第十四話
この世界はゲームの中だ。「箱庭の雫」というゲームの中でもあるし、作中舞台においてもシャルロット達が存在するのは箱庭と呼ばれるオープンワールドだった。
運営は学習を重ねたAIによって行われ、余程の問題が無ければ人の手の介在が無いまさに箱庭と呼ぶに相応しき世界だ。
現在はプレイヤーの入植が始まるよりずっと前であるため、彼らを基準にすれば先史とも言うべき時代だ。人が操作するアバターは無く、自動生成されたNPCと特異なつくりのNPCで成り立っている。その基準に照らし合わせればシャルロットは前者のキャラクターに憑依しており、ゼストをはじめとした数名は後者に該当していた。
どうにか理由を付けてイネスをまいたシャルロットは地下の部屋で円卓に突っ伏して心を落ち着けていた。買い出しで手に入れた品物もどうにか取り戻し、東区に戻る頃には客を装って自宅に入る習慣を取り戻していた。
店員らしくシャルロットを笑顔で迎え入れたゼストは表の掃除を装って周囲の様子を確かめた後のち、彼女を会計台の下の扉に押し込んで早めの店仕舞いを行った。
「それでそのまま仲良くお買い物したのか?」
レモン水をコップに一杯。透明なグラスに注ぎながら尋ねるゼストは愉快そうな気配を隠しもしなかった。
「その半笑い止めなさいよ」
「ごめんってば」
こらえきれないといった調子で笑うゼストの脇腹をシャルロットがつつく。大げさに痛がるふりをするゼストを冷めた山吹色が睨み付ける。
「大したダメージもないんだからそのまま受けてなさいな」
長身のせいで相対的に細身に見えるゼストだが、その実鍛えられた体をしている。肉に指が沈むこともなく、むしろ気を付けていなければシャルロットの方が突き指をしそうな程だった。
「いやいや、君の指が細いから中々に痛むよ。ほら、機嫌を直してくれ。君が出掛けている間に仕込んだタルトが焼き上がったんだから」
冷めぬようキルトの覆いがかけられていたタルトがシャルロットのもとに運ばれる。プディング生地の上にブラックベリーが散らされただけの素朴なタルトであったが、彼女にとってこれ以上に心踊るものはなかった。
ナイフで切り分けた断面から湯気が立ち上る。バニラビーンズの甘い香りがシャルロットの鼻をくすぐった。
「絆されてあげる。早くサーブしてちょうだい」
窓辺のテーブルに澄まして座るシャルロットに対し、思わずといった調子でゼストの笑みがこぼれた。
「申し出た俺が言うのもなんだけど、お手軽すぎないか?」
「機嫌の悪いままでいたくなかっただけよ。タルトはへそ曲がりを直すきっかけ」
椅子に放られていた自身のストールを肩にかけながらシャルロットは窓を見やった。海が近い。
景色のよさはシャルロットも気に入ってはいるが、海風が強く吹き込むと窓の隙間から冷気が忍び寄ってくる。普段締め切っている場所なのでパテで塞ぐことも候補にいれたが、万が一に煙突が塞がった時に暖炉が不完全燃焼を起こせばたちまちに中毒を起こしてしまうだろう。かと言って下の通りの人間に空き家の飾り窓だと思われている窓が交換されれば訝しがられてしまうので階段の石壁のように修繕を諦めた箇所だ。
「あと何度あなたと食事をとれるかも分からないんだもの」
炉の火に水を投げ入れたかのようにゼストの体が冷える。いつかの路地で決心した復讐をシャルロットが果たしたのだ。
中天の太陽は輝きを増している。黄色い光が等しく頭上から降ってくる。
「この言葉が一番あなたへの薬になるでしょう」
ささいなからかいに男の心臓を磨り潰すことで女は応えた。矜持が故ではない。己のほんの気紛れで男の均衡を崩せるかの確認にすぎなかった。
「ひどい女だよ君は」
「今日が永遠に続いているって勘違いしていそうだったもの」
愛していることは、その相手を大事に扱うことの絶対の理由にはならない。
山吹色の瞳が光に照らされ、黄金色こがねいろが垣間見える瞬間をゼストは好いていた。昼日中の太陽が差し込んだ部屋で滑らかな頬に手を寄せ、丸い瞳を覗けばあたかも自分達がかけがえの無い一対であるかのように感じられる。その錯覚を二人は愛している。
ゼストがやわくシャルロットを抱き締めた。かすかな拍動を腹に感じながら、ゼストは言葉を紡ぐ。
「君の心臓が遠い」
「私たち、運命じゃないもの」
ゼストとて目の前の女が人でなしで、他人や己の人生の共就を微笑みと共に楽しむ性質を持っていることは百も承知だった。自分はいつか報いを受けると口にはしながら、信じていながら、裁きを逃れる術を心得ている女だった。
それでも彼は彼女を最愛に据えた。
「いつだって君は俺の手の平からこぼれ落ちようとするね」
「態とじゃないわ。死のうと思ったことなんて一度もない」
ただシャルロットは致命的に運が無かった。これまでの人生でも幾度か命を落としかけている。
転生先の世界が人死にのある乙女ゲームだったこともある種の不運ではあるが、そもそもにして前世の頃から賭けには弱かった。
(統一試験の過去問を早めにさらっていたのに、私が受験した年は形式が新しくなって全く役に立たなかったのよね)
シャルロットは柔軟な人間ではない。準備や心構えを行うことはできるが、不慮の事態には弱く即興も不得手だ。反対に己が想定できる出来事に関しては異様なほど肝が据わる一面もあったが彼女のかつての人生においてはあまり活かされなかった。
