第二十三話
礼拝日のある日、店の扉は遠慮がちに叩かれた。
「……俺が出るよ」
小さくシャルロットに囁き、ゼストは静かに店へと続く階段に向かった。礼拝日は普段より町が静かで下手に騒ぐと音の反響で店の構造に気づかれる可能性があったからだ。
寝台に横たわりながらシャルロットも息を潜めた。
地下室に繋がる扉を注意深く閉め、ゼストは両開きの扉の錠を解いた。そのまま扉を開ければ今では馴染みになった二人の顔が見えた。
「こんな日に申し訳ないね。用事を思い出してしまったんだ」
話を切り出したのはレディオルだった。
「忘れ物でも? 食事会の時に落としていったかい?」
あるはずもない忘れ物を話題に乗せる。住処の物品にはいつでも気を使っていた。カーテンの結び目ひとつでも違和感があればゼストは見逃さない。
当たり障りのない会話を繋ぎつつゼストはレディオルの真意を探った。
「いや、少し長い話になる。ロットはいるかい? 同席してほしい」
「本店の方にいるよ。丁度ロットの父親が村から来てるんだ。夕方までに戻ってくるかな」
柔和な表情を崩すこと無くゼストはそのままレディオル達を招き入れた。本心としては何人もシャルロットが寝付いているこの家に踏み入れさせたくはなかったが、ある程度交遊を経た相手を玄関先で追い返すのはゼストの振る舞いとしてはあまりに不自然だったからだ。
「お邪魔するよ」
「……失礼します」
「……」
レディオルに無理に連れてこられたのかエヴァンの表情は固かった。先日の歓談のような親しみは無くぎこちなく足を踏み入れる様子を気遣わしげにゼストは見た。
「体調が悪いんですか? 薬草茶がまだあるので淹れますよ」
戸棚を探り、茶の用意をしていく。暖炉に吊るされた黒鍋には湯が満たされていた。
「気遣いいただきありがとう。俺も手土産にクッキーを持ってきたんだ」
「ありがとう。ロットが喜ぶよ」
渡された包みはまだ温かく、生姜の香りがした。ジンジャーブレッドだ。
食事会の時と同じように椅子を勧めたが、着席したのはレディオルだけだった。エヴァンはその背後に控えた。
木椅子に深く腰掛け、普段と変わらぬ調子でレディオルは切り出した。
「それで、まずひとつ質問をしたいんだ」
「なんだい?」
翡翠の瞳は凪いでいる。少量の親愛を滲ませ、善良で純朴な青年らしい笑みを浮かべる。レディオルもその笑みに応えるように微笑み、問うた。
「ロットって、誰?」
「……」
笑みは崩れない。狼狽するよりも質問の意図をゼストは計りかねていた。
「疲れてるのか? あんなに捜査を共にして食事だって一緒にした。君は情に篤いと思っていたのは俺の思い違いか?」
「いや、そもそもグルース村にロットなんて名前の人間は存在しない」
レディオルの背後に沈痛な面持ちで控えていたエヴァンが石板を差し出した。
「……戸籍管理用のスクロールです。過去三十年分の記録を浚いましたがそこにロットさんの名前はありませんでした」
戸籍は村ごとに設置されている教会からの報告を受け、中央教会の管理するスクロールに纏められる。持ち出しが容易く許されるものではないがトワイライトの名があれば可能だろう。
「ロットはあだ名だよ。本名はロブ。あそこの一家は祖父も叔父もロブだから、都会めいた名前に憧れてるんだってさ」
「いいや、ロブは村にいる。恋人のサラと穏やかに過ごしていたよ」
「…………」
揚げ足を取るように続けられた言葉にもゼストは顔色を変えなかった。
(こんなものは事実の確認だ)
彼らは既にゼストを怪しみ、確信を持ってこの家を訪ねたのだ。
「それが事実として君達は何を聞きに来たんだ?」
自らが淹れたハーブティーに口をつけ、改めて客人に問いかけた。
「偽名を使った同居人がいるとして、それだけじゃないか。国法においても偽名の使用は禁じられていないはずだよ」
貴族ならともかく庶民の中には教会に名前を届け出たあとに通名を変えることは珍しいことではない。愛称も物によっては元の名前の原型すら残していないことがありこれらを都度裁くようなことは現実的ではない。
「狼狽えるとは思ってなかったけど、もうちょっと顔に出してもいいんじゃない?」
「処世術だよ。顔色がころころ変わる店主がいても売り上げは上がらないから」
シャルロットの家の婿になるのなら必要なことだった。義父は温和で心優しい人だが商談の場で相手に付け入られる隙を持つような甘さは無かった。
背後に控えながら信じがたいという表情のエヴァンに心底人を責めるに向かない人だなと思いながらゼストは微笑んだ。
「あの日捕まえたろくでなしは殺人を認めたよ。報酬を握らされて、一人殺せばそれでおしまい。不可解だが実入りのいい仕事だと彼らは思っていた」
「首謀者がいたのか」
自分でも白々しさを感じながらゼストはレディオルの話に相槌を打った。その様子を気にも留めずゼストの言葉は続く。
