第二十七話
親愛の情のみを抱いていた存在が命の危機に瀕したことは平凡に生きていたゼストの観念を粉砕した。彼にとってシャルロットはひねくれていながらもそのことに自覚を持って一歩引いた振る舞いをする女の子でしかなかった。
将来の結婚相手、村一番のお嬢様。ロブ以外の男には淡い恋心を寄せられていた高嶺の花。尊重することはあれど傾倒はしない。心地のいい距離感を保っていた。
何もかもが変わってしまったのはあの馬車の事故のせいだった。
怖くなった。白茶の髪には不似合いの赤色が頭から滲み出ている。傷口も分からないので止血のし方すら分らない。
持たされていたポーションを手の震えはそのままに彼女の頭に振りかける。薬液と血は混ざらず、赤い帯が青の中で揺蕩っていた。
小さな咽びの後、シャルロットが喀血した。高所からの落下により内臓も損傷を受けていたことを理解させられた。
(早く治さないと)
今は意識が朦朧としているが正気を取り戻せば自らの惨状を自覚したショックでたちまちに死ぬ。
呼吸器に残る血がわずかな自発呼吸を妨げても死ぬ。
村までは距離があり、ここから火を焚いても笛を吹いても救援は間に合わず死ぬ。
彼女が何をしたというのだ。人の意志なら分かる。理不尽ながらも他者にとっての道理なら打ち砕くことができるのに、こんなことは間違っている。
ゼストは無我夢中で馬車の残骸を漁った。職人によって作られた樫材の箱の留め金を震える指で無理やりに開け、中身を取り出した。ベルベットの中材の上に瓶が一つ収められているポーションだ。
シャルロットの父から有事の際は迷わず箱を開けるようにと言付かっていた。あの人はこのような事態も予見していたのだろうかと背筋を正されるような心地がした。
ポーションという不条理の極みともいうべき物質に対する不審は消えなかったが、目の前のシャルロットを救うためには些事と言う他なかった。
「大丈夫。大丈夫だから……」
彼女を勇気づけるためでなく、己の手が止まってしまぬようにゼストは呟き続けた。自分が存外臆病者で、彼女の死に体を裂かれるような心地がすることを初めて自覚した。
無理やりに彼女に薬液を飲ませれば呼吸が安定した。かすかに開いていた瞼が伏せられ腕の中の彼女が重くなった際には肝が冷えたが、眠っているだけだと気付いたときには安堵が心中を満たした。
薄曇りの空を仰ぎながら男は笛を吹いた。音はどこまでも高く、風にさらわれていった。
なんてことはない隣にいただけの少女。夢を共にしたわけでも心の内を語り合ったわけでもない。死にかけた時の拍動が微弱で、危篤のまま眠り続けた、か弱い人。
ただ彼女を見た。目を離せばたちまちに儚くなってしまいそうな女をどうするわけでもなく見つめていた。
穏やかなようで自分の心に正直な、ありふれた君を失いたくなかった。日々を重ねるうちに君が存外俺のことを見つめていたことを知った。
花びらに似ていると思っていた山吹色の瞳は、いつからか光に見えた。
「やあ」
ドガの牢は外構は石造りでこそあるが、内壁には木を用い、床材も厚い板を張っているので寝転がっても体を痛めることはなかった。
横たえていた身を起こし、いつもの鷹揚な調子でレディオルは会釈した。表情を変えることなくエヴァンは言葉を落とした。
「エリクサーを渡しました」
その言葉にレディオルは意外そうに目を丸くした。もしもの時のため、自分の鳥にエヴァンにも従うよう指示は出していたがそのことを利用されるとは考えてもいなかった。
「拾得物はひと月経っても落とし主が現れなければ拾い主の物になる。これを落としたあなたが書類上釈放されるのはふた月先です」
実際の拘留は更に短く、一週間もしないうちに釈放される。レディオルが捕らえられる前から整えられていた手筈だった。
「それにしたって俺が繋がれて一日も経っていない。気が早いんじゃないか?」
この国の人間がレディオルに首輪をかけたがっていることは重々承知していたが、愚直ともいえる性根の普段のエヴァンと行動が結びつかなかった。
「拘留されることは確定している。後は書類さえ整えてしまえば、どうとでもできると教えたのは君ですよ」
トワイライト家の権威ではそのようなことすら許される。いつかの与太話でエヴァンに聞かせたのはレディオルだった。もっとも彼らが強権を発揮するのは稀で、まして拾得物のかすめ取りに行使されたことなど今日(こんにち)までなかったのだが。
「君らしくもないね」
特権を持ち得るからこそ自らを律するのがトワイライトの人々だ。エヴァンの振舞いは一族のあり方とも彼のこれまでの生き方とも反している。
「結局私に兄のような清廉な心は備わっていなかったというだけの話だ。先送りにしていた結論を今日出した。それだけだ」
自分の内面が未熟であることをエヴァン・トワイライトは自覚していた。だからこそ規範に従い、社会を維持していくことで人に関わろうとしてきた。だが、結局は完全な兄やレディオルに打ちのめされこの生き方が不可能であることも悟ってしまった。
「そもそも、私らしいとは何かあなたは答えられますか」
エヴァンが彼らを助けたのは有意性からではない。ただ、このまま死に目にも会えず命の蝋燭を燃やし切ってしまうのはあまりに悲しい結末だと、そう思ってしまったからだった。
「私とあなたは友人です。けれど、彼らもまた友人であり、出来る限りの便宜を図ってやりたいとそう思ってしまった」
罪を償う機会を無為にはしない。だが、その前に愛する人間の無事すら保証されずに引き離される男はあまりに哀れだった。
「彼女を殺める気が無くとも、命の保証がされていようと、いくら正しかろうと、あなたのやったことは彼らを甚振っていた。自覚すら無かったのかもしれませんが」
レディオルは生まれた時から人を動かせる素養を持っていた。粉挽きの息子でありながら商家の少女も貴族位の青年も高僧すらも彼の言葉に耳を傾けざるを得なかった。レディオルが正しくあり続けることも相俟って、彼の前に立つことは正義と対峙することと同義だった。
「あなたは決して間違っていません。牢に繋がれたのも卑怯な私があなたを説得する言葉を持たず、上の人間はあなたに前科を付ける大義名分を欲したために嵌められた」
正しさは万能の救いではない。結果論ではあるが今回の事件の発端のゼストも騒ぎを起こさなければ個人でエリクサーを動かせるレディオルと知り合うことも不可能だった。
「……じきに隣人が来ます。あまり話しかけてやらないでください」
その言葉を最後にエヴァンは牢を去った。常のごとく背筋が伸び眼差しは遠くを映していたが彼は己こそが罪人であることの自覚を深め、恥じ入る心地だった。
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