とある恋人たちの一服
黄泉之先喫煙所は、森閑とした山道の合間にある。
日が暮れると誘蛾灯が灯り、羽虫たちを集めている。電気の熱で灼かれた虫は、イカロスのように大地へと落ちる。音も無い死を横たわらせて、物言わぬ死骸はやがて夜風に吹かれて何処かに消える。
斉藤拓真は緩やかにカーブを描く夜道を歩きながら、黄泉之先喫煙所へと向かっていた。電車とバスを乗り継いで二時間半。噂を聞きつけて此処に来た。季節は夏であったが、黄泉之崎の夜は冷え冷えとしていた。
拓真がここまで来たのは勿論、亡くした人間と言葉を交わすためであった。
黄泉之崎喫煙所では、煙草を吸っている間だけ、死者と再会できる。
その、にわかには信じがたい噂を信じて、拓真はやってきた。
雨風で褪せた屋根の下までくると、拓真は小さく息を吐き出した。これがもし嘘だとしても、矢張り、緊張はしていた。鈍い銀色の灰皿のそばに立って、煙草を咥える。慣れない動きだ。何度も隣では見てきたというのに、拓真の喫煙はたどたどしかった。
闇夜にぽう、と赤い光が灯って煙草の先に火がつく。
ゆるり、と煙が立ち上って、その煙の先がやがて違う煙と交錯した。
思わず隣を見遣れば拓真の隣に、いつの間にか、会いたかった女性が立っていた。
生前と変わらぬ、小粋に煙草を指で挟んでいる恋人に、拓真は思わず声を上げる。
「玲那……」
玲那と呼ばれた長い髪の女性は、拓真とは対照的に慣れた様子で唇に煙草を咥え、肺に煙を取り込む。拓真もその様子を見て、慌てて煙草の煙を吸い込む。と、同時に思い切り噎せ込んでしまった。
隣の玲那から、からから、と景気の良い笑い声が聞こえてきた。
「慣れないことをするもんじゃないよ、拓真」
げほ、げほ、と咳き込みながらも、どうにか拓真は煙草を落ち着いて吸い直す。今度は、それなりにうまく吸うことができた。
「おや、案外上達も早いもんだねぇ。流石、私の喫煙姿をよく見ていただけある」
「……そうだね」
本当に、よく見ていた。
二人で中古の、平屋建てを借りて暮らしていた。玲那はよく、縁側で煙草を吸っていた。結婚する予定だった。だが結婚する前に、玲那は事故で亡くなった。飲酒運転のひき逃げだった。煙草を買いに行った帰り道のことだった。
「それで? 私に何か話したい事があるんだろう?」
玲那は猫みたいな瞳で拓真を見た。本当に、猫みたいに気紛れな女性だった。
拓真は煙草を咥えたまま、鞄に入った分厚い原稿用紙の束を取り出す。
それから、一度、煙草を指に挟んで告げた。
「受賞したんだ。念願の、小説家になれた」
告げた瞬間、玲那が、ほう、と感心したように紫煙と共に息を吐き出した。
「良かったじゃないか。おめでとう、拓真。夢を叶えられたんだね」
「そうだね。そうだ。叶えられた」
でも、と拓真はくしゃりと皺が寄るほど強く、原稿用紙を握った。
「1番読んで欲しい、君がいない」
拓真が絞り出すように言った声に、玲那は何も言わなかった。煙草の煙を吐き出して、吸って、また吐き出して。煙の行く先をぼんやりと見詰めていた。
「玲那。君がいたから、僕は夢を叶えられたんだ。君に、1番に読んで欲しかったんだ。世界中の誰でもない、君に僕は読んで欲しかった」
デビューしたら読ませるよ、なんて。甘ったれたことを恥じらいから口にしていた。受賞した先の未来も、玲那が共にあると信じてやまなかった。
人の命のはかなさを、拓真は、知らなかった。知りたくもなかった。
「……それは困ったねぇ」
とんとん、と灰を灰皿の底へと落とす。
「ここのルール的に、拓真の書いた小説を読んでいる時間はない」
煙草はもう半分以上、燃えて灰になっていた。時間がない。圧倒的に、時間がない。拓真は泣きたいような気分になった。折角再会できたのに、恋人に、自分の作品を読ませてやることもできない。
絶望と失望が胸に去来した。そんな拓真に、玲那は煙草の煙を吐き出して告げる。
「拓真。甘ったれたこと言ってるんじゃないわよ」
「え……」
玲那の瞳が、拓真を見た。その目には生者のように強い光が灯っていた。
「あんたは小説家なんでしょ。なら、私じゃない。読者と自分の為に書くんだ。それが作家というものでしょう? 違う?」
「それは……」
「ずっと言っていたじゃない。誰かの心を救うような作家になりたいってさ。拓真が向かうべきは死者の私じゃない。生者の誰かなんだよ。あんたは、明日もこれからも生きていくんだから」
玲那の言っていることは、尤もだった。煙草の煙の先が燃える。ああ、時間がない。あまりに時間がない。また別れてしまうことが、こんなにも寂しい。けれど、それならと拓真は零れそうになった涙を腕で乱暴に拭って、原稿用紙の冒頭を読み上げた。
「──人の生とは、はかないものです。けれど人との思い出は、鮮やかに残り続けます。それはさながら、夜明けの陽射しのように。夜明けの空のように」
綴った冒頭文は、紛れもなく玲那に向けて書いたものだった。それだけは理解してほしかった。玲那の生は、はかなくも散ってしまったが、思い出は夜明けの空のように鮮やかに色づいていた。
煙草はもう、数センチも残っていなかった。拓真は玲那に向き合う。
「君のこと、忘れない。作家としても、ひとりの、恋人としても」
すると玲那は満足そうに笑って、煙草を揉み消した。じゅ、という小さな音と共に、玲那の姿は煙のように夜の闇に消えていった。
消えた瞬間、拓真は抑えきれなくなった涙を、今度こそ嗚咽を上げて流した。
煙草なんて嫌いだ。
君が煙草を買いに行ったから。
でも、煙草を吸う君は、いっとうに好きだった。
君がすぐそばにいるような、そんな気がしていたから。
幸せだったから。
黄泉之崎喫煙所に穏やかな夜風が吹く。
拓真の涙で濡れた頬を、まるで優しく女性が撫でるように。
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