第十七話
宴もたけなわ。食事が始まってから何度目とも知れぬ乾杯が行われていた。
「だんけしぇーん!」
間の抜けた掛け声と共にレディオルの木杯が頭上に掲げられる。中身のエール酒はシャルロット達が用意したものの中でも度数が低いはずだが、レディオルは過剰なまでに酔っぱらっていた。この分では酔わせるまでもない。
「よっわ……」
「肝機能の個人差で優位に立とうとするな。浅はかさが透けるぞ」
「あ゛? 異物の分解速度に優れてるのは生存に有利だろうが」
「頼むからもう少し穏やかに会話ができないのか……」
フロワとシャルロットの喧嘩腰の会話にゼストが頭を抱える。年々二人の間の遠慮が取り払われていくせいで改善の兆候はいまだ見えない。
(大分乱暴だけど、私の前世の言葉遣いってこうだったのよね)
性差のない、ややもすれば男勝りな口調を好んで使っていたようで、ロットの姿でいるときは不思議とこの話し方になってしまうのだ。グルース村のシャルロットお嬢様とは似ても似つかぬ喋り口なので正体が露見しにくく、彼女自身は重宝していたがゼストからすればどうにも違和感が拭えない代物だった。
「まあまあ。ここは俺の顔に免じて楽しく飲もうよ! エヴァン、この鶏美味しいね!」
「料理には詳しくないが、恐らくそれは牛だ」
「あれー?」
「お酒ってすごいんですね……」
翌日も警邏の仕事があるエヴァンと飲酒の経験がないイネスは果実水を口にしていた。酒類との区別のため用いられているガラスの杯は二人の手に馴染み、花を添えていた。
「人によるだろう。そこのウグイス頭に関してはいくら飲んでも酔わんぞ」
「父も母も酒に強いわけではないんだけどね」
先程からあおっている酒も南部で作られた蒸留酒である。樽の中で年月をかけて醸された酒は煙のような木の芳醇な香りを持っており、ゼストを楽しませた。
「ほら、俺のことはいいからどんどん食べなよ」
「満遍なくとか考えずにな。どうせ明日には僕らの豪勢な朝食になる予定だから」
「腹立たしいからお前の好物から消費させていただこう」
半眼を保ったまま伸ばされたフォークにはハーブチキンが突き刺されていた。オーブンで焼き上げた後、深い鉄鍋で油を回しかけて皮目をキツネ色にした逸品である。
「夜道には気を付けろよ……」
「実際物騒ですからね……」
机に肘をついて指を組むシャルロットの杯に果実水が半分まで注がれる。シャルロット自身がワインを足した後、お返しとばかりにイネスのグラスに角切りされた果物が散らされた。
「わあ……」
桃の果実水に黄赤、朱、黄緑の果実が浮かべられ彩りになっている。シャルロットが戸棚から取り出した長柄のスプーンを受け取ったイネスは楽しげに果物をつついている。
「ロット、俺にも……」
「勝手にやれ」
サングリアをあおったまま果物が盛られた皿をゼストに押し付けた。あんまり甲斐甲斐しいとロットの振舞いとしては不適格だったためだ。もっともシャルロットの普段の振舞いも甲斐甲斐しいとはとても言えなかったが。
「ロットぉ! 俺もお酒飲みたい!」
「現在進行形で飲んでるだろ……」
なみなみと酒を揺らしながら杯を差し出すレディオルにシャルロットは深い溜息を吐いた。
「ほら、デザートの時間だ。辛い酒と渋いお茶で焼き菓子を流し込め」
「満腹ならこっちのムースやババロアをどうぞ」
レディオルが酔いで完全に陥落したのを確認した二人はオーブンや暖炉に仕込んでいた焼き菓子と飲み口の広いグラスに入った生菓子を次々と机に並べていった。保冷用の器具が無いにも関わらず、流水で冷やしただけでゼラチンがしっかり固まっているのは改めてこの世界が物理法則の預かり知らぬ場所であることをシャルロットに実感させた。
「その赤頭除けないか。長椅子に寝られると邪魔だ」
人数分が座れるだけ椅子を整えていたが、レディオルが二人分のスペースを占拠しているせいでフロワは木製の手摺に腰を掛けて杯を傾けている。
「あの……」
「座っていろ。ふらふらされて果汁をぶちまけられたらかなわん」
対外的に唯一の女性ということになっているイネスはひとりがけの布張りのソファに座らされていた。
「席替えよりレディオルを転がし直した方が楽です。ゼストさん、申し訳ありませんが足の方を」
「心得ました。青い枕の寝台にお願いします。……いっせーので」
「いち、に。いち、に」
足首と脇の下をそれぞれの手が固定し、間の抜けた掛け声と共にレディオルが運ばれていく。
