第二十五話

 フロワ・ド・ラシエールは自分を凡庸な人間と定義付けている。

 世間では天才、創造神の寵児と持て囃されているが、それらの評価を彼が受け取ることはなかった。


(ただ少し物覚えが良いだけの凡人だ)


 フロワは幼少のみぎりからよく夢を見る人間だった。昼間の微睡み、夜の静穏。一瞬の白昼夢の間にもあらゆる夢が彼の頭を満たしていた。

 自らの記憶以上に夢が脳を占拠しだすと次第に正気が消えていく。彼はひたすらに夢の内容を布の切れ端や木片に書き付けた。その習慣が白日のもとに曝されたのはフロワが九つの時だった。

 偶然家に訪ねてきていた父の友人が書き付けの一つを拾い上げ呟いた。


「この子は天才だ」


 彼は研究機関の末端職員だった。権威ある研究員の実験や論文執筆の手助けを行う職務を担っており、平民よりは学に明るい人間だった。

 旧友と酒を酌み交わす予定だった彼はフロワと父の許可をもらって書き付けを数点持ち出し、自身が勤めている研究機関に走った。

 呆気にとられた親子は客人が手をつけなかったもてなしの料理を食べ、いつもと変わらぬ時間に寝入った。数日後に自分達の生活が一変してしまうとは知らぬままに。

 その後はフロワの人生の中でも思い出したくもない時間が続いた。学者達が代わる代わる王都の片隅のフロワの家を訪れ、書き付けに関して質問をし続けた。

 覚えていることをひたすらに答え続け、一月が経つ頃には父親から引き離されて研究所の寮に部屋を与えられた。見たこともなかった真白の紙にペン先の固い万年筆。インクの匂いは鼻をくすぐり、安物特有の油臭さなど感じられない。

 夢の内容を書き付けていけば賃金が与えられると説明を受けたフロワは、入眠と覚醒を繰り返して記憶を引き出した。無理矢理に体を動かして疲労を貯め泥のように眠り、他国の学者が書いた論文を頭に刻んで脳を酷使してブドウ糖を使いきって意識を落とした。眠るだけなら薬が手っ取り早かったが一瞬で深い眠りに落ちてしまうので夢を見ることができなかった。昼夜も問わずそんな生活を続ける中でフロワは自分のことを理解した。

 己は神から与えられる知識の変換機にすぎない。

 天才達が経験や閃きで新たな技術を世にもたらすのに対し、フロワには何もなかった。簡単な読み書きを教会で教えられた平民のフロワに積み重ねた知などあるはずもなく。電流のように冴え渡る直感もない。


(僕は恐らく神の国の様子を垣間見ることが出来るだけだ)


 学者や研究者に囲まれて成長するにつれて簒奪した知識を組み合わせることも出来るようになったが、幾日も経たぬうちにまた夢を見て作り出したものが既に神の国に存在するものであることを認識して落胆することの繰り返しだった。

 歳を重ねれば重ねるほどフロワは己がただの触媒にすぎないことをますます自覚していった。

 転機が訪れたのはフロワが十二の頃だった。代わりばえの無い日々の中、諦観を抱きながら有為の夢見のために永らえていた無味な人生が変わった。年若い二人組、フロワと年も変わらぬ彼らはグルース村からやって来た移住者だった。

 出会いは生鮮食品を売る市だった。正午前にも関わらず何度目かの目覚めの後、体を疲れさせるための買い物に出掛けていた。人の多い市は障害のない大通りよりも神経を使うため気疲れにも向く気に入りの散歩道だ。慣れにまかせ人込みをかき分けていく中、後方から人がフロワの背にぶつかった。


(女だな)


 背に添えられた手指があまりに繊細で疑う余地は無かった。研究所にいると男の手を見る機会も多いので余計にそのなよやかさが際立ってしまうなとフロワはとりとめもなく考えた。


「シャ……ロット!」


 続けて上がった声はわずかな焦りと女を慮る気配に満ちていた。


(夫婦……いや、声の響きが若い)


 恋人同士と当たりをつけて振り向けば、予想を裏切りフロワと歳も変わらぬ少年が二人立っていた。上背のある鴬色の頭にハンチングを乗せた少年と、山吹色の瞳が爛々と輝く線の細い少年だ。


「すみません。俺たち都に馴れていなくって」


 帽子を片手で軽く持ち上げ挨拶をする少年は朴訥とした雰囲気を漂わせていた。


「構わない。この時間は人が多い」


 片手で会釈しその場を去ってしまえば良かったのにフロワの足は動かなかった。


「君たちは、観光か?」


「ああ。都への移住を決めてね。色々と見て回ってるんだ」


 気安い少年らしい口調に乗せて弦楽器を思わせる声が響いた。

 声をもう一度聞いて確信した。小柄な少年は女だ。事情は定かではないが彼女は異性の格好をして、男の振りをしている。


「……便利ではあるが人の多い場所だ。用心に越したことはない」


「ありがとうございます、親切な方。あなたの道行きにも光がありますように」


 美しい二人組だった。互いを慈しみ、都の空を穏やかな顔で見上げ、翡翠と山吹の瞳に青を浮かべている。光の印象を表現しようとすれば、きっとこんな色合いになる。フレスコにもモザイクにも絵の具でも表せぬ幸福の感情がフロワの心中を去来した。

 灰色の日々の中に落とされた色彩こそが彼らだった。夢と現の境が曖昧だった己の足が久し振りに地に付いた心地がした。

 彼らは紛れもなく恩人でこの世界で最も得難きものだった。

 だからお前達が幸せでないなんてことはあってはいけないんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る