第二十四話

 トワイライト家の離れの客室にシャルロットは寝かされていた。


「レディオル。こんなことは間違っている」


 ゼストたちの家では唇を引き結んでいたエヴァンだったが、シャルロットを横たえてからは堰を切ったように言葉が止まらなかった。


「彼にもきっと事情があったはずだ。ロット……シャルロットさんだってあの様子じゃ、二人が追い詰められていたことは明らかだろう」


 イネスやフロワの手まで借りて連れ出した彼女の具合はひどいものだった。病状を元から知っていたフロワですら手の尽くしようがない様子で、いくつかの荷をエヴァンに預けて追加の薬を取りに行くため勤め先の研究所にイネスと一緒に駆けていってしまった。


「彼との約束の、三日後まで彼女の命は保証できるのか。せめて愛する人と一緒にいさせてやろうとは思わないのか」


「確かにロットの病気は俺たちが思っていた以上に重篤なようだったね」


 レディオルもエヴァンも怪我人は見慣れているが、病人ともなればそうもいかない。ましてや自分たちと歳も変わらぬ少女が病床に伏している光景はひどく馴染みが薄く胸を締め付けた。


「さっき鳥を飛ばしたから、薬は明日の夜明けまで着くと思うよ」


 レディオルが故郷から連れてきた鳥はよく訓練されている。夜であろうと方向を失わず飛び続けることができ、体力もあるため軽い包みであれば馬よりも早く運ぶことができた。

 レディオルの言葉にエヴァンは胸を撫で下ろした。彼であればシャルロットの病状を好転させる薬を用立てられると理解していたからだ。


「この薬さえ飲めばロットはもう大丈夫。安心しなよ」


 真赤の瞳が細められ、柔和な笑みが浮かべられる。普段の苛烈な印象とは異なる、穏やかで心を落ち着けさせる表情だ。

 だが、エヴァン・トワイライトはその微笑みの意味を知っていた。それでも一縷の望みを託すように口を開いた。


「彼はまだ若く、まともな状態じゃなかった。せめてあとひと月、彼女のことが落ち着いてから話を持ち掛けよう」


 被疑者の確保は裏を取れてもすぐに行われることは稀だ。実行犯の縁者や首謀者の有無、周囲に与える影響などを勘案して行われるのが通例である。

 エヴァンもこの言葉がトワイライトに連なるものとしてあるまじきものであるとは分かっている。だが、道理を曲げてでも友人たちに穏やかな最後の時間を送ってほしいと願うことは人間として自然なことだった。


(やはり俺は出来損ないだ)


 兄のように、レディオルのように、正義に殉じることができない。法や規範、理性ではなく感情を優先させてしまうのがエヴァン・トワイライトの生まれ持った性状だった。

 自らへの失望を感じながらエヴァンは己よりも背の低いレディオルの上腕を力無く掴んだ。

 数年来の友人を穏やかに見つめながらレディオルは言葉を紡ぐ。


「でもそれは彼の罪を裁くこととは何ら関係がないよね」


 真白い肌の彼が微笑む姿はエヴァンに大理石の彫像を想起させた。風になびくベールを纏っているようなのに、温かな体温を思わせるのに、その本質は硬い石でしかない。


「この世界の全ての罪を失くすことはできない。ただせめて、このドガの都では犯した罪が平等に裁かれる。そんな理想を叶えてもいいじゃないか」


 レディオルは情を解さないわけではない。肉親への情もあるし、したことのない恋にも憧れており、何よりドガに来てからは掛け替えの無い友人ができてこの上なく幸せだった。それでも彼はその情と自らの正義を天秤にかけることすらしない。


「病に侵された恋人を家に置いて、夜な夜な人を殺して回る狂った男。知れ渡れば助命の嘆願が起きるかもしれない。劇の題材にされれば人々の心を揺り動かすだろうね」


 ゼストが他人を手にかけてしまった瞬間から彼らの物語は悲劇となることが運命づけられた。

 人々はハッピーエンドを欲しながら、自らの胸を程々に刻む悲しい物語を求める。シャルロットとゼストの人生は、そんな彼らにとってひどく興味をそそられるものであることをレディオルは理解していた。


「彼らは今を生きている。ならそのことに敬意を表して裁かなければならない」


 既に報告そのものはエヴァンの上司にも上げられていた。彼本人はともかく周囲の人間に対してレディオルは信頼を置けなかった。エヴァンの望み通り悠長に事を構えて市井に話が出回ってしまうことを彼は危惧していたのだ。人の口をふさぐほど難しいことは無く、レディオルとしては粛々と罪を裁き刑に服してもらうことこそが彼らへの手向けだった。


「言っただろう、薬はじきに届くよ。ゼストとの話し合いがまとまれば、すぐに彼女に飲ませればいい。フロワくんも病名に見当がついたようで、あと四日は猶予があると見立てを立ててくれた」


