第二十九話
独身寮の一室で少女が部屋の主のため、卓の上でコーヒーを淹れていた。手付きには迷いが無く、彼女が給仕に慣れていることがよく窺える。
四角い卓に並べられた器具は新しい物で、フロワが数日前に購入した。イネス相手に普段の憎まれ口を叩くわけにもいかず、自らの口を封じるための苦肉の策だった。幸いコーヒーはフロワの口に合わず、彼の唇を引き結ばせた。
焙煎された豆をミルで砕く音が部屋の中に響いている。
「自分の感情を分解していった結果、僕は結局あの二人が生きていてくれるならそれでいいんだということが分かってしまった」
以前は論文が散乱していた部屋はすっかり整えられていた。トワイライト家でメイド業を行っているイネスが通い始めたこととフロワ自身が論文の執筆に時間を割けなくなっていたため散らかる余地も無くなっていた。
「ゼストのやったことは許されざることだ。反省だってしていないだろうし、もしまた同じ事態に陥ったらあいつは繰り返す」
それくらいはフロワも友人たちのことを心得ていた。ゼストは馬鹿をしでかして、シャルロットはそれを止めもせずにゆるりと笑む。フロワを友人として大切に思っていながら、説得を行っても行動の指針は変えてくれない。その身勝手さが腹立たしくも美しい友だった。
「ただ人を殺すよりよっぽど惨いことをした。誰にも気にかけられない命を選んで自分の罪の秤を軽くした傲慢は誰が裁けるんだ」
ゼストは一度イネスも殺そうとした。以前の彼女は人付き合いも無く、家が焼けても事故として処理されていたことだろう。トワイライト家が後見を務めたことで人との繋がりができ標的からは外されたが、そうでなければイネスは改めて殺されていた。
何度か分けて注がれたお湯が落ち切り、二人分のコーヒーが出来上がる。言葉も無く同時に口を付け、両者の視線は机の木目に落とされた。飲み口の厚い白のマグカップもまたイネスをこの部屋に招くようになってから用意したものだった。
「君の家の放火に関しても罪に問うことができる。あいつも否定はしないはずだ。黙りはするが、嘘をつくつもりもないだろうから」
いっそ嘘で全て塗り固めて、虚飾のもとで生きていてくれれば見限れた。彼らは秘密を多く持っていたが嘘だけはフロワについてくれなかった。
「……いいえ。止めておきます」
黒水晶の瞳をフロワに向け、イネスは続けた。
「あの日、ゼストさんがあの男を殺さなければ私の命はそもそも無かったんです」
月に一度の習慣として、イネスは夜に教会を訪ねていた。彼女自身にも自覚は無かったが、メンテナンスの一環で収集した情報の整理を行うことがプログラミングされていたのだ。
その帰り道、運悪くイネスは破落戸に出くわした。酒にひどく酔った様子の男に話は通じず、イネスを痛めつけながら嬲るように路地へと追い詰められていった。
「あの時の私はまだ感情も薄く、感じた恐怖も小さかった。ですが今思い返せば死んでもおかしくは無かった」
管理AIのイネスが本当の意味で死ぬことは無い。大きな損傷を受けても最低限の機能を保持したまま再起動のフェーズに入るだけだ。それでもその空白こそが彼女にとっての死だった。
「君のつくりは調べた。損耗が激しれば情動と記憶の部分で初期化が入る」
「はい」
管理AIに本来、人のものと近しい感情表現やエピソード記憶は不要だ。にも関わらずイネスはその機能を具えている。
「余分としか言いようがない機能だが、それが君を君たらしめている不可欠な要素だ」
菫色の瞳は伏せられ、顔を傾げたせいで白の髪が彼の頬にかかった。つくりこそは理解できるが、フロワには作り出せない領分の存在だ。
「きっと君を作った人間も、その不公平を生みたくて苦心したんだから」
愛とは結局、不公平であることだ。大切なものを定め、扱いに差をつけ、何もかもを擲って守りたいと思ってしまう衝動。不条理、不均衡、不明瞭。人の中から完全なものを見つけるのは難しい。
「僕はあの捻くれ者の面倒を見る必要があるが、君はどうする?」
未来の話をフロワはした。友人を裏切ろうと牢に繋がれようと日々は続いていく。このまま時が流れればゼストもいつかは刑期が明ける。その時までもう一人の友人の世話を焼くのが彼にとってせめてもの友情だった。
これまでの心配事から解放され、穏やかな心地でフロワは尋ねた。
「私はまだ何も決まっていませんが、もう少し世の中のことを知りたいです」
この数ヶ月の出来事はイネスに成長を促し好奇心を抱かせた。
「ドガも広い。良い人間だけじゃないから、用心だけしておけ」
「はい!」
