第二十二話

 エヴァン・トワイライトは夢を見る。空を飛ぶだとか、魔王を打ち倒すといった幻想的なものではない。

 不規則に小さなひびの入った白い天井を眺めるだけの蒙昧たる夢だ。

 体の自由は効かず、首を傾けて窓の外を確認しようとすることもできない。時折訪れる白衣の人物が体勢を変えるまで待つしかなかった。

 食事は皿の上に戯画化されたような、初等学校の者が紙粘土で作ったような形をしており、匙が抵抗無く入っていく。

 舌で潰してしまえる程に柔らかい食事を含んでいくのはままごとのようだったが、日によってはそれすらできないらしく多くの管に繋がれることもあった。いっそのこと全て管で済ましてしまった方が楽なのではと一度提案したこともあったが、脳の活性や免疫などの経口の食事に関する意義を説かれてしまった。


「日が開いてしまってごめんね」


 たまに訪れる母親と思しき女性は、歳の割に美しかった。日が開いたといっても十日も経っておらず、夢の記憶は途切れ途切れで連続していないが、母親が見舞いに来るとこの体の持ち主は施設の職員に頼んで暦に印をつけていた。


「コウくん、もう中学生になるからその準備でマサハルさんと色んなところに顔を出さなくちゃいけなかったの」


 コウは義弟、マサハルは義父の名前である。

 エヴァンが推測する限り病人の実父にあたる男はすでに亡くなっており、片親で病身の子供を育てることに不安を覚えた母親が同じく息子を持つ男性と再婚をしたらしかった。

 病人には気力がなかった。眠ることも食べることも日々を過ごすことも境界が曖昧で、夢か現かを判断することすら億劫だった。


「冬が終わったから、きっと楽になるからね。私も春は大好き!」


 一年中気温が保たれている病院で体調が気候に左右されることはない。季節の巡りで母親の冬季鬱が緩和されただけだった。

 入院患者には話題が少ない。定額契約の映像作品も気分が高揚すれば発作が出るので病人は遠ざけていた。

 母親は前回の見舞いから起きた出来事を一通り喋り、面会時間終了の間際まで病人の手を握っていた。

 一人残された病室で病人とエヴァンの心は一致した。

 死んでいるのと何も変わらない。

 人は社会と関わることで初めて生きていると言える。それがエヴァンの信条だった。

 いくら生きることを望まれていようとこれでは腐り落ちる寸前の樹と変わらない。

 学校にも通えず、病院内で患者同士の交友を深めることもない。何も無かったことを示すにはゼロひとつで事足りるのだ。

 証が欲しい。

 生きていたことを確かに示す標榜を、生きていたのだと刻み込めるような楔を欲した。

 次の日から病人は行動を起こした。職員や医師、見舞いに訪れる母親の話を注意深く聞くようになった。目を付けたのはあるゲーム会社と大学教授の社会実験だった。


「これなら……」


 目的が定まれば後は筋道を立てて行動していけばいい。母親の許可を取り、書類への代筆を頼んだ。応募を行い目的の日まである程度の健康を保ち、死なない。単純なことだったが病人にとっては難題だった。

 彼は何度も死にかけた。一念発起して、最低限に済ませていた機能回復を試みれば肺炎を起こしたことも、弛緩して床に落ちかけた体を理学療法士に受け止められたことも、心拍が止まることもあった。人の目が届き、迅速に適切な処置が受けられる院内でなければとっくにその命は絶えていた。

 それでも病人は生き続けた。人生を世界に刻むために彼は行える最善を尽くした。

 周りの人間が病人の申し入れを受け入れた理由は知っていた。彼はもう永くはなかった。せめて最後に、憂いなく生を全うできるようにとの取り計らいだったのだろう。


 






 七日に一度の礼拝日。ドガ中の店が閉めきられ、教会に続く道のみにまばらな人の行き来が見られる。信仰心など欠片もないシャルロットたちは日が高くなってからようよう起き出し、遅い朝食の用意をしていた。