 レディオルの笑みを前にすると、エヴァンは幼き日に聖堂で見た天使の絵を思い出す。公平で善に忠実な正しい存在と対峙すると、己の矮小さを嫌というほど思い知らされた。

 決断を下せない半端者のエヴァンをすら許すように、レディオルは抱擁を贈った。


「君はきっと素晴らしい友情を得たんだろう。生まれてから培った道徳や規範すら差し置いてでも大切にしたい友人は得難いものだ」


 レディオルの朗と響く声は他者を酩酊とさせる。何より厄介なのはこの綺麗言を彼自身は心から信じているために寒気がするまでの説得力が発生することだった。

 殊更に自らの卑劣を浮き彫りにされた心地のままにエヴァンは己の顔を両の手で覆った。


(私は彼になれない)


 純然たる事実を今一度心臓に突き刺し、エヴァンは膝をついて蹲った。清いものに憧れながら近付くことすら叶わない。いっそのこと彼らがエヴァンを軽蔑してくれれば救いはあったというのに、善人にはその発想すら無いことが彼をいっそうのこと苦しめた。

 諦心の後、エヴァン・トワイライトは肚を決めた。結局彼が最後に選び取る決断は我欲に満ちたものであることを胸に感じながら。










「フロワ。ほんとはあの日、ゼストを見ただろ」


 浅い呼吸の中、シャルロットは確信を持ってフロワに語りかけた。フロワとしては回復に専念してほしかったが、下手に口をつぐませれば今度はもっと体に負担のかかる筆談を提案してくるであろうことは想像に難くなかったのでそのまま喋らせることにした。


「お前が犯人に出会した夜。下弦の月の日だったな」


 記憶力に自信はないシャルロットではあったが、数少ない友人が襲われた日ともなれば流石に頭の片隅に留めておく。


「袖口が濡れていた、なら分かる。でもお前は血で濡れていたと答えた」


 確かに見たもののみをフロワは語る。半月夜の僅かな明かりの中見た光景をそう言いきった。


「色なんてろくろく分からないはずだ。それでも確信を持って発言したのは、ゼストのやったことを見ていたから……っ」


 話の途中で咳き込んだシャルロットの背と寝台の間にクッションが挟まれる。ビロードのカバーに付けられたタッセルが揺れ、艶のあるシルクのシーツに覆われた背もたれが出来上がった。


「ごろつきたちには目撃者も殺すように言ってあったはずだ。お前が見たのは晶石を回収しに来たゼスト本人だろう」


 実際ゼストはシャルロットに計画の詳細を話すことはなかったが、前世からの知識で前もって知っていた。


「何のためにこんなことをしているか、お前には分からなかったはずだ」


 ゼストの願いはシャルロットを生かすことだ。晶石を集めて怪しげな儀式に手を染めるくらいなら山をかき分けてベルセウムの若葉を探し出し、エリクサーを煎じた方が現実的だろう。もっとも一般市民はエリクサーの作り方など分かる訳もなかったが。


「晶石には人の生き死にを記録する程度の機能しかない。利用価値があるなら、学会でも取り沙汰にされている」


 多くの人にとって晶石は縁遠く、利用価値の無い代物だ。過去には魔石に代わるエネルギー源として用いることが出来ないかの研究がなされたが頓挫しており、材料の確保も難しいため研究の主題にあげられることは極めて少ない。


「少しだけ自分とゼストは裏技が使えてな。こちらの見立てではレディオルとエヴァン、お前だって可能さ」


 山吹色の瞳が煌々と灯っていた。今際の際だからこそ惜しみ無く輝く様がどうしてもフロワには受け入られなかった。

 フロワは友人から目を背け、もう一度その言葉を精査した。

 五人は生まれも育ちも異なっている。片親の者もいれば充分に教育を受けていない者もいた。そんな中の共通点を探っていく。

 瞬巡の後、フロワは弾かれたように顔を上げた。

 最初に広場で聞き込みをした際のレディオルの言中にあった“見えざる手”。ゼスト達の家で振舞われたガレット・デ・ロワを前に覚えのない記憶を語りだすエヴァン。


「お前達も、神の国の言葉が分かるのか」


「神って随分、大仰だな」


 笑みを以てシャルロットは答えた。相変わらずこの友人は話が早い。


「フロワ、お前は昔から周囲との違いに悩まされたはずだ」


 フロワはこの国に無い概念を発明することに長けていた。恐ろしく複雑な機構をもった時計、コウモリの皮膜のごとき薄布、あるいは社会規範や倫理そのものまでフロワはドガに齎してきた。

 先駆者、時代の寵児、無二の天才。彼を形容する言葉は多くあれどフロワはその全てを厭うており、それらの言葉で呼びかけられても言葉を返さないことで有名だった。

 フロワにとって発明は自ら生まれるものではなく天からの恵みだった。神が賽を振って偶さかに定めた人間に降り注ぐ恩寵と彼は認識していた。


「何度か僕とゼストに聞かせただろう。それで確信した。前の人生を覚えているかは定かじゃないが、知識は持ってる」


 もっともそれらを十全に生かせるのはフロワが持つ恐ろしいまでの記憶力あってこそだ。普通の人間は図鑑で眺めた機械の内部構造も一度読んだだけの本も概略を残して忘れるものであるというのにフロワには当て嵌まらない。


