子の提案は受け入れざるを得なかった。

 ひとえに千紗都のためであるが、彼女の勢いに押されてしまった感は、否めない。ファミレスでの美亜子が思い浮かんできた。


「えっ。うちにですか?」


 美亜子の提案を受けて、三宅は素っ頓狂な声を上げた。

 ガヤガヤと騒々しい店内でも、隣席の家族連れの注意を引くには十分な音量だったらしく、奇異の視線が向けられる。慌てて声を潜めた。


「どういうことですか?」

「このままじゃ、話し合うにも、どうにも時間が足らない。やることは山ほどある。私は今日の千紗都を見て、もっと迅速にコトを進めなきゃだめだと思っている」


 確かにそうだと思う。長期の意識不明のせいで、再覚醒時の意識に悪影響を及ぼすような事態は、なんとしても避けたい。


「まず夢子の対策だが、そもそも彼女との関わりで、既に私たちは死地に踏み込んでいる可能性も否定できない。

 だから、睡眠時は私と君、相互に監視してみたい。いわば、現行犯逮捕みたいなものだ。これで寝ている間に何らかの尻尾がつかめれば、御の字」

「……つまり、寝ずの番ですか」


 美亜子は頷く。お互いの負担を平等にしたとして、睡眠時間は半分になるわけだ。


「それに、千紗都の身辺の調査だな。友人やクラスメイトにも話を聞きたい。特に、彼女がここ数日どういう行動をとっていたか。

 もちろん、他の被害者の情報も集めたい。できれば直接だ。ネットはノイズが多すぎる」


 三宅は唸った。もっともな話だが、二人でやるには、もはやキャパシティを超えている。二人で二十四時間動いても、足りる気がしない。


「必要性は分かりますけど……。事件の真相を確かめる前に、僕らが倒れますよ」

「いい考えがある」


 美亜子は、にやりと口角を上げた。疲労のせいか、ぎこちない。


「人を増やす。こういうことを、喜んでやってくれそうな人間に心当たりがある」


 後は家で話す、といって話を切り上げて、美亜子は早速、自身の親に電話をかけ始めたのだった。

 美亜子の中では二人は天文部で、今夜は天体観測をすることが即興で決められた。


 そうして、美亜子の家から天体望遠鏡を拝借して今に至る。聞くところによれば、この巨大な望遠鏡は、かつて美亜子がUFOを観察するために手に入れたらしかった。


 家に到着すると、怪訝そうな顔の麻美が出迎えた。麻美は電話の時から声に不快感をにじませていたのだが、美亜子が恭しく手土産を進呈すると、態度が軟化した。由貴はリビングの端のソファに座っていて、ことの成り行きをにやにやと見守っていた。


