第十六話
早朝から無理矢理に起き出すこともなく、穏やかな目覚めから二人の朝は始まった。二つの通りに挟まれた住処ではあるが、床板は分厚く建物が高いため下の通りの喧騒で眠りを邪魔されることもなかった。
「今日は店、どうするの?」
気だるげな瞳をそのままに少女は今日の予定を確認していく。シャルロットは睡眠時間が長く、寝入りも寝起きもぼんやりしている。いくら魘されようと眠りが深いせいで夜中に起きることもない。シャルロットの覚醒を待たず、ゼストは彼女の身支度を始めた。
「いつも通り開けておこう。休業の札を下げてる方が人が来てしまう」
客足は少ないが礼拝の日以外は欠かさず店を開けてきた。些細な変化にこそ人は違和感を感じるものだ。
左手でシャルロットの肩を抱き、腰を浮かせてベッドと背中の間にクッションを挟み彼女の身を起こす。ヘッドボードの抽斗の取っ手は小さく、中から取り出された女性用のブラシも併せてゼストの血管の浮いた骨ばった手とは不釣り合いだ。
短く切り揃えられた白茶の髪が豚の毛のブラシで梳られていく。寝相のいいシャルロットではあるが、流石に枕に直に触れる後頭部は癖がついてしまっていた。
マッサージを兼ねてブラシを滑らせながらゼストは項から旋毛にかけて走る傷跡を確かめる。ある事故の際に付いたこの傷はあまりにかすかで彼女の肌に残ったことを誰にも気付かれていなかったが、ゼストだけは一分の狂いもなく覚えていた。最後にピンで数ヶ所留め、少年らしい跳ねた髪になるようにセットしておけば髪型の準備は完了だ。
「お湯を用意するから、少し待っていて」
「ん……」
ベッドから離れ、炉から少し離れた場所に置かれた薬缶を確認する。彼女の支度に必要な水が残っていることが分かれば、あとは湯を沸かすだけだ。気泡の音に耳を澄ましていれば、背後からシーツが擦れる気配がする。
「そのままベッドにいていいのに」
「この間洗面器を引っくり返して、ひどいことになったじゃない……」
ランタンが昨夜のまま置かれているせいで手狭な円卓に突っ伏しながらシャルロットが答える。
「俺が片付けるからいいのに」
ゼストとしてはシャルロットの身の回りの一切を引き受けることは苦では無い。精神的に独立しすぎている彼女の牙城を崩せるのではないかという淡い期待を持っているため、その身の全てを預けてほしいほどだった。
自覚はないが他人の機微には疎いゼストにとってシャルロットの真っ直ぐに屈折した愛情はひどく読み取りにくいものだった。
(心が手に入らないなら、せめて体を……なんて三文芝居の役者崩れみたいだな)
自嘲めいたことを思いながら、上背を活かして梁から下がる吊り金具にランタンの取っ手をかける。ゆらりゆらりと揺れたのち、備え付けの照明のように馴染んでしまった。
「ほら、顔を洗って」
「ふぁ……」
小さな欠伸がひとつ落とされ、山吹色の瞳が開かれる。まだ瞼が重いのか、上弦の月を覗かせるに留まった。
本当は背中から手を回してシャルロットの顔を洗ってやりたいゼストだったが、皮の固い平らな指先では彼女の柔らかな肌を傷付けてしまうことを理解していた。
「タオル……」
「はいはい」
(蒸しタオルでも用意してあげたいけど、蒸篭が無いんだよなこの家。中華風の料理屋はあるからどこかには売ってるんだろうけど)
元よりシャルロットより早く起き出す習慣があるので朝の手間が増えることはゼストにとって苦にもならないことだ。
電子レンジでもあれば更に簡単に用意することができるが、そのような物が売りに出されたことは無かった。友人が思いつけば早晩に発明されそうだが、こればかりは待つしかなかった。
シャルロットが顔の水気を吸いとっている間に美容品が一纏めになっている小箱を取り出し机に並べていく。色取り取りの瓶や背の低い円柱状の粉入れの表面には葉っぱとも文字ともつかぬ洒脱な模様が走っている。
「前は青くなかったか、この瓶」
「ああ、季節に合わせてパッケージが変わるの。中身に変わりはないわ」
内容物に変更が無いにも関わらずデザインを変える理由がゼストには全く分からなかったが言葉を飲んだ。
眉間を揉むゼストに今日初めての笑みを浮かべたシャルロットが教授する。
「理由なんて可愛らしいから、くらいしかないわよ。下手に成分を変えられると馴染まないこともあるし」
白茶の髪が朝の光を受けて大気との境あわいを曖昧にしていく。星粒の光、永遠の白金。余人に讃美歌の旋律の色を尋ねられれば、ゼストはきっとこの色を指し示す。
「……まあ、可愛いことは一番重要なんじゃないかな」
他愛もない会話に抱えきれない幸福をゼストは感じた。男はこの日々が永遠に続くことを願いつつ、残された時間があまりにも少ないことに内腑を炙られるような心地だった。
「少しは分かってきたわね」
「気紛れに女の子のことを教えられていればね」
美容品を並べてしまえばゼストにやれることはない。寝乱れたシーツを直し、シャルロットの支度を待つ。
「おかげでこないだ買った花も、少しまけてもらえたんだ。話が楽しかったからって」
