第1話 朝は優しく起こしましょう
"それ"はある日、突然現れた。
道理も無く、理解も及ばない"それ"の前には、人はただ蹂躙されるのみだった。
運が悪ければ、ただそこを歩いていただけで何もかも奪われる。
だとすれば少年は、限りなく運が悪かったのだろう。
何が起きたと理解する間もなく、家族を奪われた。
そして、少年は運が良かったのだろう。
一人だけ、生き残った。
■
『師匠ーー!!』
東京都・
首都都心部からは少し外れた片隅にある、中心にそびえ立つ巨大な大樹がシンボルの長閑な町である。
「師匠師匠師匠師匠ししょしっしょおーーーー!!』
そんな片隅の町のまた片隅にある広い屋敷に、その声は轟いていた。
小鳥の囀りが心地良く響く朝…と同時に、それをかき消す大声と足音もけたたましく響き渡り、何事かと驚いた小鳥達が、青い空へと瞬く間に飛び去っていく。
「…師匠は寝てます」
一方、『師匠』と呼ばれた人物は、瞼をぎゅぎゅっと閉じて、凄まじい速さで近づいてくる気配から逃れる様に被っていた毛布を引き上げると、断固とした決意と共にその中に引きこもった。
「師匠!!」
遠慮も躊躇いも無く、扉を蹴破らんばかりの勢いで『師匠』の部屋に上がり込んできたのは、動き易そうなパーカーに身を包んだ、13歳程のまだ年端もいかない一人の少年だ。少し低めの身長、純朴で素直そうな顔立ちに、ぴょこんと跳ねた短めの黒髪がよく似合っている。
「朝だよ!おはよう!」
「うん…おはよう…そしておやすみ…」
「朝稽古してくれるって約束だよね!」
「あ〜…けーこねけーこ……それな」
元気に挨拶しながらも、せかせか働く手は止めず。弟子は部屋の窓を開け放つと、燦々と輝く太陽の光を丁重に迎え入れる。爽やかな陽の光に照らされて、布団が苦しそうに呻き声をあげた。もしかしたら、中にいるのは吸血鬼なのかもしれない。
「と、とけるぅ……!」
「別にチョコじゃないんだから溶けないよ」
「…師匠の身体は甘いからチョコみたいなもの」
「何言ってんの」
笑顔で光合成する弟子とは裏腹に、より強固に防御を固めるかたつむり。
呆れの溜息をつきながら、弟子は布団に手を伸ばす。
「師匠ー起きなー」
「…心はいつだっておきてっからよ…」
「しっしょっおっ!!」
「むむむ…っ」
毛布の両端を掴んだ弟子が背を反らす勢いで力を込めても、引きこもりの殻はびくともしない。響き渡るのは、ぎちぎちぶちっという、罪の無い毛布の、己が身を裂かれる痛々しい悲鳴のみ。
『あ、これは無理だな』。
素早く判断した弟子は、今度は飛び上がると、華麗に一回転して、毛布の真上に勢いよくどかりと胡座をかいて座り込んだ。『ぅ゙ぐ』という籠もった声が聞こえた気がしたが気の所為だろう。
「夜ふかしはお肌の天敵って、母さんよく言ってたよ」
「…師匠、モンスターライダーレクイエムfレジェンズ
「まだ発売してないでしょっ」
「……師匠、立ち回りのイメトレしてたからまだ眠いの。しゅっしゅっ」
「朝ご飯の卵焼き1個あげるから!」
「やむなし」
素晴らしく覇気も威厳も無い台詞を吐いていた師匠であったが、その言葉を聞くや否や、上に乗っかる少年をいとも容易く持ち上げて、毛布ごと立ちあがる。
ころりと、華麗に一回転して着地した弟子の前で、勇ましく被っていた毛布を脱ぎ捨てれば、現れたるは何と17歳程の可憐な少女。年相応の可愛さと不相応な美しさを絶妙なバランスで両立させた顔は、ハの字の眉が少々気弱な印象を窺わせるが、町を歩けば、まず放っておかれることは無いのではないか。そして、あちらこちらに寝癖を完備した、薄茶色に染まった優雅に流れる長髪。暖かな日の光を存分に浴びながら、引き締まった腰に両手を当てて勇ましく胸を張る、その威風堂々たる様相たるや―
「サヤ師匠またパンツ一丁で寝たの?やめな?」
「………ジンくんそのパーカー取って」
「はい」
「感謝感激あられちゃん…」
『ジン』と呼ばれた少年に雑に放り投げられた上着を、師匠は視線も寄越さずに絡めとると、素肌の上にパーカーを直接羽織り、上を閉める。年不相応の豊かな山脈に阻まれて半分以上ご開帳だが特に気にする様子も無く、師匠は屋敷に併設された道場へと意気揚々と歩く弟子に手を引かれて歩いて…いや、いやいや引きずられていく。まだほんのり抵抗が残っているらしい。
「今日こそ一本取ってやるんだい!」
「前回2秒で伸びたとは思えない発言だね…」
「う、うるさいやい…」
「やーいやい…」
和気藹々。師匠のやる気の無いからかいに、唇を尖らせて足を速める弟子。
出会った頃は、心を復讐に支配されていたその小さな背中。彼が本来秘めていた真っ直ぐさと素直さをこうして目の当たりにする度に、師匠は気づかれない様、口元に緩やかな笑みを浮かべるのだった。
少年の名はジン。かつて、故郷に突如現れた怪異に、何もかもを奪われたもの。
少女の名はサヤ。日常の裏に蔓延る悪と戦う為に結成された、とある機関に所属する年若いエージェントである。
■
『…そんな遠くでいいの?』
「うん!」
『…そっかー』