「笑い話だ。“稀代の発明家”が実際は知識を掠め取って発表するしか能の無い凡人など」


 それでも彼は発表を続けた。それらの知識が人々の暮らしをより良くし、真の才人達の糧となるならばフロワ自身のプライドは些事と言うほか無かった。


「僕らはそうは思わないが、その話はまたの機会に」


 シャルロットの微笑みでフロワは彼女の言葉を待つのをやめた。止めることなど出来ないのなら、好きにさせるしかなかったが彼女は今も重病人だ。


「話を持ちかけられた」


 エリクサーは秘された薬だ。大金を積めば手に入るというわけではなく、製造にも制限がかけられている。もっともシャルロットは材料さえ手にすれば極秘でフロワに調合させる気でいたが。

 科学者として権威を得て国の中枢に近付きつつあるフロワですらレディオルに実物を見せられるまでは眉唾物の迷信だと思っていた。ポーションに関しても彼自身の理屈が通じないために遠ざけていたというのに、万病を癒すとなればその疑いは輪をかけて強くなる。


「レディオルが故郷の知り合いに渡りをつければ数日の内にお前達にエリクサーが届けられると聞かされた」


 この男が何故、という疑問はあったが近くに控えていたエヴァンに確認をとると可能であると保証された。


「もう分かったんだ。お前の病気の原因は」


 結晶化。致命傷を負った際、体そのものが回復してもシステム上は死亡の扱いになっているため、その齟齬をなくすため徐々に生命力が削られていく病だ。養生していても生命力の最大値が減っていけば些細な不調すら命取りになり死へと近づいていく。唯一の治癒例は落馬事故で生死を彷徨った王族にエリクサーが用いられ回復したことだが、文献が古すぎる上に王族が絡んでいるとあっては信憑性に欠けた。

 根本的に発症例が少なく、瀕死の状態から多量のポーションで蘇生を行った場合に引き起こされ、病気の発覚から半年後には罹病の候補に挙がっていたがフロワ自身がエリクサーを信じていないこともあって可能性からは除外された。


「不条理が多すぎるこの世界で、理屈に固執した僕が馬鹿だった」


 友人の病に気を荒げぬように、妄執に囚われぬようにと己を律していたからこそ見落としたことだった。

 宙を仰ぐ友人の甘さを知っているシャルロットは笑みを浮かべ、簡潔に語った。


「ねえ、フロワ。私の男は美しかったでしょう」


 突拍子の無い想像もしていなかった言葉にフロワが目を丸くしている内に満足したシャルロットは力を抜き、背もたれに身を預けて目を閉じた。フロワは呆気にとられながら、近頃は病で弱っていたが彼女が元来こういう人間だったことを思い出した。


「……そうだな」


 鳩尾の辺りで丸まっている上掛けが鎖骨の辺りまで引き上げられた。部屋は充分暖かかったが、シャルロットはまだ予断を許さない状態だ。エリクサーが届けられるまで用心するに越したことは無い。


「お前たちは最初から今に至るまで、片時も美しくなかったことはないよ」


 穏やかな言葉が落とされる。今日まで続く魂を炙られるような焦燥にフロワはもう感覚が麻痺していた。元より愛想は無かったがこの半年はシャルロットの病状が悪化し続けていたこともあって態度まで攻撃的になっていた。

 天から齎される知啓も治療には一切役が立たず、ただ時間だけが過ぎていく無力をフロワは嫌というほど味わった。ゼストやシャルロットも差し出がましく嘴を突っ込んだというのに病を癒やすことができなかったフロワに恨み言のひとつもぶつけてこなかった。二人はどこまでも穏やかで、その内に揃って消えてしまうのではという馬鹿げた想像が過ぎったことは一度や二度ではない。そのためゼストがあの夜、見慣れぬ男を殺して晶石を集めるのを目撃した時フロワの胸は安堵で満たされた。

 ゼストはまだ諦めていない。

 ゼストが行動を起こすのはシャルロットのためだけだ。殺人や晶石がシャルロットの病に何の関わりがあるかは皆目見当もつかなかったが、その行いの全てはシャルロットに繋がる。フロワの友人はそういう男だった。

 だからこそフロワは彼らの信頼を裏切った。レディオルが持ち掛けたエリクサーの取引に一も二も無く飛びついた。他ならぬゼストがシャルロットの命を諦めていないのなら、フロワも彼女の生存を第一に優先すべきだと考えたためだ。

 最後に暖炉の薪を確認し、エヴァンによって運び入れられた簡易の寝台にフロワは身を横たえた。ゼストがシャルロットの許を離れている今、彼女の不調に一番に気付けるのはフロワを置いて他にいなかった。


「……お前たちは世話が焼ける」


 彼らの行いは不合理に満ちていて、フロワには理解できない。それでも彼らは懸命に生きていて、フロワはその生をどうしても助けてやりたかった。

 奇跡を手繰り寄せるべく、フロワは祈った。

 どうか、身勝手に他人を食い物にした己の友人の片羽をそのままに。

 あまりにもひどい願いにフロワは顔を歪め、紫水晶の瞳を滲ませた。それでも今の彼にはその祈りに縋ることしか道は残されていなかった。

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