「常々思っていたけれど、あなたもサラも人でなしの私が好きなわけじゃなく、大好きな私が人でなしなだけなのよ」


 普段の食事の支度をゼストに任せっきりのシャルロットだが、今日は珍しく役目を買って出ていた。炉に向き合うシャルロットを、茶を任されたゼストが隣から心配そうな面持ちで見つめている。


「そのままの君でいい。なんて甘言を吐くけれど、そこいらの他人が同じ精神性をしていても見向きもしないでしょう」


 その心配をよそにシャルロットの動きに淀みはない。今世では箱入り娘を満喫しているが、生まれる前は独り暮らしをしていたのだ。少々勝手が違うとはいえ、調理そのものに不安はなかった。


「それは……誰だってそうだろう?」


 少量のお湯で濃く抽出した紅茶に温めた牛乳がゼストの手によって注がれる。半円形の炉は並んで作業をすることも容易だ。シュガーポットは既にテーブルの上に出されている。


「でもいくら好きな人間だとしても、ある一線を越えてしまえば許容できない……これも分かるわね?」


「もちろん」


 炉で炙っていたパンに食欲をそそる焼き目が付いたのを確認し、シャルロットは網を上げた。中にはチーズとハムが挟まれており、食欲をそそるにおいが辺りに漂った。


「だったらあなた、いつ私を嫌うのよ」


 シャルロットは己の振舞いがひどいものである自覚があった。愛しているくせに恋しい男を傷付けて、数日おきに死にかけては息を吹き返す厄介な女だった。たちまちに儚くなってしまえば、自らの命を絶てば過去の瑕として美しい思い出に成れる。にも関わらず生にしがみつき続けるしぶとさを持っている。


(かと思えば、先々の人生に関して諦めている)


 ホットサンドをテーブルに置けば、タイミングを見計らったかのようにカップがシャルロットの目の前に差し出された。

 華奢な指先で摘まんだティースプーンを時計回りに一度二度。かき回して顔を上げれば、口許にゆるく握ったこぶしを添えた笑みとも困惑ともつかぬ表情をしたゼストがいた。


「なあに、その顔」


「嫌われたくないと、思っていてくれたんだ」


 言葉と共にゼストも円卓についた。頬杖をついたまま笑み蕩けた顔は緩みきっており、心の底から喜びを表していた。


「俺の台詞なんだけどな。夜な夜な町の人間をそそのかして晶石集めをしてるんだよ? 愛想尽かされてまともな男のところに行かれてしまうって考えたのは一度や二度じゃない」


「そんな殊勝な考え、とっくに無くしたかと思ってたのに」


「恋はまともにしたいよ、俺。他がまともじゃなくなったけどさ」


 こうして二人で話している部屋の隣には昨日と変わらず晶石が転がっている。腐臭こそしないが死体であることには変わりがない。


「あなたが人を選んで最悪なことをしてるところ、結構好きなのよ私」


 ゼストの犯行は縁も所縁もないドガで、周囲の人間からも疎まれているようなろくでなしを選んで行われている。人間がやむを得ず人を殺す場合、最初に手をかけるべきは己である。


「自分を正当化したいわけじゃないから、いなくなっても誰も探さないような人間を選んでいるだけだ」


 人の多い都で、親類縁者すら気にも留めない人間たち。景色と一体化した書き割り。


「彼らは数として認識される。ろくでなしから犠牲者に包装紙が変わって、数日間の噂の種になってそれでお終い」


 心地よい低音を背に、シャルロットは炉に向き直った。今日は珍しく自分が腕を振るっているのだ。不出来な物にはしたくなかった。

 付け合わせに昨日の蒸し野菜をスキレットで焦げ目がつくまで焼き上げた。つまみ食いを兼ねて口に入れれば青さとやわらかい甘みが広がっていく。


「うん。美味しい」


「話、聞いてるかい?」


 咎めるような口調とは裏腹に声音は甘やかさをはらんでいる。二人にとってこの話題は散々話し尽くしたもので確認作業としか言えなかった。


「まあいいじゃない。そろそろあなたも席について? ご飯を食べましょう」


 シャルロットの笑顔に誤魔化されることをゼストは選んだ。ありふれた穏やかな日々を積み重ね、終わりにまた一歩彼らは近付いた。


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