第二十八話
トワイライト家の離れ、三階の北の部屋でシャルロットは窓辺にたたずんでいた。腕には針が刺され、包帯で固定されている。頭の高さに下げられた透明なガラス瓶には緑色の薬液が満たされており、管を通って血管にゆっくりと投与されている。
薄い肩からおちかけたストールに手を触れた時、穏やかなノックの音が彼女の耳に届いた。
「どうぞ」
応(いら)えから数秒おき、扉を開いたのはエヴァンだった。幾度かの躊躇いの後、口を開いた。
「ゼストさんは……」
「牢にいるのでしょう? そのぐらいは分かっているわ」
エリクサーを投与されたシャルロットは見る見るうちに復調した。現実離れした回復に彼女は改めてこの世界の構造を実感した。
(ポーションは体に負担がかかっていたけど、エリクサーにはその副作用もない)
反動に身構えていたが、今のところは過眠や痛みなどの症状もなく穏やかに過ごせている。
「レディオルが、己の身の上をあなた達に話してほしいと願いました」
シャルロット達はレディオルのことを何も知らない。正しくは情報としては知っているが彼自身の言葉を聞いたことがなかった。
「ゼストはきっと興味が無いだろうから、あとで私から話しておきましょう」
興味の無いことであってもシャルロットの言葉であればゼストは耳を傾けてしまう。
「実はゼストさんはレディオルの隣の房に入ることになっています」
「まあ」
エヴァンの言葉にシャルロットは目を丸くした。取り繕うものも無くなったゼストはきっと、これまで表に出していた朴訥な面を彼に向けることはもうないだろう。
「きっとあの人、迷惑をかけてしまいますね。ご挨拶に伺った方がいいかしら」
「レディオルの拘留はそう長くありません。準備をなさっている内に出てきます」
「それもそうね」
何せレディオルの方は冤罪だ。シャルロットの誘拐の容疑がかけられているが被害者とされるシャルロットに訴える気が無いためこれ以上の進展も無かった。
少々の歓談の後、紅茶が部屋に運ばれた。てっきりイネスが持ってくると思っていたシャルロットは見知らぬメイドを不思議そうに見つめた。
「どうされましたか?」
「不躾にごめんなさい。彼女が運んでくるのだとばかり思っていたので」
「なるほど。イネスは少し、出かけているんです」
穏やかに微笑むエヴァンはシャルロットにゼストを思い起こさせた。
「レディオルは監視対象なんです」
紅茶のカップを傾けながらエヴァンは語りだした。
「彼はレトワージュの生まれでした」
物語を紡ぐように言葉は続いていく。レトワージュはドガの遙か北に位置する王制国家だ。シャルロットに思い入れは無いが、訪れる機会すら無いような遠国は村の子供達の想像をかき立てたことを覚えていた。
「移住の理由は、表向きには大陸で最も栄えているドガの都に興味を惹かれたためとなっています」
それが真実でないことをシャルロットは既に知っている。
「故郷で彼は王政打破の頭目に祭り上げられたそうです」
寒さの厳しいレトワージュでは人々が団結することを余儀なくされた。その際に心の拠り所となったのが宗教だった。
「貴い血を引くわけでも、主に縁深き敬虔な信徒でもないにも関わらず彼は人を酔わせてしまう」
あるいは酔った人間に虚像を結ばれてしまう不幸をレディオルは持ち合わせていた。粉挽きの息子としては不要な天稟こそが彼を彼たらしめる。
熱狂。革命。犠牲。望む望まないは関係なく彼の半生はそれらにまみれていた。
「この都で彼は意図的に人との繋がりを断ち切っています。自警団を自称する気狂いのふりをすることは彼の平穏を保つためには欠かせないことです」
関わる人間さえいなければ、狂う者は現れない。そんな中でエヴァン・トワイライトが贄として差し出されたのはひとえにトワイライト家の信用の高さからだった。
「数年の付き合いで確信しましたが、彼は間違いなく善良で正しすぎる」
生まれ持っての形質か、数奇な人生により培われたものかは定かで無いが、エヴァンにとってレディオルは憧れであると同時に最もかけ離れた隣人だった。ただ存在するだけで正しく、迷いが無い。
「その正しさが彼にとって良いものなのか、私には分からない。あまりにも違う上に、理解することを放棄してしまった」
分かり合えなくとも隣に立つことは出来たはずなのに、エヴァンは預けられた無防備な背に爪を立てた。心内で卑屈な考えを撒くのではなく、行動として表した。
「後悔はありますか?」
シャルロットの問いに一度、首を振ろうとして止めた。後悔は確かに彼の胸にあった。
「……はい。あの後ろくに話もしなかったので、怒っているのかもわかりません」