「……猿が」
「運び方が? それとも腕力が?」
「両方だな。最もこんな狭小な空間ではあれ以外の方法もとれんか」
「僕はお前相手なら腕相撲に勝てる自信があるぞ」
人の家に文句をつけるフロワにシャルロットが公平な解決方法を申し出た。性差はあったがやってやれないことは無かった。
「素敵なお部屋ですよ。何気ない小物ひとつひとつが愛らしくて、色とりどりで個性的なのに喧嘩もしていなくって」
「トワイライト家で鍛えられてる君に褒められるのは光栄だな」
一番の気に入りのものは隠し部屋に収められているが、店側のインテリアについても二人は気を抜いていなかった。
「色相に気を配っていれば、そこまで酷いものにはならん」
「しき……?」
「説明が難しいな……」
部屋の調度にこだわるのは貴族くらいなもので、彼らにしても定められた様式に則って屋敷を整えているにすぎない。化粧や服飾に関する流行り廃りは激しいが、調度品に関する文化は未発達と言えた。
「雰囲気が似通っているものを並べた方が据わりがいいということだ。このチビと鴬頭に赤だるまの上着を着せても服に着られる」
「逆も然りだけどな」
肌が青白く鮮烈な赤髪のレディオルとドガの人間らしい象牙色の肌やアースカラーの髪を持つシャルロット達では似合う色が違う。
「血色が悪く見えたり黄疸でも出てるんじゃないかって程肌がくすんで見える」
「好きな服を着るのが一番だけどね」
流行に疎いゼストが蒸留酒を煽りながら話を締める。普段の服装もシャルロットの見立てに従っているので彼が本当の意味で”好きな服”を着ているかは疑問だったがシャルロットは黙した。
「今はとにかくデザートだ。腹に余裕はあるな?」
シャルロットからの問いかけに酔いつぶれたレディオルを除いた四人が頷く。食べきれる量を心掛けて用意したので、満腹で体調を崩した者もいない。レディオルが早い段階で寝入ってしまったが食事自体はしっかり摂っていたので影響も無いようだった。
「まあできれば生菓子から食ってくれ」
「うち、冷温箱が無いんだ」
この世界では動力が必要な物には電気ではなく魔石が使用されている。冷温箱は数ある魔石道具の内のひとつだ。
「食事にこだわっていますから、あるのかと思っていました」
「そうしたいのはやまやまだけど。あれ、一年おきに技師の点検があるそうじゃないか。少し煩わしくてね」
最先端の技術を用いて作られた魔石道具は購入制限こそ設けられていないが、定期的な点検が義務付けられている。
便利なものではあるが、ドガは気候が安定しており食材の保存に気を使わなくていいことと市場での買い物を頻繁に行って食料をまめに買い足す二人の生活習慣ではあまり必要としないものだった。
「僕も勧められたが、部屋に人を寄せたくないので断ったな。食堂にはあるらしいが」
フロワが暮らす建物は未婚男性を対象としているため、併設された食堂で朝夕に食事を摂ることもできる。こだわりが無いことも相俟って、彼はよく世話になっていた。
「もう少し便利になれば……なんて思ってるうちに別の物が発明されそうだけどね」
「技術の常だな」
そう言うフロワこそが発明を行い人々の生活様式を根本から変える側であるので始末に負えなかった。哲学について思索していたのに、数分微睡んだ後には複雑怪奇な絡繰りに発想が飛んで新しい道具を作りだす。脈絡なく彼の頭から齎されるものは人々の暮らしをより良くした。
「ほら、切り分けるから取っていって。火傷には気を付けて、どうか召し上がれ」
オーブンから取り出されたガレット・デ・ロワが机の中央に置かれた。細身のナイフが入ると、断面から白い湯気がふわりと立ち上り消えた。
本来は粗熱を取ってから出すものだが、焼き立てにも違った魅力がある。二人暮らしでは焼き菓子ならともかくホールでケーキを焼く機会も無いので二人としてもこの機を逃す手は無かった。
「懐かしいですね。味は思い出せませんが、この匂いは記憶に残っています」
香りで記憶が呼び覚まされたのか、エヴァンがぼつりと呟いた。
「へえ。誰かが作ってくれたのかな」
「かもしれません」
「お母さん……は流石に違うなトワイライト夫人は厨房に立たないだろうし」
血を遡れば王家の流れをくむ女性だ。ともすれば厨房に足を踏み入れたことがあるかどうかも判断に悩む高貴な存在である。