静謐な空気がよく似合う、広々とした道場で、ジンとサヤは木刀を構えて向かい合っていた。
向かい合って、とは言うが、お互いの距離は端と端。とても打ち合えるとは思えない距離である。
「(…ここまで離れればとりあえず2秒持つ!)」
それは即ち、何とも情けなく、何ともみっともない、弟子の姑息で小賢しい策。
ジンの中では、『始め』の挨拶がかけられたその瞬間から勝負は始まっている。一方でサヤの中では、勝負は獲物を合わせてからが開始という認識なのだが、ジン的にはそんなこと関係無い。2秒持てばよかろうなのだ。重ね重ね情けない。
弟子の策略を露と知らぬ師匠の方といえば、呑気に欠伸をしながら、力の無い素振りを繰り返している。
『…私が勝ったら、約束通り卵焼き3個あーんで食べさせて、ついでにお風呂一緒に入ろうね』
「厚かましいよ師匠」
『…師匠だからね』
ジン驚愕。知らぬ間に負けた時のペナルティが重くなっていた。
そもそもお風呂なんて、約束が無くとも無理矢理乱入してくるくせに。何なら、鍵をかけてもピッキングするなり力でぶち壊すなりして入ってくるくせに。
数年前、自分がこの屋敷に来た頃はよく共に入った、というか入れられたものだが、いい加減弟子離れをしてほしい。ジンは切に願った。つまりは負けられない戦いである。
『…私に一太刀でも入れられたら君の勝ち。ご褒美に遊園地に連れてってあげる』
「それ師匠に得ある?」
『得しかない』
屈伸運動を済ませながら軽いお顔でツッコむジンに、『今日も可愛い弟子はつれません。』と何となく寂しい気持ちになるサヤであるも、元々表情が薄いので、表面上何が変わる訳でも無い。ついでに遊園地も勝ち負け抜きに普通に連れていく。
木刀を手元で弄びながら、コキコキと軽く首を鳴らし終えたサヤが、軽く息を吐く。
互いに一礼すると、二人は改めて木刀を構え、向かい合った。
「さ、師匠っ。いつでも、どっからでも来い!」
『…そ?』
「じゃ、いくね」
「え」
とん、と軽く一歩を踏み出したサヤの姿が向かい端から霞みの様に掻き消えた…と思った次の瞬間、直ぐ側で聞こえた聞き馴染んだ可憐な声と共に、ジンの腹部にぶちこまれた凄まじい衝撃。
くの字に折れた姿勢で勢いよく道場の壁に叩きつけられ、ずるずると頭から崩れ落ちたジンは、哀れそのまま意識を闇の中へと沈み込ませる。
その間、1.5秒。
「…うぇ〜い、し〜んきろ〜く」
右手で木刀を振り抜いた姿勢のまま、白目を剥く弟子をご満悦に左の人差し指で力強く指差しながら、気の抜けた声をあげるのは言うまでもなく。
「………」
その薄い表情の裏でサヤは、吹っ飛ばす直前の、弟子の何とも可愛らしい驚きの顔を脳裏に思い浮かべた。
ただ唖然としているだけだと思っていた。
ろくに動くことも出来ないだろう、と。
けれどその眼は、確かに。
「(…今のを捉えるか…)」
それなりに速度は出したつもりであったが、彼の両の眼差しはしかとこちらの動きを追っていた。本人にはまだ自覚は無さそうだが。
ジンと稽古をする度に、サヤは常々感じている。若さ故か、それとも才能故か、その目を瞠る程の成長速度は決して侮れないと。
だがしかし、急成長する実力に経験と身体が追いつけていない。
とはいえ、出来ることならこのまま経験なんてしない方がいいのだ。彼の様な被害者を生み出さない為に、己が所属する機関は存在するのだから。
故に、サヤはジンよりも強くあらねばならない。いつ如何なる時も。
「(……稽古、増やさなきゃかな…)」
面倒くさいけど。
ぽりぽりと、サヤは呑気に寝癖だらけの頭を掻いた。
『師匠たるもの、弟子には頼れる背中を見せ続けなければならない』。
彼を引き取ることを決めた時に、決意したことの一つだ。
他には、『ご飯は一緒に食べる』・『挨拶はきちんとする』・『師匠は大切にする』・『師匠を敬う』・『師匠を褒める』・『師匠を可愛がる』等々。師弟の決まり、というよりは家族の約束事、といった感じであるが、お互いに細かい事を気にする性格でもなかった。
何より、一人ぼっちの生活が明るくなったことは、彼女にとって何よりも嬉しくて、楽しかった。もう、彼のいない生活なんて考えられない程に。
「…ジンくん、まだやる?よね?」
だから、サヤは何だかんだ言おうが稽古に付き合う。ジンが喜ぶから。例え、稽古のはずなのに一撃でぶっ飛ばそうが、今となっては目の奥にぶち込んでも痛くも痒くもない愛弟子である。上着が肩からずり落ちるのも気にする様子も無く、ぴょんぴょんと弾む足取りでサヤはジンに近づくと、しゃがみ込んでその顔を覗き込む。嗚呼、今日も我が弟子は愛らしい。何度見ても、何時間眺めても飽きない。写真を撮れたらもっと良かったのに。
「…………………ん?」
そんな可愛い愛弟子の呼吸が聞こえないことにサヤが気がついたのは、それからきっかり十秒後のことであった。
▶師匠
寝る時は浴衣派。
だいたい寝ている内に脱げる。
▶弟子
卵焼き全部食われたし風呂場まで拉致された。
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