対等な間柄では無かった。それでも二人には共に過ごした時間があり、全てを無に帰してしまうのがどうにも惜しかった。
「では、まず話し合いから始めるのが良さそうですね」
「話を聞いてくれることを祈っています」
眉尻を下げた微笑みは青年を幼く見せ、窓から射す光が青みがかった黒髪を淡く照らしていた。庭の木は葉を落としており、塀の向こうの景色まで見通せる。冬が近づいていた。
足音が鳴っている。跳ねるでも引き摺るでもない複数人の歩みに迷いは無く、レディオルの隣の房にひとり入れられた。
「やあ。また会ったね」
「……」
レディオルからの呼びかけにゼストは応えなかった。表情を歪める訳でも目線を向ける訳でもなく、無いものとして扱った。
「問答を再開しないのかい? 不慮の出来事で取り止めになってしまっただろう」
正しくは以前から公にマークされていたレディオルがあの時点では被疑者ですら無かったゼストの縁者であるシャルロットを拐したことで線引きを越えたためだ。
その後ゼストたちの家に存在した証拠の存在がエヴァンによって申告され、共同の家主であるシャルロットの許可を得て家宅の捜索が行われた。地下室へ繋がる扉以外は隠されておらず、残された晶石片から身元が照合され、エヴァンと共に出頭したゼストは罪状を得て牢に繋がれたのだった。
牢の中で聞くレディオルの声は輪をかけて耳障りだった。元よりこの男の声は聴衆を酔わせるような響きを持つため、このような狭い場所で聞くようなものでは無かった。
「君は驚くほど簡単に規範を逸脱するのに、裁きには素直に従うんだね」
雑音がゼストの耳を通り抜けていく。生きていく上で必要のないことは耳に入れない方がいい。
「どんな人生を歩んできたんだい? 生まれはグルース村だったね」
この男の声に答えたところでゼストに得られるものは無い。他者との会話で損得を考える性質でもなかったが嫌厭する男とのやり取りは成果でもなければやっていられなかった。
「ロットとはいくつの時に会ったんだ? 俺も故郷に友人を置いてきたがしばらく会ってないよ」
ゼストは隣の房にいる男が心の底から煩わしかった。ここ数年シャルロットの容体に心を砕き続けていたこともあって余計なことを考える必要も無かった。
「…………その話はいつまで続ける」
改めて都で得たフロワという友人が得難いものだとゼストは感じた。
「やっと喋ってくれた」
レディオルの声音に喜びが滲む。故あって人との関わりを避けてはいるが彼自身は人が好きだった。
「石像にでもなったのかと思ったよ。それともそっちが君の素なのかい?」
どうにかこの男を黙らせるべく、ゼストは口を開いた。
「ドガの断頭台は何人分の命の重さで綱を切る?」
ドガには死刑が存在する。犯した罪が重篤である者、更生の余地が無い者、社会に深い影響を与えた者にその裁きが下される。
隠し部屋にまで踏み入らなかったレディオルにとっては与り知らぬことだが、ゼストは彼と関わりを持ち始めた日から部屋に置く晶石の量を徐々に減らしていった。晶石の持ち主を照合できるまで形が残っているのは四つ。後は破片が一握り分ほどで、どれだけ多く見積もっても、失踪者の数とは合わない。
条文にこそ書き記されていないが、これまでの判例では十人以上の人を殺めるか、無辜の命を惨たらしく辱めることが死刑か禁固刑かの分かれ目だった。
レディオルはゼストの言わんとすることを即座に読み取った。
「君、いい性格してるね」
ゼストはこれから裁判にかけられる。裁判は懺悔ではない。罪の確認と清算を行い、過去の行いを遡及させないための区切りの儀式だ。
犠牲者のために義憤する者がいなければ、結審してしまえば後は粛々と刑に服すだけ。シャルロットを失う以上の恐怖を知らないゼストにしてみれば穏やかにすぎるほどだ。
彼は殺す人間を選んだ。その手間を怠りさえしなければこの事件はこれで終わる。
最初の内、ゼストは自らが起こした罪を全て明らかにし極刑に処されることを望んでいた。牢の中でシャルロットの死の報せを聞き発狂することも、罪を隠匿して生き残り故郷にいる両親や義父達に厄介をかけることも避けたかった。だが、シャルロットが生きているなら話は別だった。
彼女と生きることをゼストは諦めない。誰に謗られようと、人道に悖る行いを重ねようと、出来ることがあるなら手を伸ばさずにはいられない。この恋は彼にとって毒だった。心根を腐らせ、人を殺め、罪を謀(たばか)った。
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