第十九話

 山歩きから四日程経ったこの日、シャルロットは寝台から出ることすら出来なかった。山歩きの際に復調していたのが嘘のように三日前から臥せったままだった。初秋らしい穏やかな天気にも関わらず、体の内から凍えるようだった。一時間ごとにゼストが湯枕を交換しているが、紙のような顔色は変わらない。


「シャルロット、食べられそうか?」


 口許に匙を近付けてくるゼストに答える気力もなく、僅かに口を開けて返事としていた。口腔内を傷つけぬよう、無垢材の木匙が差し込まれる。スパイスの馴染んだ風味と季節外れの清さやかな香りがシャルロットの鼻に抜けていく。


「北から林檎が来てたんだ。赤々としていて、綺麗だった」


 運ばれているうちに柔らかくなった林檎を煮て、味を整えたのだろう。スパイスのせいか冷えた指先に次第に血が通っていく。


「私、林檎は青い方が好き」


「香りがいいからね。きっと北で採れた時にはまだその色だったはずだ」


 完熟した果実をそのまま持ってくるにはこの世界の物流はまだ未熟だ。青いまま捥がれ、運ばれてくるのが一般的だった。


「スープも飲んでくれないか。栄養を摂ってくれ」


 穏やかさのなかに切実さをひとかけ溶かしてゼストは哀願した。病の他にも人の命を奪うものは沢山ある。脆くなった体が萎え、頽くずおれてしまった時に打ち所が悪ければ。磨耗した精神が生存の望みを断ち切り死に出の旅への誘いをかけてしまえば。あるいは今日のような日が続き、水分も食物も受け付けず衰弱してしまうことについても勘案に入れなければならなかった。

 鍋からスープを深い椀によそい、寝台の脇のチェストに置いた後病身の少女に覆い被さるように身を屈めた。骨の浮いた背中とシーツの間に血管の浮いた左の手の平を滑り込んでいく。くすぐったがりの少女が声ひとつあげない様が何よりも彼女の状態を物語っていて、男は故郷の春の日を思わずにはいられなかった。

 ゼストはシャルロットの背中に片手を添えたまま半身を翻して寝台の上に腰かけ、今度は右の手を膝の裏に通してシャルロットがヘッドボードにもたれることが出来るよう位置を調整した。


「今日は上手くいって、卵のベールが出来たんだ」


 言葉と共にチェストに置かれていた椀の中身がシャルロットに見せられた。言葉の通り椀の中では卵が底に沈むことなく揺れていた。


「そのまま落としただけでもよかったのに」


 思わず、といった調子の言葉は喜びを含んでいた。音の響きは全く異なるにも関わらずシャルロットの声はゼストに鐘の音を思わせる。故郷の教会の鐘つき堂にから鳴り響く、日暮れを告げる音。


「こっちの方が食べやすいだろ」


「そうね」


 目を閉じて幾度か呼吸を整え、傍らに控えたゼストに目で合図を行えば木匙がシャルロットの口許まで運ばれた。もう一度深い呼吸を行い、わずかに口を明けてやれば鶏の旨味が広がった。


「もう少し肉や野菜を入れたり君の好きなロキアも入れたかったんだけど、調子が戻るまでお預けかな」


 ロキアは唐辛子に似た植物で、シャルロットはよくスープに刻んで入れていた。辛さの奥に独特の風味があるため料理に入れると深みが増すのだ。同時に気管を狭める性質も持っているので、今のシャルロットが摂るには不適格だった。


「……、……」


 いつものように片側の口端だけ上げてゼストをからかう言葉を続けててやりたかったのに、それすら今のシャルロットには難しかった。


「もう寝ようか」


 地下室のカーテンは閉め切られており、今が何時なのかすらシャルロットには分からない。暫く寝付いているというのに、体はまだ休息を求めている。薪を足そうと地上へ続く階段を上るゼストの背を見つめることしかできない自分をシャルロットは受け入れるしかなかった。