そうでなければ予算内で勿忘色の美しい花は手に入らなかっただろう。あの日、透き通ったガラス本来の輝きが特徴の一輪挿しに活けた花をシャルロットは気に入っていた。
四つ角を揃え、皺ひとつ無い寝台が完成し朝食の用意のため振り返ったゼストが見たのは逆光を背負ったシャルロットだった。
「……シャーリー?」
ただの位置関係の問題だ。窓際の机に着いているシャルロットが部屋の奥のゼストを見つめれば、必然的にこうなる。理性ではわかっていても背筋に伝う汗をゼストが止めることはできなかった。
「不正解よゼスト。私があなたに教えたのは女の子のことじゃなくて私のこと」
いつも浮かべる、嗜虐の入った自然な笑顔とも違う自らの意志で作った理想的な笑顔にゼストは怯んだ。
「他の女にちょっとでもこんな振舞いを見せてみなさい。あなたを道連れにしてやっても私は一向にかまわないの」
シャルロットには自信が無い。ゼストからの好意の発生は事故をきっかけとした、それこそ降って湧いた様なもので奇跡に等しいものと考えているためだ。
傍目にはシャルロットが犬のようなゼストを窘めつつ手綱を引いているように見えるが、実際に執着が強いのはシャルロットの方だった。
「シャル、シャーリー。俺が他の人間を口説いているのを見たことがある? 俺は誠実な男だよ」
ゼストはゼストでシャルロットの嫉妬をお嬢様育ち故に自分を優先しない人間が許せない性情と思っており、どこか噛み合っていなかった。
「誠実な男が誠実に生きていけるとは限らないの。――花屋の看板娘、あの子は随分察しが悪かったわね?」
週に一度、礼拝日の前日。閉店間際の花屋で花を買う習慣がゼストにはあった。花瓶は比喩でなく売る程あるためその点検と、体調を悪くすれば外出が難しいシャルロットへの気遣いを兼ねて活けているのだ。
「男が毎週花を買いに来て、その意味を解せないのは花屋として致命的だと思うの」
だがその気遣いは今完全に裏目に出ていた。
「勿論。あなたが類稀なる花好きで、古臭いドガで人目も気にせず花屋に通ってる可能性だって小指の甘皮ほどはあるけれど。そうじゃないでしょう?」
ゼストはシャルロットと籍こそ入れていないが、彼女以外と所帯を持つ気も無い。外野から見れば若い恋人の痴話喧嘩だが、潔癖な二人の認識としてこの出来事は不貞の疑惑である。そしてシャルロットは普段が大人しいわりに衝動性の強い人間だった。
「完璧に隠し通せるなら浮気を許す人もいるらしいけど、私は駄目ね。出来もしない計画で頭の中が埋め尽くされるわ」
ゆらりゆらりと定まらない山吹色の瞳が頭の位置も変えずに部屋の中を見渡す。勝手知ったる己の家で脳を埋め尽くす計画に使える品を見定めていた。台座のついた熊の置物。暖炉に立てかけられた火掻き棒。ゼストが手仕事に使う工具もあった。
どれが一番振り回しやすいかをシャルロットが考えていると、所在なく腿のあたりで揺れていた右手が掬い取られた。
「不快にさせてすまない。俺自身が君以外を恋愛対象に見ないから、向けられる感情にも疎くなってしまっていた」
一度愛する人間を決めれば、ゼストという人間は極めて一途だった。博愛が恋によって偏愛に裏返ってしまう性質はある意味厄介ではあったがシャルロットからすれば歓迎したい素質だ。
「あの花は誓って君のためだけに選んだものだし、接客してきた店員も女性であることしか覚えていないんだ。信じてくれ」
客観的に考えれば、今回の件は深刻になる必要もない日常の一幕だと二人は理解している。それでもどこかおかしくなってしまったお互いにとっては耐え難い出来事であることもまた事実だった。
「……次はないわ」
自分の悋気が穏やかであったはずの朝の時間を壊してしまった自覚のあるシャルロットは矛を収めた。
時間を大切にするべきであることは彼女も分かっていた。何か奇跡が起きなければシャルロットは次の春を迎えられない。今日のように体調がすぐれている日はもっと少なくなるだろう。ゼストとの恋は彼に苦しみを齎し続けている自覚があったからこそ。いずれ来る末期を理解しているからこそ。シャルロットも喜びの記憶を増やしたかった。
「シャーリー。昨日のロースト、パンに載せる?」
「バターだけでいいわ。まだあったわよね?」
朝の支度に戻ったゼストが甲斐甲斐しく朝食の準備を始める。少し冷えた主菜の皿が暖炉の近くに置かれ温められた。
「買ってきてるよ。じゃあ、サラダに添えるね」
「お願いするわ」
寝起きではあるが食欲自体はあるシャルロットにゼストは笑みを浮かべた。
(まあ、あの小さな口で具沢山のオープンサンドは厳しいだろうしな)
体格自体は平均的なもののシャルロットは全体的に小作りだ。指の爪も髪の毛の細さも真珠の粒のような歯並びだってゼストからしてみればビスクドールと変わりがなく自分と同じ人間なのか疑わしい程だ。シャルロットに言わせれば彼女より華奢であったり美しい女の子はたくさんいる、とのことだったが彼にとっての女性は彼女ただ一人だったので関係の無いことだった。
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