「死神を口説いたんじゃないか? 頼むからたぶらかすのは俺だけにしておくれよ」
「覚えが無いのだけれど?」
「じゃあきっと夢の中でだ。君は夢をよく見るけど、顔を洗ってる内に全て忘れるから」
シャルロットが覚えていられる夢は前世での記憶だけだ。いくら魘されようと、真綿のような幸福を味わおうと、目覚める頃には細部が薄れ朝食を摂る前に忘れてしまう。そのくせ悪夢を見た日は朝から体が強張り、ゼストに包まれていようと手指の先が冷え切ってしまうので判別が容易だった。
「夢で何かあったならあなたが気付かぬはずがないでしょうに」
眠りの浅いゼストはシャルロットの呼吸の音が変わっただけで目を覚ます。真夜中の病状の急変にもよく気付くことができるが、あまり有り難いとは思えぬ性質だ。
(この人の寝顔を、もうずっと見ていない)
かつて村で見たゼストの寝姿をシャルロットは思い出す。
ベルセウムの大樹の根元。穏やかな初夏の風を受けて眠っていた。今と比べればいくらかあどけなく、起きている時はいつだって笑んでいる口許は引き結ばれていて、弾力があるのにいつもと違う少しかたい感触が指先に伝わったことを彼女は覚えていた。
記憶の中の彼は夏の日差しがよく似合っていた。
「分からないよ。死神なら俺に化けるくらいは簡単だろうし」
「今まで私があなたを口説いたことがあって?」
「残念ながら無いね。記念すべき一度目を掠め取られたかもしれない」
いつもの調子で軽口を重ねていれば次第にゼストの緊張が解けていく。シャルロットがお茶の準備をしようと炉端にかけられた薬缶に手をかければ押し留められる。
「君を疑ったお詫びにお茶は俺が用意するよ。リクエストは?」
「……。マロウブルー」
「仰せのままに」
薬缶が火から遠ざけられ、お湯が別のポットに注がれていく。茶葉を収めている棚から青い缶が取り出され、一度小皿に取り出して花の数を確かめた後、ゼストはティーポットに茶葉を移した。
高温の湯で淹れると独特の色味が飛び、茎や葉の割合が高ければ他の茶と変わらぬ琥珀の水色が出てしまうのだ。湯を冷ましている間にレモンがぺディナイフで櫛切りにされる。瑞々しい酸味が目をしばたかせ、シャルロットを楽しませた。
厚みのある耐熱ガラスのカップが調理台に並べられ、湯通しをされる。布巾でカップの雫を拭う頃にはポットのお湯が丁度いい温度になっていた。
「どうぞ」
青が鮮烈な茶にシャルロットがひとくち、ふたくち口をつけ、瞬巡の後のちレモンを絞ればたちまちに淡い桃色になった。
「そのままの方が好みなのに、どうしてレモンを絞るんだい?」
ゼストの手元には蜂蜜の小瓶が置かれている。コーヒーもミルクと砂糖を加えた甘い口当たりにするのを好んでいるため、ハーブティーを淹れる際も蜂蜜を用意しているのだ。
「そんな気分だっただけ」
カップで指を温ぬくめながらシャルロットが答えた。
透明なガラスには白の透かし彫りで抽象化された柄杓や小熊が描かれている。ゼストが手掛けたものだ。
「オリオン座の見つけ方を知ってる?」
「……昔、教わったね。尤も夜になっても見えやしないだろうけど」
オリオン座は見つけやすい星座だが、季節によっては蠍座に取って代わられて見ることができない。神話を思い出しながらシャルロットは過去に思いを馳せた。
「今の時期なら南の空に琥珀星が見えるかしら」
空からこぼれる樹液のように輝く一等星。見つけやすく、他の星座を探す目印にもなる綺羅星をシャルロットは幼き日に家庭教師に教えられた。
「村にいた頃は夜に星が輝いていたのに、ろくに見もしなかったね」
「丘の上に行けば見れるかもしれないわ」
店の前の坂を上っていけばベンチが一つだけある展望台に辿り着く。見張らしが良くひと気も無いため、星見にはこの上ない場所だ。
「冷えた空気を吸い込めば君の喉が冷えてしまう。笛の音を俺に聞かせないでおくれよ」
男の哀願をシャルロットは受け入れた。病人はシャルロットの筈なのに、追い詰められているのはゼストの方だった。
(あのときの事故でも、この人は傷一つ負わなかった)
あの日、シャルロットが生きることができたのはゼストの存在あってこそだった。彼の矜持を曲げさせて、この世界で生きざるを得ないことを誓わせた呪われた日。
尤もその事故がなければゼストがシャルロットを唯一に据えることもなかっただろう。
「眠りの浅いあなたに免じて星空はお預けにしましょう」
「ありがとう。…………」
数度口を開きかけ、男は黙した。続く筈だった言葉をシャルロットは知っていた。
きっとこの男は約束がしたかった。女の病気が癒え、喉笛が風音を奏でぬ日が来たのなら、木々が芽吹き凍えぬ夜が訪れたなら、満天の星を眺めてみたかった。昼の内に微睡んで、チシャ菜やハムを挟んだバゲットを用意して。琥珀星が東の水平線から南の空に昇り、西の山際に滴り落ちるまでを見届けたかった。
「星はずっと輝いているでしょうね」
本来であれば何てこともない約束も今のシャルロットには交わせない。嘘つきの自覚がある彼女も約束には責任を持っていたかった。
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