「俺の指ほどもない小さな模型を、もし飲んでしまったらどうしようと思ったことを今も覚えています。ケーキそのものすら一度も食べなかったはずなのに、そんな心配をしていた」
瑠璃色の瞳が過去を写す。遠い日の思い出を浮かべる様子はどうしようもなく幼さを感じさせた。
ガレット・デ・ロワの中にはフェーブと呼ばれる小さな陶器の置物が入れられている。人によっては冬の日の幸福な記憶の象徴とも言えた。
「毎年、ケーキの底に仕込む前に何を入れるか教わりました。白いひげのサンタクロース、三人の賢者、ベツヘレムの星……」
彼は思い出をなぞるようにひとつひとつの単語を諳んじていった。
「あの模型は、きっとあの子が持って……いや、あの子にはきっと何てことはない小さな模型だ」
他者との交友のためではなく、水底に沈められた記憶を紐解くために言葉は重ねられた。
「写真だけがアルバムに綴じられて、クラウドに残って、万聖節が来る度に申し訳なくなる。あんな部屋に三人を縛り付けて、LEDキャンドルを灯す夕べを何度繰り返した」
ドガには似つかわしく無い単語が羅列されていくのを四人は黙って聞いていた。一度止めれば彼はもう二度とこの記憶を振り返ることはできないという確信があったからだ。
「家に帰って、すぐにでも馳走を味わいたかったはずだ。ケーキを食べて、眠りについて、翌朝には枕元に届くプレゼント……」
懺悔は続く。美しい顔(かんばせ)に泣き笑うように歪められた表情が浮かぶ。
「おれだけが余分だった。五つ下の、あの子の幸福のための結婚だったのに、どうして、どうして……」
青の瞳は乾いている。伏せた瞳に暖炉の火が写り、ゆらりゆらりとくゆっていた。
「弟がいたの?」
シャルロットからの問いに正気が戻ったのか、彼は頭かぶりをひとつ振った。
「……すみません、少し混乱しているようです」
エヴァン・トワイライトに弟はいない。彼には兄が一人いるのみで、親類にも歳の近い人物はいない。トワイライト夫妻は互いに初婚で愛人もおらず婚外子なども存在していなかった。
「お忙しかったのではありませんか、奥さまも心配なさっていました」
「あの人が私を心配しない日はないよ」
グラスを円卓に置いたイネスがエヴァンに労りの言葉をかける。すっかり屋敷でのメイドと若君の振る舞いになってしまっていた。
「酒の席だ。夜が明けても話を持ち出すような野暮もいないだろ」
「ロットの言う通り、気を楽にしてください」
「夢は無意識の願望、前世の残滓、記憶の整頓……説は多いが、どれを選んでも取るに足らないものだ。振り回される必要などない」
イネスもエヴァンを勇気づけようと口を開きかけ、噤んだ。彼女は夢を見たことが無かった。彼女にとって眠りは体と精神を休ませる時間にすぎず、三日に一度三時間程度瞼を閉ざしていれば済むことだった。
「無意識の願望であれば、危ういのではないでしょうか。居もしない弟を夢想して在りもしない罪に浸るのは不健全極まりない」
友人たちの言葉でもエヴァンの心が晴れることは無かった。他人への態度が毅然としているため表に出ることは少ないが、彼自身は自罰的な内面を持っていた。
「兄弟の一人や二人ねだるのは成長過程みたいなもんだ。在りもしない罪に浸るのは物語を読んでればよくあること…………ゼスト」
シャルロットの呼び掛けに応じてゼストが本棚の前に移動する。その隙に机に乗せていたガレット・デ・ロワは覆いをかけられ、暖炉の傍のスツールの上に安置された。
ゼストが数冊を抜き出して彼女が渡された本のページを捲って内容の確認をした後のち、書籍がエヴァンの前に並べられていく。
「……手習い用と言ったが、実際ここにある本は全て自分のものだ」
自身を形作る多くの嘘の内、取るに足らないものをシャルロットは開示した。この程度の事なら先々に支障は無く、己が彼らに心を開き始めているように見せるのに適格だと思えたためだ。
「勉強以外で本を読んだことは?」
「あまり無いです。兄は騎士道物語や冒険譚を好みますが、私はそれほどの余裕を持てなかった」
エヴァン・トワイライトは自身を凡庸な人間であると評価している。
人付き合いが得意でなく要領も悪いため自己研鑽に費やす時間が他人より多い。兄のジェラルドのように人に好かれ、余暇を持ちながら仕事に邁進することのできぬ男なのだ。事実がどうであれそれが彼の中での真実だった。
「余裕があるから読むもんじゃない。読みたいから読むんだよ」
「頼むから寝てくれ。食事を摂れ……」