「そっちに行った。エヴァン頼んだ!」


 先回りをしていたエヴァンがレディオルの声を合図に路地の影から飛び出し、男の行く手を阻む。


「ーー!」


 逃げ慣れているのか即座に方向を変え別の角へと消えていく。そのまま抜けた先は貧民窟に繋がる。潜伏に容易く排他的で公権力にも非協力的な人々の集まりだ。

 逃走の成功を確信しているのか乱れた息を吐き出す口端は歪んでいた。

 細い道の先、建物の切れ目、光指す先にあと数歩のところで男の体は宙を浮いた。


「下方注意だ。愚物が」


 屑籠の裏に身を潜めたフロワがタイミングを合わせて男の足を払った。一瞬の浮遊感の後、凹凸のある石畳に頬を擦り付けた男は声にならぬ悲鳴をあげた。すぐさま身を起こそうとするが上方から降ってきた脚で今度は額と鼻の骨を強かに打ち付けた。


「イネス、紐」


「はい」


 フロワにあらかじめ持たされていた鞄の中から紐が取り出された。悶えることしかできない男の腕が背中に回され、縛られる。


「拘束は左右の大指さえ結んでしまえば事足りるがな。確実性を重視した」


「ご自慢は結構。ゼスト、縄寄越せ!」


「はいはい」


 貧民窟の方向からゼストとシャルロットが現れる。先日の不調が信じられぬほど回復したため、捕縛に加わっていた。

 区画を抜けた瞬間男を引っ捕らえる保険として待ち構えていたが、本命のフロワとイネスのポイントで男は確保された。


(薫製の仕込みでも思い出すかと思ったが、ガラだな)


 シャルロットが念入りに男を縛り直していると、レディオルとエヴァンが四人に追い付く。一通り縛り終えたシャルロットと交代したエヴァンが男の拘束状態を確認していく。


「上手く行ったかい?」


「怖いくらいだよ。……エヴァンさんはここまで分かってたんですか?」


 作戦を立案したエヴァンにゼストは薄ら寒いものを感じていた。男が逃げ込んだのは東部以上に道が入り組み、追っ手を撒くのが易しい場所のはずだった。エヴァンはその事を逆手に取って男の油断を誘い、レディオルとの連携でフロワとイネスが待ち伏せる道へと誘導していた。


「町には詳しいので。みなさんも指示通りに動いてくださって助かりました」


 ゼストの疑問に答えながらも自害防止のために猿ぐつわ代わりの布を噛ませる手は止まらない。たちまちに男の顎は固定された。


「悪漢って揃いも揃ってこの区画を使って逃げようとするからさ、俺たちも慣れてるんだ。むしろ真っ向勝負で大通り突っ走って人混みに紛れられる方が難儀してたよ」


 男の格好は平民らしい生成のシャツに焦げ茶色のズボンだ。似たような服装の人物は都にごまんと溢れており、特徴にはなり得ない。


「後ろめたいことがあるから暗がりに潜みたがるんだろう」


 男の近くにしゃがみこみ、退屈そうに観察を続けるフロワにシャルロットは呆れを込めた溜め息をついた。


「仮にも命を狙われてたんだから、少しは怯えろよ」


「たった今脅威が取り除かれたんだ。祝杯くらいあげさせろ」


「お前たちはどうしてそんなに肝が太いんだ……」


 男を不躾に観察しながら普段通りの応酬を重ねる二人にゼストは頭を抱えた。シャルロットに至っては今朝まで寝込んでいたのにこの調子である。


「あとは詰所に連行すればいいのでしょうか」


「そうそう。その後に聴取を行って裏が取れれば解決って感じかな。それもしばらくかかるけど」


「何にせよ実行犯が捕まったならこの騒ぎも収まるだろう」


 転がされた男を未だに眺め続けるシャルロットとは対照的に興味を無くしたのかフロワは帰りたげに遠くを見つめている。


「複数犯の可能性もあるから今しばらく気を付けて欲しいけどね。取り敢えず半年は夜中の外出を控えて様子を見てくれ……よっと」


 気の抜けた掛け声とともに男はレディオルの支えで無理矢理立たせられた。立ち姿はぐにゃりと曲がっており、反抗する気力は残っていないようだが、さりとて協力的に振る舞う気も無い様子だ。


「……君、自分で歩いた方がいいよ。彼には君が這いつくばろうが都中を引き回して歩いていけるだけの力があるから」


 ゼストの哀れみを含んだ忠告に渋々といった様子で男は姿勢を正す。


「うんうん。素直なのはいいことだよ。俺も道路で削ぎ落ちた君の掃除をしなくて済む」


 満足げなレディオルの様子に頭の痛みを感じるエヴァンだったが、口に出すことはなかった。ただイネスが彼の常備薬の痛み止めを差し出してきたのはありがたく受け取った。

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