 リビングのテーブルには、二人分のカレーが用意されていた。


「ごめんなさいね。大したものも、お出しできず」

「いえ。とんでもない。家で食べるカレーより美味しいです。毎日でも、食べたいくらい」


 美亜子が大袈裟に褒めると、まあ、と洗い場の麻美が声を上げて笑った。

 三宅が早々に食事を終えてキッチンへ空になった皿を持っていくと、洗い物中の麻美が小声で話しかけてくる。


「ねえ。いい子じゃない? 急に泊る、なんて言われたときはびっくりしたけど。ちっちゃくて可愛いらしいわ。まじめそうだし」


 母に対する応対としては、美亜子の立ち居振る舞いは百点満点のようだった。どこぞの馬の骨から、飼い犬の骨くらいには好感度を上げている。

 麻美の言葉の言外に、別の意味を感じ取って、思わず閉口した。だが誤解を招かぬうちに、どうしても断っておく必要はあった。


「そういうんじゃないから」


 美亜子が食事を終えると、三宅は彼女と共に自室へ引っ込んだ。麻美と由貴から冷やかしを受けかねなかったからだ。もちろん、本来の目的もあった。


「案外、綺麗にしているんだな」


 美亜子が、部屋を見回しながら言った。

 ベッドに本棚、勉強机、ローテーブルにグレーのラグマット。ポスターやフィギュアなんかは目につくところに置く性質ではないので、一見無趣味な部屋に見える。


「こんなもんでしょう」


 美亜子が比較したであろう標準的男子学生の部屋、というのが一体誰の部屋なのかは、追求しなかった。

 三宅はローテーブルの前に腰を下ろし、美亜子に近くのクッションを勧める。

 美亜子はリュックサックをラグマットの上に置くと、クッションの上に座り込んだ。


 制服姿の女子生徒が部屋にいる、というのは妙な気分だった。千紗都ですら、中学時代に数回足を踏み入れた程度だ。


 自分はこの人を、どれだけ信頼しているんだろうと、ふと思う。

 同年代の女子と比べて精神的に成熟していて、感情の起伏が少ない。

 胡乱な面や突拍子のない面はあるが、言動は理に適っている。

 自分にとって好ましい人物であるはずだが……何か腑に落ちない。


 三宅が落ち着かない気分でいると、美亜子はいそいそとリュックサックからパソコンを取り出して、ローテーブルに置いた。

 ネット回線が必要だというので、美亜子のパソコンにパスワードを入力して、接続してやる。


「これから、協力者と通話するから、そのつもりでいてくれ」

「その、協力者って誰なんです?」


 正体不明の協力者も、美亜子に対する些細な反感の一つだった。人手が必要なのは確かだが、その人間は一緒に捜査をするに値する人間だろうか。


「私の兄だ。大学生で、ブロガーでもある」


 三宅が優香に見せたブログを書いたのが、一人暮らしをしている兄だという。言われてみれば、科学と都市伝説の間で中立を保とうとする筆致は、美亜子のスタンスに似たものがあると感じた。


「もしもし? 聞こえる?」


 パソコンから、落ち着いた男の声が聞こえた。パソコンの正面には美亜子が座っているので、自然と三宅はパソコンを覗き込むような形になっている。パソコンの画面上で動くものが見えるが、顔はよく見えない。


「ああ、聞こえてるよ。兄ちゃんは?」


 美亜子が答える。兄ちゃん、という呼称が、普段の美亜子の口調とちぐはぐな感じがして、なぜかこちらがくすぐったい。


「問題ないね」


 男が言うと、美亜子はパソコンの向きを変えて、パソコンの正面が三宅と美亜子の間にくるようにした。これで随分と見易くなった。

 画面に映っていたのは、随分と髪の長い男だった。肩ぐらいまである。理知的な目をしているが、日に焼けていて、湘南にいそうなサーファーをインテリチックにした感じ、というのが率直な印象だ。


 画面の端には、南王登みなみわんど、と中華系を思わせるアカウント名が表示されていた。


「あ、どうも、ミナミワンドです。王に登るって書いて、ワンド。犬の鳴き声みたいっしょ」


 王登は含み笑いをしてみせた。彼の鉄板的自己紹介なのだろうと思って、儀礼的な笑いを返した。


「三宅雄一です。お忙しいところ、すみません」

「だいじょうぶ。忙しいなんてことはない。こりゃ俺の趣味みたいなもんだからさ。好奇心に動かされてる間は、忙しいなんて思ってないよ。それより、今日は俺のブログに興味があるんだって?」