「殺人事件はこれで終わりだ。エヴァンの上司も迷宮入りと思っていた事件が一段落して胸を撫で下ろしていたよ」
「何よりだ」
目の前にゼストなどいないように話は続いていく。場所こそはゼストの家ではあったが、ある種レディオルの独壇場だった。
「晶石は一つも見つかっちゃいない」
独唱は続く。
「あれだけ人が死んだのに、現場には一つたりとて残されていない。晶石は一体どこに消えたんだ?」
人が死ねば晶石が残る。子供の頃から親や神父に教わり、出所不明の物が見つかれば教会に届けることが義務付けられている。死を想起させ、神聖なものとして扱われる晶石に好き好んで手を出す人間は存在しない。
「俺の国では神の石とも言われている、神秘の石」
レディオルの故国においても晶石は尊重されていた。他の大陸では死生観そのものが異なるため扱いが違うこともあったが、紛れもなくこの石は死そのものだった。
「俺とエヴァンには共通点があった。生まれも育ちも違うのに不可思議な一点において俺たちは極めて似ていた」
長話にゼストも飽き始めていた。何よりレディオルの声は不思議な響きがあり、声を張っているわけでもないのに四方からはね返ってゼストの肌を撫でるような気色の悪さがあった。
人によっては陶然とした心地に陥るだろうが彼にとっては煩わしさしかない。
「晶石という概念への違和感」
続けられた言葉にやっとゼストは本当の意味でレディオルに意識を向けた。
「人が死んだら死体が残るべきだ。だというのにこの世界にそんな道理は存在しない」
ゼストが長年感じてきた違和感を目の前の男たちもまた持っていたことは多少の興味を引いたが、この話はどこに着地するのか。常であればもっと明瞭な言葉を選ぶはずの目の前の男を訝しく思っていると、脳内で点と点が線で繋がった。
弾かれた様に立ち上がり、椅子どころかテーブルを蹴倒す勢いでレジ台の扉に駆け寄り、転がるように階段を降った。
山吹色の扉を開けても地下室にシャルロットの姿はなかった。南の窓が開け放たれ、風が吹き込んでいる。頑丈な縄が梁に通され、外へと繋がっている。ゼストが窓に駆け寄れば、梯子と滑車が吊り下がっていた。地面にはいつかの採集で使われたテントの帆布が広げられている。その状況でゼストはこの部屋で何が行われたのかを察した。
「フロワ……!」
通りから梯子を立て掛け、窓を破り、身動きもままならないシャルロットを搬出した。人ひとり抱えて梯子を下ることは不可能でも滑車を設置し、帆布を担架のごとく用いれば難しくはない。ゼストとエヴァンが上階で時間を稼いでいる間にイネスと二人がかりでシャルロットを連れ出す手筈だったのだ。
ゼストの胸に憤りは無かった。ただ友人の裏切りに困惑を隠せなかった。
背後の階段から足音が近付いてくる。
「フロワ君を責めないでやってほしい。彼とは取引をしたんだ」
鷹揚に広げた両手に窓から光が指した。影はレディオルの背後に落ち、翼を形づくった。
「……お前か」
抑揚のない声が結論を下す。善良なお人好しの振りはもうお終いだ。
友人を唆し、憲兵を丸め込み、道理も知らぬ少女を篭絡してゼストの最愛を連れ去った赤蛇を翡翠の瞳が睨めつけた。
「やっと本音の君と話せること、俺は嬉しく思うよ。でも、今日は仕切り直しだ」
言葉が終わるや否やレディオルは踵を返して階段をかけ上がり、隠し扉を閉めきった。乱暴な音が続けて立てられたのをゼストは眉間に皺を寄せて聞いていた。
「…………」
棚か机か寝台か。いずれかのもので扉を塞いだことが察せられた。窓から降りようがその間にレディオルとエヴァンは逃げおせ、追跡は不可能だ。
息をひとつ吐いて再び窓から下を覗きこみ、肺に空気を取り込んだ。
「すみませーん! ちょっと下りまーす!」
平素と異なる空気を感じ取っているのか、通りには人だかりができていた。純朴な青年の皮を被り直して声をかけ、一息に階下に下った。
「ゼスト、何かあったの?」
燻製屋の女将さんが声をかけてきた。元は商家の出らしく、平民街に似合わぬ穏やかさがあった。食卓に出す肉類はこの店で時折買っていたので、彼女とは多少の交友があった。
「友人に手伝ってもらって模様替えをしてたんですが、中扉を棚が塞いでしまいまして」
「あら。あそこ、空き部屋じゃなかったのねえ」
「実はそうなんです」
「大丈夫? 主人を手伝いに向かわせましょうか?」
「いえ、もうしばらくしたら友人達が戻ってくるので。お騒がせしてすみません」
軽い会釈を合図に人だかりは次第に消えていく。柔和な顔つきを保ったままゼストは店へと続く坂を上る。毎日行き来していたこの坂が今日はいつになく険しく思えた。
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