とある老人の一服
誘蛾灯が橙色の光を放っていた。虫たちが集まる晩秋。
ひとりの老いた男、奥寺啓司が、黄泉之崎喫煙所に佇んでいた。年老いた奥寺の頬は痩せ、煙草を取り出した指先も骨張っていた。奥寺は咳き込んだ後、煙草を唇に咥え、火をつける。
紫煙をくゆらせれば、奥寺の隣にふっと、煙のように一人の青年が現れる。
奥寺は特に気にせず、煙草を吸い続けた。それから、言った。
「誠司」
誠司と呼ばれた詰め襟の青年は、虚ろな視線を持ち上げた。
そして感情の読み取れない表情で、言った。
「……僕を呼び出して、何のつもり? 父さん」
ハッ、と奥寺は笑う。
それから妻の忘れ形見の息子を見て、言った。
「まだ私のことを父さんなんて呼んでくれるのか。お前を救えなかったというのに」
その言葉に、誠司は唇を引き結ぶ。奥寺は、煙草を吸って、吐き出す。
秋の深まった夜は肌寒い。奥寺はそれでも、今この瞬間が、一番にあたたかな季節に思えた。
一人息子である誠司を失ってから、何年も、何十年も歳月が過ぎた。
「……僕が死んだのは、父さんの所為じゃないよ」
「子どもはそう思っても、親はそう思わないもんなんだ。……お前が自ら命を絶った日から、私の世界は止まったままだったよ」
飛び降り自殺だった。
暮らしていた団地の屋上から、ひとりで、誠司は飛び降りて死んだ。
その日、奥寺は会社で仕事をしていて、突然かかってきた電話で誠司の死を知った。
気付けなかった。一人息子の、SOSのサインが。
どうして誠司が命を絶ったのか。
調べるまで、時間はそう要らなかった。
息子の誠司は学校でイジメに遭っていた。
教師は「ただ男子が巫山戯ているだけだと思った」と言い、学校側はイジメの事実を完全に否定した。いじめっ子たちは、誠司の葬式にも顔を出さなかった。それどころか、いじめっ子たちの親は、誠司が勝手に死んだだけで、うちの子に迷惑をかけるなとさえ言ってきた。
それでも、奥寺は諦めなかった。
「ようやく、認めさせたよ」
奥寺の言葉に誠司が目を見張る。奥寺は煙草を吹かしながら、時折、咳き込む。
肺がんと宣告されてから、もう半月は経っていた。
「お前を自殺に追いやったヤツら、全員、お前の墓前で土下座させた。どうだ。気弱で頼り甲斐のなかった父さんにしちゃあ、随分頑張ったほうだろう?」
それは最早、執念だった。
奥寺は人生を賭けて、謝罪を求めたのだ。
いじめっ子たちへと何度も会いに行った。いじめっ子たちが高校卒業しても、大学進学しても、就職しても、結婚して家庭を築いても──奥寺は諦めなかった。
とうとう折れたのは、彼等も人の親になったからか。
それとも、奥寺の執念が勝ったのか。
「教師や学校に謝罪させられなかったのは悔しいが、これでも父さん、頑張った方だと思わないか?」
「何で……どうして、そんなこと」
「……そうだな。私も許されたかったのかもしれない。お前に」
乾燥していた目元に皺を浮かべ、奥寺は微かに笑う。
その瞳は薄く水の膜がはっていた。
「僕なんて忘れて、さっさと再婚して、子ども作れば良かったのに」
「それは無理というもんだ。私の息子は、世界でおまえ一人だけだから」
誠司は目を見開いて、奥寺を見遣った。奥寺はくつくつと笑いながら、煙草を吸う。
もう残り時間は殆どない。この時間も、奥寺の人生に残された時間も。
それを惜しむように煙草を吸う。何十年ぶりかの煙草。誠司を失ってからは、ずっと絶っていた煙草は、これで最後になるだろう。もうこの先、吸う事はきっとない。
「私の息子は、自慢の息子だった」
独白のように奥寺が告げる。誠司は首を横に振った。
「そんなことない。僕は、弱いから死んだ。弱いから父さんにも言えなかった」
「違う。お前は戦った。戦い抜いて、死んだ。優しいから私にも言わなかった。それだけだ」
「負けたんだよ……僕は……」
「なら逆転勝ちだ。父さんが、最終的に勝った。お前の仇はとったぞ」
本当は殺してしまいたかった。
けれど、それはいじめっ子たちと「同類」になることだ。息子を殺した人間達と同じすがたになって、天国にはいけないと思った。こうして誠司と再会することもないと思った。
ただ、
「私は、生涯、私のことを許せんだろうな……」
奥寺の言葉と共に、ほろりと、灰が落ちる。涕涙のように。
誠司はその言葉を聞いて、はじめて、ふと、微笑んだ。
「それなら僕が、父さんを許すよ。父さんは──自慢の父さんだ」
奥寺を思わず顔を上げて誠司を見る。誠司は穏やかな表情をしていた。ああ、この顔だ。妻によく似た、やわらかい笑顔の子ども。私の子ども。
「誠司」
手を伸ばそうとする。
だが、煙草が燃え尽き、誠司の姿は夜風にはこばれ、消えていった。
奥寺の伸ばした手が、宙を掻き、だらりと力なく下ろされた。
何十年も溜め込んでいた涙が、決壊する。
奥寺の年老いて渇いた頬を濡らす涙は熱く、拭っても拭っても零れていった。
満月がそんな奥寺を、優しく照らしていた。
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