ゼストの言葉の通りシャルロットは一度本を開くと深く物語に没入してしまい日常のあらゆることが疎かになる。夜になろうと枕元の読書灯で読み続け夜が明ければ灯りを消して窓辺に移る。本が汚れることを嫌がって食卓につくことも無くなり、ゼストが匙で口許に食事を運ばなければ水以外は摂らなくなる。その上遅読家なのでそんな日が何日も続き、読み終わると糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。
「最近はそんなこともないだろ?」
正確には病気を患って以来体に障る恐れがあるので読書自体を止めていた。
「まあ読んでみろ。一冊読む頃には馬鹿みたいにでかい船が欲しくなるし、裁いてもいない罪人の末路について考えることになる」
「虚構に振り回されることは人の常だ。他者に迷惑をかけていないなら止める理由も正す必要もない」
悪戯めいたシャルロットの言葉に次いで静かに告げられたフロワの言は不思議な実感を伴っていた。
「意味深長な夢が心に与える影響は強いですから。俺も夜中にひどい夢を見て目を覚ますことが多い」
眠りの浅いゼストは夢を見る機会も多い。日中考えていることもシャルロットの病状に関してが多いので必然的に夢にもその色が強く出ている。
寝台に敷布と同じ温度になって横たわるシャルロット。抱きしめても綿詰めのように力無くくたりとしな垂れるシャルロット。あの過去の日、間に合わず彼女を特別にせず生き続ける仮定の日々。その全てがゼストは怖かった。虚構も夢も知覚できるという点でなんら現実と変わりは無く、心を苛んでいく。
エヴァンにとっての救いは彼の罪が夢の中にのみ存在することだ。
「いっそ頭でも打つか? 首尾よくいけばすっきりするぞ」
「野蛮人が……」
いつもであれば更に二言三言ふたことみこと言葉を重ねるが、エヴァンの顔つきがそれすら辞さない覚悟を表していたのでシャルロットとフロワは口をつぐんだ。
(真剣な人間は手に負えないわね)
真面目であることと正しいことは等質ではない。取り返しのつかないことは必ずしも悪から生じる訳ではない。
「怖いことは、別の記憶で書き換えてしまいませんか?」
透明な声が夜闇を照らすように通った。調律されたピアノに似た音は、連なると輪舞の旋律を想起させた。
「記憶にも限りがありますから、楽しい思い出で上書きしましょう」
「荒療治ではあるが、殴打よりは有効だ。保証してやる」
「話の発端のガレット・デ・ロワもあることだしな」
暖炉の傍にどかしておいたホールタルトが再び円卓に載せられる。
「そもそもこいつにフェーブは入ってないけどね」
シャルロットの言葉にエヴァンが切れ長の目を丸くした。彼にとってはそれほどの衝撃だった。
「入っていないのですか?」
「入れてもいいけど神経を使うだろ。最初の一口で当たったら歯と陶器、どちらかが欠けるぞ」
「クリスマスでもないしね」
エヴァンの記憶は間違いなく万聖節でのものだが、生憎今は雪すら降っていない。
「入れるのは大きなナッツだっていい。思いきり噛み砕いて当たりを知らせればそれで済む話なんだ」
「俺たちが作るときはドライフルーツを刻んで、飴で固めて玉を作っています。流石に丸飲みしたら危ないですが、フォークでつついているうちに皿に転がってきます。綺麗ですよ」
二人にとって食事、特に夕食は幸福の時間だ。親しい人間と食卓につき、一日の出来事を報告し合い、食後の茶で気持ちを落ち着けて床に入る。粗食をよしとするこの国では蔑ろにされることが多い習慣だが、二人には関係がなかった。
「ああ、いいな。私もきっとそんな他愛もないことがしたかったんだろう」
もう二度と叶いもしない幸福を思いながらエヴァンは笑った。この世界で生き続ける限り届くべくもない感情に彼は区切りをつけることができた。
「あなた達は幸福を守るのが上手いんだと思います。私にはない才能で、そのことが少し羨ましい」
エヴァン・トワイライトは多くを与えられてきた人間だ。にも関わらず彼はそれらを享受することが不得手な青年だった。
「持ち合わせてるものが少ないからな。そりゃ必死にでもなるさ」
財産も名誉も権力も無い小市民である二人にとって今ある幸せをまもることは何よりも優先すべきことだ。そのためだけに二人は今も生きている。
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