とある喫煙者たちの一服


 煙草なんてもう吸うつもりはなかった。

 元々、亡くした恋人の玲那が愛煙家だっただけで、拓真自身には喫煙の習慣はない。どちらかといえば、恋人の吸う姿を眺めるのが、拓真の愛する習慣だった。今は煙のように消え失せてしまったけれども。


 拓真は池袋駅東口喫煙所に辿り着くと、恋人が吸っていた銘柄の煙草を懐から取り出した。

 煙草に火を点けて、まだ慣れない動作で煙を吸って吐き出す。冬の青空に立ち上っていく煙を眺めながら、黄泉之崎喫煙所のことを思い起こす。


 煙草一本だけの刹那の逢瀬。

 あの再会がなければ、今こうして作家として小説を書き続けられなかったかもしれない。


 あれ以来、黄泉之崎喫煙所には訪れていない。

 何度行っても会えるのかもしれないが、それは甘えだと思った。何より、死者は眠らせておくべきである。天国の花畑で楽しく遊ばせてやってもいい。

 兎に角、もう死者は生者のものではないのだ。生者が死者のものではないのと同じように。


 拓真がそうして煙草を吸っていると、隣にいた男が短く舌打ちした。見遣ると、どうやら何度もライターの火を起こそうとしている。けれど百円ライターの寿命がきたのか、カチン、カチン、と空回りするばかりで火花が散るだけだ。


「あの、すみません。よければこれどうぞ」


 拓真が持っていたライターを手に男に声をかけると、男がこちらを見る。鋭い目つきをした、背丈の高い男性だ。威圧感があって、少し気圧されそうになる。


「ああ、すまねぇな。借りるぜ」


 男はそう言うと拓真の手からライターをとって火をつけた。煙をくゆらせながら煙草が吸えた男は、あんがとな、とライターを拓真に返した。


「……もう吸わないつもりだったんだけどな」


 ぼそりと呟いた男の言葉に、拓真は思わず反応した。


「奇遇ですね、僕もです」


 男の夜の底のような瞳が、拓真に向けられる。


「兄ちゃんもなのか。そうか。禁煙失敗か?」

「いえ、元々喫煙者じゃないというか……ちょっと吸わなきゃいけない時があって、それで吸ってから、なんとなく惰性で続いてしまっていて」

「なるほどな。俺も似たようなもんかもしれねぇ」


 そう言う男性の瞳は少し寂しげに見えた。まったく自分とは違うタイプの人間のように思うのに、拓真はどこか、この男性に奇妙な親近感を抱きはじめていた。


「あなたも煙草を辞めたかったんですか?」

「そうだな。色々と、思い出しちまうもんがあるから辞めようと思った。でも結局俺は何一つ変わらなかった。……いや、ひとつ変わったものはあったな」

「へえ、そうなんですか。いいことですね」


 拓真が素直に感想を告げると、男は目をぱちくりとさせたあと、クツクツと肩を揺らして笑った。


「いいこと……そうだな、いいことかもしれねぇな」

「何かおかしなことを言いましたか?」

「いや? 生き方が変わった。これを良いことだというなら、いいことだろ」


 トントン、と灰皿に男は灰を落とし、愉快そうに目を細めた。

 生き方か、と拓真は思いながら煙草の煙を含む。確かに、自分も変わった。

 それきり男との会話は途切れてしまった。喫煙所でこうして会話をする経験も、恋人である玲那を喪うまではなかった経験だ。

 

 ふと、隣に痩せた老人がやってくる。老齢の男性は拓真の隣に立つと、煙草を吸うわけでもなく、ただぼんやりと青空を眺めていた。もしかして、煙草をきらしているのだろうか。

 気になってつい、拓真は声をかける。


「あの、煙草きらしているんですか? 銘柄違うのでもよければ、一本いかがですか?」

「ん? ああ、すまないね。気を遣ってもらって。ただ禁煙中なんだ」

「おいおい、じいさん。禁煙中なのに喫煙所に何で来てるんだよ?」


 会話が聞こえてきたのか、隣の男が口を出してくる。

 すると老人は皺の刻まれた顔に、やわらかい微笑を浮かべる。


「もうこの前吸ったので、最後の一本にしたんだ。ただ、喫煙所が懐かしくてなぁ。つい、こうして訳も無く立ち寄ってしまう」

「変わった趣味のじいさんだな。老い先短いんだから吸っておけよ」


 結構な言いようである。拓真が老人が気を悪くしていないかとハラハラしていると、老人は声を上げて笑った。


「老い先短いから、あの時吸った最後の一本を大事にしたいんだよ」


 笑ったあと、老人は咳き込む。少し苦しそうだ。大丈夫なのだろうか。けれど本人が好き好んでこの場所に来ているというのなら、拓真に口出す権利はない。喫煙所での出会いなど、その程度のものなのだ。

 刹那の時間を共にし、糸のような関係を結び、それまた千切れ去って行く。

 まるで人生の縮図だ。


「その最後の一本、どうしてそんなに大事にしたいんですか?」


 作家の好奇心が疼いて、拓真が尋ねてみると、老人は目を細めた。遠くを見ていた。


「大切な思い出があるんだ。もう長くないなら、あの一本を私の最後にしたい」


 その言葉に、微かに隣の男が目を見張った。その鋭い瞳に、ゆらゆらと、何かの感情が泳いでいた。

 かと思えば、男は煙草を灰皿に押しつけ揉み消した。


「兄さん、火、ありがとうな」

「え、ああ、はい」

「それとじいさん。あんたの煙草論、一理あるな。俺も最後の一本は決めておく」


 じゃあな、と言うと男はコートのポケットに手を突っ込んで喫煙所から去って行った。


「私もそろそろ行こうかね。混んできたことだし」


 喫煙所に雪崩れ込んできた集団を見て、老人もまたそう言って去って行った。

 寒い寒いという集団の声を聞きつつ、ひとりきりになった拓真は煙草を吸う。

 恋人を亡くすまで、煙草の味なんて知らなかった。

 それ以上に、煙草を吸っているときに、恋人の玲那が何を考えているのかも分からなかった。だけどきっと彼女は、煙を纏いながら常に何かを考えていたのだ。今の拓真のように。

 世間は嫌煙の流れがきていて、拓真もいつかはその波に流されていくのだろう。


 煙草といういつか滅びる文明。

 そうしたらあの黄泉之崎喫煙所も、風化して、消え去っていくのだろう。


 それこそ、吸い終わったあとの煙のように。どこかに流されて。

 

 拓真は短くなった煙草を揉み消し、喫煙所を後にする。

 失われるものがあるのは、哀しい。

 けれど失われるからこそ、得るものもある。


 だから作家である自分が、どこにも流されぬよう、書き留めていこうと思った。

 これからも、あの喫煙所での一服を、生涯忘れないように。





-------------------


お読み下さってありがとうございました。

よければフォロー、☆の評価など頂けるととても嬉しいです。


長編→https://kakuyomu.jp/works/16818093089621414233

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

■■県■■市黄泉之崎喫煙所【短編連作】 朝桐 @U_asagiri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