 隣に座る美亜子が、ぐいとパソコンの画面に近付ける。


「違うって。言ったろ、人探しとインタビューだよ。例の、黒い女の夢だ」

「ああ、あの話。黒い女に突撃インタビューしてほしいって?」

「違う。探して欲しいのは被害者の関係者!」

「わかってるって。まあそう怒るなよ、美ぃちゃん」


 王登は押し殺したように笑った。美亜子の反応を愉しんでいるようで、人を食ったような性格は美亜子にも勝るとも劣らないようだ。

 美亜子の方は珍しく声を荒げて、南家での美亜子の扱いが察せられた。末妹として愛されているというか、からかわれているというか。


「頼むぞ、本当に。……人の命がかかってるんだ」


 美亜子の言葉に、思わず、身が引き締まる思いがした。

 三宅の中には、千紗都の身体はまだ生命を保たれているという認識があった。だが、美亜子はそうは思っていないのだ。

 身体は生きていても、精神は生と死の狭間にあると言えるのではないか。

 もし精神が死へと傾けば、身体は生きていても、人間として千紗都は死ぬ。そんな中空の状態を、美亜子は切迫して捉えている。


「……わかってるよ。みなまで言うない」

「被害者の現状と、意識不明になる前の動向。調べるのに、どれだけ時間がかかる?」

「住所なんかは、比較的簡単に調べられるだろう。報道されているものなら、市町や建物なんかを特定できるからな。

 被害者は十代や二十代が多いから、日常的に接している家族から話も聞けるはずだ。

 といっても関西や東北の方にも、ちらほら被害者がいるから、そういう人たちは時間がかかりそうだな」


 美亜子は、腕を組んでしばし俯くと、すぐに顔を上げた。


「分かった。時間と数を優先しよう。都内在住で、家族と同居していた被害者……この条件に当てはまる人たちを優先して捜査してほしい」


 王登は唸った。


「となると、四日は欲しいところだな。たぶん十人以上は居るだろうし」

「二日で頼む」

「おいおい、美ぃちゃん。それは非現実的じゃないか? 皆が皆、取材に協力的ととも限らないんだぜ?」

「千紗都の……私の後輩の、入院中の写真を送る。妹だといって見せて、同情を引いてくれ。ブログも見せれば、兄ちゃんが本気だということも伝わるだろう」


 三宅は傍らの美亜子を見つめ、唖然とした。いつのまに、そんな写真を撮っていたのか。


 ……考えるまでも無い、優香を連れて病室の外で話をしていた時だ。だから自分や優香を、病室から遠ざけさせたのか。


「でも、それは……」


 三宅は思わず、口を挟む。千紗都の両親に話を通しておいた方がいいのではないかと思ったのだ。

 振り向いた美亜子は、正面から三宅を見据えた。


「……たとえ、千紗都の両親に断られても、私は彼女の写真を使うつもりだよ。だから、このまま進める。言ったろう? 時間がないんだ」


 真剣なまなざしに、三宅は押し黙った。同時に、ふつふつと湧きつつあった美亜子への反発の正体が、形を帯び始めていることに気が付いた。

 無論、自分とて千紗都を助けたい。だが、あまりにも、なりふり構わない強硬な捜査はどうなのだろうか……。


 冷たいものが、背中を撫でる感覚がした。


 そうではない。自分の中で釈然としないのは、美亜子がなんらかの隠し事をしているということなのだ。

 自分は、美亜子が撮影した写真の話も知らなかった。

 他にもきっと、彼女は何かを隠している。


「……わかったよ。二日で頑張るさ。講義は自主休講だな」


 パソコンから、諦めたような王登の声が聞こえた。


「報酬には、こちらが辿り着いた真相を伝えよう。ブログの記事にしてくれていい。ただし、千紗都や被害者個人の話は抜きでな」

「兄ちゃんは、そんなことより美亜子の作るケーキでも、クリスマスに所望したいところだ」

「……彼女にでも、作ってもらえ」

「まったく。素直じゃないねえ」


 次回の会議の日取りを決めて、王登との通話が終わった。

 ふっ、と一息吐いて、美亜子が疲れた顔を向けた。


「……すまないな。変な兄貴だろう? まあ、あんな外見でも中身は真面目だから、信じてくれていい」


 美亜子は王登の擁護をした。三宅が黙っていたので、訝しんでいると思ったのだろう。


「見た目は、サーファーみたいな感じでした」

「本人的には、ヒッピーらしい。……これはもう死語かな?

 一九六〇年代の脱物質主義、脱権威主義の中、自由を求めた若者たちの総称だ。自然主義への回帰でもある。

 当時のオカルトブームやスピリチュアルブームの火付け役にもなったんだが……まあ、その話はいい」


 話も途中で、美亜子はぐらりと倒れた。気を失ったのかと驚いて覗き込むと、美亜子の口元が微かに動いた。


「五分だけ寝る。夢を見る前に、起こしてくれ……」


 美亜子はそれだけ言うと、黙ってしまった。

 すぐに、小さな寝息が聞こえ始める。眠ったようだ。糸が切れた操り人形のように、四肢を投げ出していて、呼吸に合わせて僅かに上下する腹部が、彼女の生命の証だった。

 彼女の寝姿は随分と無防備に見えた。

 それだけ信頼されている、という事なのだろうか。その一方で、彼女は何か自分に隠し事をしている気がする。

 この矛盾する二項対立は、いったいどういうわけだろう。


 ベッドの枕元にあるデジタル時計を見る。

 八時三十七分。キリよく、四十五分に起こそう。


 少しだけ休もうと、三宅も眼を閉じる。

 ふと、いつか見た映画のワンシーンがフラッシュバックした。


 怪人に襲われる悪夢を恐れる主人公が、睡眠に怯えている。

 うなされていたら自分を起こして、とボーイフレンドに頼んで眠るのだが、ボーイフレンドも寝てしまったために、夢の中で怪人に襲われても起きられない。

 結局、主人公は目覚まし時計で悪夢から目覚め、のんきに寝ていたボーイフレンドを罵倒する、というシーン。


 これも、エルム街の悪夢だった気がする。


 三宅は、音を立てずに口元だけで笑って、眼を開いた。

 そんなコミカルな惨事は御免被る。


 八時四十二分。きっかり五分経ってから、三宅は美亜子を起こした。

 眠そうに目を開けた彼女は、口元を覆って大きな欠伸をしてから、立ち上がった。


「さて、行くか」

「え? 行くって、どこへ」

「眠気覚ましの天体観測だ」

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