年頃の少女らしい可憐な笑みをイネスは浮かべた。レディオルともエヴァンともゼストともフロワともシャルロットとも違う、彼女だけの表情だった。
冷め始めたコーヒーにフロワは再び口を付けた。唇は引き結ばれず、あえかな微笑みが浮かんだ。
「秘密を教えてあげる」
春の日差しがシャルロットの白茶の髪を照らした。いつかの日に毒を含ませた言葉をやり直すため彼女は言葉を紡いだ。
「私、あなたが思うより前からあなたのことが好きよ」
隣の牢には誰もいない。レディオルは随分前に拘留を解かれており、ドガは犯罪の少ない町だった。そのせいもあってゼストが引き起こした一連の事件は穏やかな都とは不釣り合いなまでに猟奇的で人々の話題を攫った。
憲兵が出した簡素な事件のあらましだけでは大衆の好奇心を満たすことができず、人々は犯人であるゼストの背景に想像を膨らませては有りもしない肉を付けていく。
数多の行方不明者を出しながら、証拠として残ったのは四つの晶石のみ。状況証拠はあっても物的証拠が無いため罪の追及が行えない狡猾な男。
都はいつも以上に騒がしい。晶石を弄んだとはいえ、晶石はそもそも臓器とみなしていいのかと人体の定義について疑問に思う者。被害者は身寄りも無い破落戸であり、彼らのために声を上げる必要は本当に無いのかと正義を振りかざす者。その全てがシャルロットにはどうでもよかった。
二人にとって何よりも大事なことはお互いがこうして生きていること。体温を分かち合える望外の喜び以上に望むものは無かった。
「そんな素振り、無かったと思うんだけれどな」
「だって癪じゃない。あなたは私のことをなんとも思っていないのに私だけが好きだなんて」
シャルロットは素直な捻くれ者だった。恋しい人とは好き合っていたいし、同じだけの感情を返してほしかった。
「サラにも言わなかったけれど、あの子は分かっていたのよ」
言外にゼストが鈍く、シャルロットに対する興味が薄かったのだと示した。シャルロットとしても己の感情が目に出やすいことは分かっていたので他人の機微に敏いはずのゼストから与えられる平等な親愛の情が悲しかった。
「綺麗な子だとは初めて会った時から思ってたよ」
「ありがとう。母様と父様に似てるのだから当然よ」
絶世の、とまでは言わないがシャルロットの容姿は事実として整っている。そして、ゼストの恋に容色による加点は一切無いことも彼女は知っていた。
「別にいいの。あの事故が起きなければあなたが私を好きになることは無かったし、父様の言う通りに入り婿になっていただけでしょう?」
あなたのことは分かっている、といった調子で話すシャルロットにゼストは牢の中で長く息を吐いた。
(君は本当に……)
きっかけは確かに馬車の事故だったが、それだけを理由に彼女を好いているわけでは無かった。
日々の食事を大切にする姿、物語に没頭してつれなくなる態度、椅子に座ると踵かかとを三度床に触れ合わせる仕草。数えきれないそれら全ての記憶を積み重ね、ゼストはシャルロットへの恋を確信したのだ。それら全てを無かったことにするのは、寛大なシャルロットが許してあげますよといった態度には流石にゼストも物申したかった。
「……うん。話すことができたから君は出来る限りここに通った方がいい」
「あら、言われなくても来てあげる。世情には疎いから、天気の話しかしてあげられないけれど」
「構わないよ」
どうせ話すことになるのはゼストの方だ。
どうかこの人に、自分の心内をあやまつことなく伝えられますように。
一度に全てが伝わらなくとも、砂の粒程しか分かってもらえなくとも、ゼストは彼女に愛を伝えたかった。
「取り敢えず、本は読んでもいいけど程々に。食事が寂しかったらフロワに声をかけてもいいからちゃんと食べるんだよ」
「私のこといくつだと思っているの?」
最愛の人だと思っているからこその心配は残念ながらシャルロットには届かなかった。
「言っておくけどこのドガにあなたほどの凶悪犯はいないの。そのあなたが今ここに捕まっているんですからね」
返す言葉も無かったがいくら安全を保障されようが不安は尽きない。フロワにも言伝を残しているが、健康になった分今までの分まで活動的になってしまいそうだった。
「……出来る限り早く出れるように努めるから。シャーリー、君も大人しくね」
「? まあいいわ。言うことを聞いてあげる」
何もわかっていない恋人の山吹色の目をゼストは見つめた。
恋に気付いたあの瞬間のまま、その輝きは光に似ていた。
箱庭の雫 蒔田直 @MakitaNao
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